第1話 二人分の朝
魔王を倒せば、妻も死ぬ。
そう告げられた日に、俺が思い出したのは、あの男の顔でも、魔物に焼かれた町でもなかった。
朝の食卓で、俺の皿へ人参を戻す指だった。
「それは、そっちの鍋から入ったものだ」
「あなたのお皿へ、私が入れたの」
妻は自分の皿を少し遠ざけた。
「食べられないわけじゃないでしょう」
「食べなくても死なない」
「昨日も残した」
そこまで覚えているのかと顔を上げたら、ミレナは匙を持ったまま、黙って俺を見ていた。
俺は人参を食った。
それが、招集の届いた朝だった。
*
俺たちの家は、町の西の城壁に近かった。
階下にパン屋があり、朝は床の隙間から焼ける匂いが上がってくる。夏には暑すぎるのが難点だが、冬は火を焚かなくても部屋の隅まで冷えきらない。
食卓は脚が一本短い。俺が削って直そうとしたら、ミレナは紙を噛ませるだけで済ませた。
「あなたが削ると、今度は反対側を削るでしょう」
俺は否定しなかった。剣を使う仕事をしているからといって、刃物仕事が全部うまくいくわけではない。
俺の仕事は、荷馬車の護衛だった。
ただし、王国の討伐隊へ召集された時には、そちらが優先になる。魔物が道を塞いでいるのを退けるのも、糧食を前へ運ぶのも、似たような仕事だと思っていた。
大きく違うのは、隊での俺の役割だった。
魔法で結ばれたものを、切る。
扉の鍵を閉じ込めた術。足を捕らえる呪縛。魔物とその主の間に伸びている、命令のための結びつき。
そういうものを、俺は見ることができた。
何もない空中に糸が浮いているわけではない。近くへ寄って集中すると、結ばれた箇所が視界の奥で引っかかる。ほどけかけた縫い目を見る時の感じに近い。
剣を当て、魔力を流して切る。
生き物の身体を、何でも切り分けられる力ではない。俺自身がどこで間違えるか知っているから、初めて見た術には、むやみに手を出さなかった。
ミレナにも、そう説明していた。
「今日は北の道?」
「ああ。夕方には帰る」
「昨日、雨で橋が傷んだって聞いたわ。パン屋の旦那さんが」
「見てから決める。無理なら宿駅で止まる」
妻は頷き、包んだ昼飯を俺の手へ押しつけた。
指先が冷たかった。
冷えやすい人だと、出会った時から思っていた。夏でも、眠る時には俺の腹へ足を寄せてくる。俺が声を上げると、寝たふりをする。
俺は彼女の手を両手で挟んだ。
「火の前へ行けよ」
「今、行くところ」
「俺が出てからだろ」
「あなた、靴紐が片方ほどけてる」
俺は手を離し、足元を見た。
玄関へ向かって歩き始めた時に、扉が鳴った。
*
使いは王国軍の印を持っていた。
受領の署名をしたあと、俺は机の上で封を切った。春の討伐隊を東へ集める。集合は六日後。契約した術者の一人として、俺の名がある。
魔王の居城へ続く道が、ようやく開いたらしい。
昨年まで幾つもの村を奪っていた魔物の群れは、冬の戦いで押し戻されていた。今度は追い払うだけでなく、本体を倒すための隊になる。
ミレナは流しの前に立ったままだった。
「長くなりそうだ」
俺は書面を見せた。
彼女は覗き込んだが、受け取らなかった。
「いつ、出るの」
「四日後だ。まず集合地まで二日。そこから先は、現地で聞く」
「……分かった」
ミレナは流しへ向き直った。
食器の触れ合う音がした。普段より、少し大きかった。
俺は書面を畳み、仕事先へ断りを入れに出た。
北の道は別の護衛へ回されることになった。俺が出発するまでの三日間は、町の中で荷下ろしを手伝う。留守の間の家賃は足りるが、帰る時期が延びるかもしれない。手元に残す金を少し増やしておきたかった。
昼過ぎ、軍の窓口へ行った。
受付に座っていたトマスは、俺の顔を見ると、椅子を軋ませた。
「また呼ばれたか」
「ああ」
「奥さんは?」
「知らせた」
「知らせただけか。帰って、ちゃんと話せ」
右手だけで書類を揃えながら、彼は言った。
左の袖は肘より上で折られ、留められている。
一年と三か月前、北へ向かう道で隊が襲われた。先頭の馬車の車輪が壊され、崖側へ避けた彼は、そこで待っていた魔物に腕を奪われた。
命は助かったが、護衛には戻れなかった。
今は受付と、帰還した者の記録を担当していた。見舞いへ行った俺に、書類の字が読めない連中ばかりだと文句を言った人だ。
「新婚だろ」
「もう半年だ」
「まだ半年だ。持って帰るものも書いとけ。薬と金だけじゃ、家に戻ったことにならん」
俺は受付の机にある花瓶を見た。
小さな白い花が三本。彼の妻が、朝に持たせるのだという。
「何を持って帰ればいい」
「俺に聞くな。お前の奥さんだろう」
そのとおりだった。
*
帰り道、布屋の前で足を止めた。
窓に、薄い黄色の布が下がっている。
前にミレナが見ていたものと似ていた。家の窓に掛けるものを縫いたいと言っていたが、俺が留守にしている間に別の客が買い、結局間に合わなかった。
俺は半端に残った一巻きを買った。
家へ戻ると、妻は荷物の前に座っていた。
俺のものではなかった。
「一緒に行くつもりか」
「行きたい」
俺は布を机に置いた。
「前へ出るのは俺だけでも、後ろが安全とは限らない」
「分かってる」
「炊事の人間も、今回は軍が決めて連れていく。家族だからといって、入れるわけじゃない」
「裁縫の募集もあるわ。パン屋の奥さんが、募集の札を見たって。包帯や、軍服の修繕をする人」
ミレナの前には、針入れがあった。
町の仕立屋から仕事を分けてもらっていた。俺の上着の繕い方より丁寧で、ボタンが取れて帰ると、つけ直す前に一度だけ俺を見る。
「面接を受けるのは、止めない。ただ、俺の名は口添えに使わないでくれ」
「うん」
「断られたら、家で待っていてくれるか」
彼女は少し黙り、頷いた。
俺は椅子を寄せた。
「何が一番、嫌だ」
「あなたが、帰ってこないこと」
口にするのが難しかったのか、彼女は少し言い直した。
「一人でここにいると、あなたが帰ってこないことばかり考えるの」
俺は彼女の手を取った。
冷たかった。けれど、夕方まで火を使わなかっただけかもしれない。
「必ず、とは言えない」
「知ってる」
「帰るつもりで行く。無茶をして、名前だけ残す気はない」
妻がようやく顔を上げた。
俺は机の上の包みを引き寄せた。
「これ、窓に足りるか」
ミレナが布へ触れた。
指先で端を伸ばし、少し透かすように見る。
「足りる。残りで、食卓の敷物も作れる」
「そっちは、汚れるだろう」
「洗えばいいの」
彼女が言ったので、俺は頷いた。
出発の前夜、俺は家計の帳面を出した。
ミレナは針仕事を止め、向かいへ座った。家賃、パン屋への支払い、冬の薪に積み立てていた分。俺の留守が長くなると、手をつける順番も変わる。
「ここへ、何も書いてない」
彼女が指したのは、俺が出先で使う金だった。
「余った分で、足りる」
「足りなかったら?」
「隊で飯は出る」
「靴が壊れたり、風邪をひいたりしたら」
俺は彼女を見た。
「修繕くらい、自分でできる」
「あなたの縫い目、歩くと開くでしょう」
否定できなかった。
ミレナは積立の欄から、少し俺のほうへ移した。
「これも、家の分。あなたが帰ってくるために使う分だから」
俺はその金額を見た。妻は、それを貸しにする顔をしていなかった。
「一緒に行くなら、お前の分も要る」
「私の手当は、私が受け取るわ。まだ分からない分は、あとで書く」
彼女は帳面へ、日付を書いた。
字が少し傾く。名前を書く時と、同じ癖だった。
俺は自分の名前を、その横へ並べた。
家を借りた日に、契約の書面へ二人で名を書いたことを思い出した。ミレナは紙をよく読んで、冬の隙間風の修繕を大家へ頼んだ。俺は窓の穴を見逃していた。
俺一人なら選ばなかった家だった。
一緒に住み始めたのは、一年ほど前。結婚したのは、その半年後だった。
今はここが、自分の帰る場所になっていた。
その夜、俺が眠りかけた頃、妻が寝台を抜けた。
水を飲みに行ったのだと思った。
暗がりで、彼女が左の手首を握っていた。昔の火傷だと聞いていた細い痕が、薄く光って見えた。
「ミレナ?」
「糸が、引っかかっただけ」
彼女は机の上の布へ手を伸ばした。
俺は目を閉じた。
翌朝、黄色い布は、まだ切られずに置かれていた。




