院長経歴②
少しずつ医療小説っぽい単語が増えてまいります。
そのうち、医療用語の説明をあとがきに加えようかと思います。
【根ノ国大学病院】の小児科医局に入局した後。彼女は決して目立たず、チャネリングで担当患者の病態悪化を感じ取ることがあっても、上手いこと同僚や上司にサポートやアドバイスを受けた体で診療を熟しておりました。
出る杭は打たれ、目立てば晒され、仕事ができれば仕事が増えていく。
常に「周囲のおかげです。私なんてまだまだ」と外部研修帰りの彼女は謙虚な姿勢を示し続けていたのでした。
しかし、大学病院の小児科に入局した以上は、スキルアップもキャリア形成も図っておきたいというものです。というより、それが大学病院で務める意味と価値でございます。彼女も他に漏れず、小児科の専門医を取得し、サブスペシャル領域の専門医を目指そうとしておりました。そのために必要な症例のレポート作成や論文、他者評価を指導医とともに計画的に行っていたのでございます。
しかしながら、人生はうまくはいかないもの。
何の論文を書こうか、指導医と議論をしていた時に、チャネリング予後予測が発揮されてしまったのでございます。
ある当直の日。産婦人科より出生時の啼泣が弱かった新生児の診察依頼がきました。彼女の指導医も同じく当直でしたから、2人で診察に向かいます。
しかし、彼女がその患者を診察した際に、チャネリング予後予測が発動してしまいました。それは、最悪と言ってよいほど悪い予後を感じさせられるものでした。
彼女が第6感が脳に伝える印象から導きだした診断は、【脊髄性筋萎縮症】でした。
―――筋緊張の弱さがそこまでではないので、おそらくはⅡ型だと思うが、チャネリングで感じる予後不良感からはウェルドーニッヒホフマン病の可能性が捨てきれない。進行を確認してから、遺伝子検査を行って、仮に診断がついたとしても、その頃にはベッドで寝たきり、人工呼吸器装着だろう。2歳を迎えることは難しいかもしれない。
新生児室から小児科の医局に戻るまでの間に、彼女の頭の中で、暗黒の思考の渦がぐるぐると渦巻いていたのでございます。
渦から脱するためにも、最悪からの回避、診断への最短経路の思索、治療の提案を行わなくてはいけません。彼女の持ちうる知識を総動員し、指導医に声をかけたのでございます。
「拙い知識で申し訳ありませんが、あの子はフロッピーインファントではなかったでしょうか?」
「そこまでは感じなかったが、確かに筋緊張は弱かったね」
「筋力の低下があるように、私は感じられました」
「私もそう感じた。明日の朝、カンファレンスで議題にあげよう。小児神経科の結先生が、筋生検に長けていらっしゃるからお伺いをたてようか。葛尾先生は、明日のカンファレンスの時の発表資料を―――
「……あの、先生。【猪ノ鼻大学病院】でフロッピーインファントの遺伝子検査と治験が計画されていると学会誌にありました。そこに連絡を取ってみてもよろしいでしょうか?」
「……ええ?いや、私じゃあ決められないかな。小児神経科にお伺いしないと。何事にも順序があるからね」
「……はい」
年数を経たとしても指導医が後期研修1年目の彼女よりも、医者として出来ているとは限らないこと。大学病院の上下関係の重視と縦割りの構造が、答えへの到達を遅らせたこと。この2つがこの子の予後の決定的な打撃となったのでした。
結局、5か月後に未頚定の精査と誤嚥性肺炎の治療のために入院となった際に、ようやく遺伝子検査にたどり着き、脊髄性筋萎縮症Ⅰ型と診断されたのでした。診断後、家族からヌシネルセンナトリウムの投与は【猪ノ鼻大学病院】で行いたい、と強い希望があり転院となったのでございます。
そうなると邪推する者が出てくるというものでございます。
「葛尾先生。先生が患者家族に他院を薦めたんじゃないですか?」
「……小児神経科の先生からの指示もないのに、私が説明を行うはずがありません」
「本当?最初に診察した時に言ってなかった?」
「あの時は、その方が良いかな、と提案したまでです」
「……ふーん」
実際には患者と彼女の間にやりとりはありませんでした。しかし、閉鎖空間である医局内で、噂が出るとあっという間に広がり、彼女は大学病院での後期研修を送る空気ではなくなったのでした。
結局、後期研修の初年は論文も書けず、指導医との関係もギクシャクしたままとなり、そのことから人事調整が行われ、2年目以降はサテライト病院へ人事異動となったのでございました。
結果的には、彼女にはそちらの方がよかったのでした。
しかし、彼女の中にあった医療に対する熱意に翳りがみられるようにもなってきたのでした。




