第2話 切れないもの
ミレナは採用された。
仕立屋の親方が、軍の納入を引き受けていた。作業を分けてもらってきた縁で実物を見てもらい、後方の修繕班へ入った。
俺には妻の勤務先を保証する署名だけ求められた。手先が器用だと口添えしようとしたら、面接係は本人の縫ったものを見たと答えた。
「包帯も扱う。出発前に、医術師の説明を聞いてもらうから」
ミレナは隣で頷いた。
俺の馬車には乗らなかった。修繕班は糧食と医薬品の車列に加わり、俺たちは先に出て道を確かめた。
夕方の宿駅で顔を合わせるまで、彼女と話す時間はなかった。
食事の列に並ぶと、妻は袖に糸くずをつけていた。
「ついてる」
「どこ?」
自分で払うつもりらしい。俺は袖の場所を指で示した。
彼女はつまみ取り、指先に巻いた。
「道は、どうだった」
「一頭、荷馬が逃げた。荷より先に、そいつを追いかけてた」
「捕まった?」
「ああ。俺よりいい草を食ってた」
妻が笑った。
汁椀を二つ受け取り、空いた所へ座った。夜空の下でも、人が詰まって座れば、それなりに暖かい。
彼女の肘が俺の肘へ当たる。
家なら、このあと同じ部屋へ戻れる。でも今日は、班ごとに寝る場所が決まっていた。
食事が終わり、別々の方向へ立とうとした時、俺はミレナを呼び止めた。
「眠れそうか」
「たぶん。あなたは?」
「見張りが一回ある」
「朝、寝坊しないでね」
「起こしに来るなよ。男ばかりだ」
「行かないわよ」
ミレナはそう言い、去る前に、俺の手へ一瞬だけ指を触れた。
家を出てきたのだと、その時になって感じた。
*
集合地へ着いた翌朝、俺は医術師に呼ばれた。
サビナという女だった。俺より二十ほど上で、術を試す前に人の飯と睡眠を確かめる。
「犬の結びを見てほしい」
診療用の天幕に、小さな白い犬がいた。
腹に包帯を巻き、寝床の端を顎にしていた。俺がしゃがむと鼻を動かしたが、尻尾は上がらなかった。
横にいる若い通信係が、犬の頭へ手を伸ばす。
「俺の使い魔です。傷は塞がったんですが、離れると、また弱るんです」
俺は犬の首元を見た。
結び目が二つあった。
一つは、通信係へ繋がっている。もう一つは犬の胸の奥で、細く、ほどけかけていた。
「治すのに、魔力を使いすぎたのか」
通信係が頷いた。
元は普通に生まれた犬だった。魔力で匂いを追う使い魔に育て、怪我を治す際にも主人の力を使った。そのせいで、自分の命を保っていた働きが、主人から流れ込む力へ頼りきっているのだという。
「これを切れば?」
彼が自分へ繋がる側を指した。
「今は、切れない」
俺は答えた。
「外すのは、紐だけじゃない。こいつがその力で生きているなら、急に止めれば死ぬ」
サビナが頷いた。
「だから、少しずつ、自分で保てるようにする。食べて、眠って、動く。その間に、外からの分を減らしていくの」
「何日かかる」
「この子なら、前に自分で生きていた体がある。一週間か、もう少し。熱と食事量を見ながらね」
若い通信係が、ほっと息を吐いた。
俺は結びを弱める場所を示した。主のほうから加減できるなら、俺が切る必要はない。まず自分の流す量を落としてみることになった。
天幕を出ると、ミレナが布の束を持って立っていた。
医療班へ届ける包帯らしい。
「聞いてたか」
「入口で、少し」
「使い魔だからって、何でも術で済むわけじゃないんだ」
ミレナは天幕の中を見た。
「最初から、誰かの魔力で生きていたものは?」
俺は彼女を見た。
「さあ。元の働きがないなら、あの犬より難しいだろうな」
「そう」
「どうした」
「何でもない。届けてくる」
ミレナは布を抱え直し、入口へ向かった。
彼女が話を聞いていたことを、俺は帰り際にサビナへ伝えた。患者の家族の前で、余計な質問をしたかと思ったのだ。
「あの子の質問なら、別に。あなたの奥さん?」
「ああ」
「よく食べさせなさい。手が冷えきっていたわ」
俺は分かったと答えた。
*
診療天幕へ包帯を運び終えたミレナに、俺は水を一杯もらった。
後方の班は、まだ竈を組み立てているところだった。雨で薪が濡れ、火がつかないと料理係が困っていた。
「術で、乾かせないのか」
若い荷役の男が俺を見て言った。
「俺の術は、切るだけだ」
「便利なようで、不便だな」
「そのとおりだ」
俺は言い、薪を運ぶのを手伝った。
ミレナは濡れた束を見て、料理係から小刀を借りた。太い薪を割って内側を少しずつ削り、細いものを膝の上へ集める。
「前に、宿でやったわ。中まで濡れてないものを、先に燃やすの」
俺も小刀を取り、同じように削った。
妻ほど細くはできなかった。出てきた木片を見せると、もう少し薄くと言われた。
料理係が受け取り、火をつけた。
小さな炎が上がり、次の薪へ移る。
俺は手のひらを見た。親指の脇へ小さな棘が刺さっていた。
「貸して」
ミレナが針入れを出した。
「自分でできる」
「じゃあ、右手に針を持って。左のここを押さえて」
俺はそのとおりにし、途中で無理だと分かった。
妻は笑わず、手を取った。棘を抜き、水で洗う。
「それで、あとで剣を握れる?」
「ああ」
「なら、よかった」
彼女は手を離し、針を拭って片づけた。
夕飯ができると、俺たちも列へ並んだ。
器へ落ちた汁の中に、削り損ねた薪の匂いが、少し混じっているような気がした。
討伐隊の指揮官は、ダニエルといった。
俺たちは十数人の小隊に分けられたが、魔王の居城へ入る主力は、さらに人数を絞るという。
「後ろには村がある。敵を追い払って終わりではない。道を押さえ、住民を逃がし、糧食を通す。その仕事を放って、城へ走るな」
集合した者たちを前に、彼は地図を広げた。
城の外壁の手前に、深い堀があった。
魔術師のルーカスが指でなぞる。
「外壁の守りを弱めるには、南と東の高所を取る必要がある。そこで術を使っている魔物を退ける。そのあとで、本体を囲む」
俺は地図を覗き込んだ。
「俺は外壁か」
「最初は、そうだ。ただ、本体に近づけたら、命令の結びを切れる可能性がある。近づく役も、準備しておいてくれ」
俺の力で切れるのは、目で捉えられる結び目だった。
離れた所にいる主と使い魔なら、使い魔側に見える輪を切ることはできる。だが、主の側に根が残ると、時間を置いて再び結ばれてしまう術もある。
根ごと断つには、両方を近くで見る必要があった。
魔王の命令で動くものを、一度に自由にできるかもしれない。
俺は自分の名の横に書かれた配置を確かめた。
「守りを切ったあと、敵の魔物は全部倒すのか」
隣の若い兵が尋ねた。
ルーカスは首を振った。
「もともと野にいた獣を、術で従わせているものもいる。命令の分だけ切れれば、逃げるものもいるだろう。離れていくものを、追って村へ走らせるな」
「襲ってきたら?」
「その時は自分たちを守れ。全てを一緒に扱うな、ということだ」
若い兵は頷き、手元へ何か書いた。
俺も、初めて隊へ来た頃、同じような質問をした。
動くものを全部止めれば、道が安全になると思っていた。実際には、止めた荷馬車の下で子供が泣いたり、追い散らした獣が別の道へ出たりする。
自分が切ったあと、誰が片づけるのかを、知らずに帰ることもできた。
トマスは、そういう時に俺を呼び戻した人だった。
「仕事は終わった。けど、帰る前に、あそこの車輪を起こせ。俺一人じゃ上がらん」
そう言われて戻ったことが、何度もある。
俺は地図を閉じる前に、荷の退避場所をもう一度確かめた。
それから、頷いた。
ミレナの班は、そこから二つ後ろの宿駅に残る予定だった。
俺は帰りに、それを伝えた。
「ここから先、一緒には進めないらしい」
「うん。聞いた」
「前が落ち着けば、修繕の仕事で移ることもある。けど勝手に抜けるなよ」
「抜けない」
彼女は俺の上着のほつれを見つけ、針を出した。
俺は脱いで渡そうとしたが、そのままでよいと言われた。動かないで、と。
彼女の顔が近かった。
針を持つ手は、昼より少し温かかった。
「帰ったら、あの布を切るわ」
「ああ」
「だから、食卓の上に物を散らかさないでね。大きく広げるから」
「俺が散らかす前提なのか」
「前にも散らかした」
俺は黙った。
妻が小さく笑い、糸の端を切った。
その音を聞きながら、俺は次に帰る家のことを考えていた。




