第4話 ミス・ドクター
ノベルはヒストの紹介で、「ドク」と呼ばれる女性に会う。
先日ヒストが情報を渡したラクが、消息を絶った。それについて、ルイという男性が、ヒストに依頼を持ち掛けた。
どこかゆったりとした所作で、女は事務所のベルの紐を引いた。
その女の美しい横顔や豊満な胸、ゆるくウェーブを描く長い黒髪などは14区の路地にふさわしくは無い。どちらかと言えば王城のある1区か、若しくは娼館のある8区あたりがよく似合っていた。しかし、その左頬の目尻から唇の端あたりまでの縫合痕だけが、女のありかを示しているようだった。現に、男を誘うような容姿の女に対し、隣の酒場の客たちは見向きもしない。
来客を知らせるベルの後、その女の耳に届いたのは、小走りの軽い足音だった。
すぐに開いた重い扉に、女は眉を顰めた。ヒストの足音ではない。来客中だったか、それとも教会に見つかりでもしたのかと、内心警戒を向ける。
しかし空いた扉から顔を覗かせたのは、ガタイのいいヒストの仕事相手ではなく、そして最悪の場合として想定していた教会の人間でもなかったので、女は目を瞬かせた。
「あの、ご用でしょうか?」
そう女に問うたのは、淡い色のジャケットを着た背の高い少年だった。
「…君は何?」
少年の質問には答えないまま女が問いかけたが、それに気を悪くする様子もなく、少年は答えた。
「従業員の、ノベルです」
少年…ノベルは、自身を見て驚く女に、内心首を傾げた。
もっとも、ノベルを見て驚いたのは、女が初めてではない。ここに来るのはヒストの顔見知りが殆どだ。来客がある度不審な顔をされたり、相手によっては教会の人間ではないかと疑いさえもかけられた。
しかし女は、ノベル自身を不審がっている様子はない。大きい荷物は何だろうか。不審物の可能性は?
あの、ともう一度ノベルが女に声を掛けようとすると、女はノベルの首元に手を伸ばし、そのハイネックを捲った。
「…え、」
呆然と、ノベルは呟く。そこにあるのは、ヒストから隠せと指示されている、所有印。
「あの、」
「…ヒスト、アンタ!」
叫んだ女は、ノベルを引き摺る様に事務所内に押し入った。ノベルと比べて背の低い女に引かれ、ノベルは足元を崩す。
女を止めるべきかノベルは迷ったが、ヒストが気だるげに顔を上げたのを確認し、されるがままに引きずられる形でヒストの机の前に着く。
「どうしたのよ、これ!」
これ、と女はノベルを指したが、その時には既にヒストは手元の書類に視線を戻しており、「拾った」と返した。
「ふざけないで」
「買った」
「どこから」
「伯爵」
そう、目を合わせないままヒストが返すと、漸く女は呆れたように、「伯爵卿なら、仕方ないけど…」と呟いて、ノベルの首元から手を離した。
「…変に足を付けるのはやめなさい。ただでさえアンタは…」
「それはいいだろ」
そう、ヒストは顔を上げて、女を睨んだ。
「なあ女史先生、あんたを呼んだのは説教されるためじゃない」
「じゃあ何?暇じゃないんだけど」
女がとげのある言い方でヒストに問いかけたが、ヒストは、「悪いな」と、諦めたように返した。或いは単に、その応答に飽きただけなのかもしれないが。
「依頼はそれの右手の治療と、その他、特に右脚の診療。対価は…」
「薬草の浄化」
そう、女は持ち物の中から、丁度大きめの本ほどの麻袋を1つ取り出して、ヒストの机の上…更に言えば、そこにある書類の上に置いた。
薬草の多くは毒性や依存性が強く、人体へ使用する際は浄化の必要がある。
しかし、魔力が無いと、それらの浄化はできない。貴族以外で魔力を持つ人間は、通常教会に所属する。先程ヒストは女に対し治療や診療を依頼した。このことから、女は医者か、それに準ずる職に就いていると考えていい。そして、ヒストと親しい様子からして、表の人間ではない。教会を通しての薬の入手は、彼女にとって危険が伴うのだろう。
そもそも、教会送りになっていない魔力持ちなど、奴隷として暫く裏社会にいたノベルでさえ聞いたことが無かったが…目の前の男とは、果たして。
ヒストはため息をついてからその麻袋を手に取り、中身を見てから、もう一度息を吐いた。
「…ぼったくりだろ」
「文句言うならやらないわよ」
「ドクおねーちゃんおねがーい」
わざとらしく両手を組んで女…ドクというらしいが、本名ではないのだろう彼女を見上げたヒストに、ドクはただでさえ縫合痕により歪んでいる顔をさらに歪ませて、「キモ…」と呟いた。
しかし、そのヒストの態度に呆れたのか、或いはそれ以上ふざけたヒストの相手をしたくなかったのか、「行くわよ」とノベルに声を掛けたドクは、そのまま事務所の端、書架の横にある扉に向かった。
「ああ、あと、」
そう、ヒストは女の背に声を掛けた。
「あんたの服、処分してそれの部屋にしたから」
その言葉に、女は「は?」と呟いて足を止める。そして数秒後、その言葉をかみ砕き終えたのか、ヒストを振り返り。
「2袋追加!」
そうヒストに向かって麻袋2つを投げつけた。片方は机の上の書類の上に辿り着きそれらを床に散らして、もう片方は、女の言葉に振り返ったヒストの顔面に当たった。
「ヒストさん!?」
ノベルが悲鳴に近い叫び声を上げたが、ヒストの元に向かうよりも早く、女はノベルの服の首元を引っ張った。
「この悪徳医者!」
「服代よ!」
去り際にそう叫び、ドクは、ノベルを置いて階段を駆け上がった。風で舞い上がった髪の隙間から、右耳に付けられた、白い石のイアリングが揺れたのを、ノベルは確認した。
所有者と、所有者と親しいらしい女性に対して思うことではないが、正直、大人げない。
しかしこれまでのヒストの言動が大人らしいかと問われれば、確かに冷静ではあったが、同時に自由奔放であったため、ノベルは諦めて、ヒストに「失礼します」とだけ声を掛け、扉を閉めてから、ドクの後を追った。
先程の会話の内容から、ドクは以前まで、現在ノベルが使用している部屋を使っていたようだが、それにしても姉弟ではないだろう。容姿を比べてみても、似ている要素は無い。まさか、男女の仲では無いだろう。そのような関係であれば、冗談であったとしても、姉と呼ぶのは抵抗があるはずだ。単に親しいだけの協力者か?
そんなことを考えながらノベルが2階の居間につくと、ドクは椅子を引いて、ノベルに「座って」と声を掛けた。ノベルが「はい」と返し軽く頭を下げてから、椅子にジャケットを掛けて座ると、ドクはその正面に座った。流れるように、ノベルの右手をとって適当に巻かれていた布を解き、アルコールで拭いてから包帯を巻く。アルコールは染みたし、右手はまだ痛みを伴ったままだったが、生活に支障が出るほどではなかった。
それから触診やいくつかの問診を受けていると、階段を上がる足音がノベルの耳に届いた。顔を上げると、ヒストは、どこか気だるげに息を吐いた。
「女史先生、終わったか?」
ヒストに声を掛けられ、ドクは書類に何か…その内容はノベルには理解できなかったためわからないが、恐らくノベルの診療に関することを書き込みながら、目を合わせずに「大体はね」と返した。
「結果は…」
「それよりアンタは?」
そうドクに遮られ、ヒストは舌打ちをしたが、「あとは日に当てて乾燥」と言いながら、右手に持った麻袋をドクに渡した。
「毒素はこっちな」
そう、ヒストはポケットに入れていた、片手に収まる程度の小瓶をドクに渡した。ドクはそれを受け取り、その中の液体を光に翳すように、持ち上げて軽く揺らした。毒素とは言っても、緑色のそれはノベルには単に植物の色としかわからなかったが、それはノベルに魔力がないからか、若しくは単にノベルの知識不足であるのか不明であった。
「…アンタ帰ったほうが良いわよ、才能あるわ」
そう真顔で言ったドクに、「俺に死ねと…?」と驚愕したようにヒストが呟いた。
しかしやはり冗談であったのか、ドクはそれ以上反応せず、「診断結果だけど、」と話を切り替えた。
「足の怪我で神経が駄目になってるわね。あとは軽い栄養失調…」
そう言ってから、ドクは軽く首を傾げ、椅子に座ったままヒストを見上げた。
「伯爵卿から買ったのよね?あの人にしては、ここまで管理が甘いのは珍しい気がするけど」
そう問われ、「ああ…」とヒストは呟いた。
「伯爵も買ったばかりだったらしい」
そうだよな?とヒストに問われ、ノベルは「はい」と短い肯定で返した。実際、ノベルがローゼ伯爵の元にいたのは1週間程度だった。怪我の原因もそれより前であるし、いっそ、1週間も不良品の面倒をみた…主に世話をしていたのは使用人であったので、「面倒をみさせた」というのが正しいが、ローゼ伯爵は、寛大と言っていいだろう。
ドクはヒストの言葉を受けて、数秒何かを迷ったようだが、「まあ、」と書類のうちいくつかをヒストに押し付けた。
「市井の人間じゃ珍しいことじゃないわよ。飼い犬の世話は飼い主がしなさい」
そう、ドクはノベルを飼い犬と比喩したが、ヒストはそれには特に反応を示すことは無く、「ああ」と返しながら書類を受け取って、目を通してからドクに返した。
ノベルは自身の右手を首筋に這わせた。襟の下から、微かなしびれが脳に伝わる。実際のところ、これは首輪と似たようなものだろう。寧ろ、愛玩動物と揶揄されるだけ、扱いは良好だ。
そう考え、ふと、ノベルは内心に疑問を抱いた。ヒストはノベルに対して、普通の人間のように接する。しかし、貴族でないからという理由で所有物の扱いになれていないわけではなく、先日10区で1人を殺そうとした…実際殺したのはノベルであったが、その手段として所有印を選んだ。彼の中で何か、所有物に対する扱いについての基準があるのか?そうだとして、ノベルの扱いがまとも…ある意味で異常である理由は?
そこまで考えて、ノベルは小さく息をついた。いくら考えてもこの男が理解できるはずもないし、何なら、気まぐれ以外の理由が思い浮かばない。「助手が欲しい」とは言っていたが、その立場に、ノベルでは明らかに能力に不足があり、それは、ローゼ伯爵にも指摘されていたはずだ。
「なあ、ところで…」
そうヒストがドクに声を掛けようとしたとき、来客を告げるベルの音が、階下から微かに届いた。
「…ノベル」
「はい」
ヒストに声を掛けられ、ノベルが応対に向かう。その背を眺めながら、「アンタねぇ…」と呆れたように呟いたドクを無視し、「ところで、」とヒストは話を戻した。
「彼は…」
そう呟くように言ってから、ヒストは、眉を顰め、目を逸らした。それは後悔しているようにも見えたが、ドクは、それには何も言わず、「悪化してはいないわよ」と返した。
「よくなってるわけでもないけどね」
そう言ってから、ドクは数秒迷い、「ねえ、ヒスト」とその顔を覗き込んだ。それでもヒストが視線を逸らすので、その両頬に手を当てて、強制的に目を合わせる。
何かを迷っているのか、悔やんでいるのか、それとも、恨んでいるのか。
いろいろな感情がごちゃ混ぜになったその表情は、しかし、幼い子供の癇癪のようでもあった。
「殺すなら、アンタの手で殺しなさい」
ドクがヒストにこの言葉を掛けるのは、これが初めてではなかった。
しかし、ヒストは、愕然としたように目を見開いた。
魔力を持つのだから、ヒストが望めはドクなど簡単に弾き飛ばされるだろう。そうでなくとも、生まれ持った性による筋力の差があるはずだ。しかし、ヒストは何も抵抗せず、その腕を動かすことすらせず、されるがままになっていた。
「…わかっている」
そう呟いたヒストの声は、しかし苦し気で、ドクはつい、その両手を放してしまった。
何と、声を掛けるべきか迷った。しかし、その間に、ヒストは逃げるように階下へと向かった。
ドクはひとつ、ため息をついてから、書類と、余った包帯や薬と、それからヒストから受け取った浄化を終えた薬草と毒素を回収して、ヒストの後を追った。
ノベルが来客の応対の為扉を開けると、そこに立っていたのは、薄い笑みを浮かべる、丈の長い黒服に眼鏡の、細身の男だった。
どこかで見たことがあると感じ、ノベルは内心首を傾げた。直後、ヒストに買われたその日に、隣の酒場で会った男だと理解する。前回会ったときは座っていたし、それ以外のことに気を取られていたので気付かなかったが、この黒服は、役人の制服か。
「ええと…あの、ヒストさんにご用でしょうか?」
ノベルが声を掛けたが、男はそれには返答せず、ノベルをまた、じろりと見つめた。
「…まだ捨てられとらんのか」
「あ、はい」
咄嗟に、そう返した。親しいわけでもない相手に対しこの物言いはどうかとは思ったが、それに関してはノベルも同意だった。
男が一歩踏み入れたので、ノベルは下がった。あの時の会話からしてヒストと親しい様子であったし、事務所内に入れても問題ないはずだと判断して。
「…ルイさん?」
背後からの声に、ノベルは振り返った。そこには、丁度事務所に戻ってきたらしいヒストがいた。ヒストはそのまま応接用のソファに座る。ノベルは、ヒストの斜め後ろに立った。初めは、これはヒストの指示によるものだったが、その意味を、ノベルは今、ふと、理解した。書架に近く、且つ、ヒストからも離れていない位置。
「…ラクさん死んだ?」
「多分な」
先日、ヒストは依頼人に裏切られた。あの時はあちらが手を出す前に動けたからよかったが、ここで行動を起こされたら、ヒストが逃げ切ることは困難だ。証拠はここに腐るほどある。だから、それを止めるための役割。或いは、ヒストが、その身だけでも逃げ切るための、時間稼ぎだろう。
そこまで考えて、ノベルは、軽い調子で知人の死について問うたヒストを見た。それはまるで天気の話でもするように滑らかに、しかし、ヒストの生来のものか、微かな闇を纏っているようでもあった。
少なくとも、この男を相手にしている時は、警戒を解いてもいいだろう。若しくは、この男に怪しまれないよう警戒するべきか。
初対面の時、この男…ルイは、ノベルに対して、「ヒストを裏切るな」と言った。ヒストの前では柔らかい話し方をするにも関わらず、ノベルに対しては、刺すように冷たい声で。
ノベルは、ヒストを裏切ることはできない。
「そうか、残念だ」
真顔で言ったヒストに、「冗談言いおって」と、ヒストの対面に座りなら、ルイはくすくすと笑ったが、ヒストはそれを軽くいなし、「何の用?」と聞いた。
「慰謝料なら払わないけど」
「それはこっちが払う側やな」
ラクは払わんかったやろ。そう言いながら、ルイは懐から取り出した小切手をヒストに差し出した。
ラクは、以前ノベルに脱獄のルートを問うた男性だった。そういえば初対面の時、ラクとルイは、同じテーブルにいたはずだ。
「弟の面倒は僕が見んと」と呟いたルイに、ヒストは小切手を受け取りながら、「とんだ反抗期だな」と薄く笑った。
兄弟ではないだろう。体格のいいラクと細身のルイは全く持って似ていないし、そもそも、恐らくだがラクよりもルイの方が若い。舎弟の意味か?
受け取ったそれを見たヒストが、顔を歪める。
「…多くないか」
「僕の依頼料やね」
「ふっざけんな誰が受けるか」
押し返しされたそれを受け取らないまま、両手を軽く上げて、ルイはまた、小さく笑った。
「ええやん、話だけでも聞いてや」
「絶対嫌だ」
まるで、子供の駄々だ。
ノベルは小さく息をついた。ヒストが自由奔放なのは今更である気がするが、中途半端な情報や虚偽のそれを流すことはあっても、依頼自体を突っぱねたことは、少なくともノベルの知る中では無い。
ふと、事務所の奥にある扉が開いた。そこから姿を現したのはドクで、先程までの騒ぎ声が大きく扉の向こうまで聞こえていたのか、呆れたように、ヒストを見た。
「話くらい聞いてあげなさいよ」
「…何でこの女がおるねん」
ルイはそう、驚いたように、かつ不満げに眉を顰めた。「いちゃ悪い?」と返したドクは、そのままヒストの背後に回り、その小切手を覗き込む。
「いいじゃない、ヒスト、これ受けなさいよ」
「何であんたが決めるんだよ」
そう返したヒストは、しかし数秒の沈黙の後、ため息をついて「…聞くだけ聞いてやる」と返した。
「ルイさんの依頼嫌なんだよ…」
そうヒストは呟き、ドクとルイが味方になることは無いことを察してか、ノベルを見上げた。
「聞いてくれノベル、俺はこの人の依頼のせいで5回死にかけた」
「はぁ…」
何と返すのが正解か。
そもそも、ヒストが今まで何度ルイからの依頼を受けているのかわからないのだから、ノベルには何も言いようがない。
「…その子困っとるで」
見かねたらしいルイが助け舟を出したが、ヒストは「別にどうでもいいだろ」とそれをあしらった。
「…なあ君、困ったら僕が飼たるからな」
「俺の飼い犬を裏社会に勧誘しないでくれ」
「アンタも同類でしょうが」
そうドクに言われ、ヒストは心底嫌そうに、しかしどこか呆れたように顔を歪めた。それにルイは、「心外やなぁ」と小さく笑った。
「僕はただのお役所のお兄さんやで」
「ただのお役所のお兄さんはここに来ないだろ」
ヒストにそう返されたが、ルイは、それが何か面白かったのか、また笑った。
「…それで?」
ヒストは、笑うルイを無視して、そう問いかけた。「依頼内容は?」
「ん?そうやね…」
そう、ルイは迷う仕草を見せた。
「王都地下、嘗ての緊急避難路について」
そう、ルイは告げた。
ヒストはそれに、ルイをしっかりと見て、目を細めた。
「…ラクさんの件か?」
「せやで」
真顔になるヒストと、不審そうに眉を顰めたドクとは対照的に、ルイは微笑を絶やさないままだった。
「…ノベル、地図」
「はい」
声を掛けられ、ノベルは書架へと向かう。地図は先日ヒストが取り出すのを見たから、場所は覚えている。
手に取った冊子を差し出すと、ヒストは、それをテーブルへと広げた。
「…あんたは知っていると思うが、一応。1区の周りの森に、数か所、柊が植えられている個所がある。それが出入口への目印だが、現在王都内で使用できるのは2か所、それぞれ4区と5区付近。1区内にも数か所あるが、数年前に壊されている。本来は貴族連中の魔力認識が鍵となっていたが、既に機能はしていない」
そう、ヒストは地図を指さしながら説明した。
「死ぬなら出入り口に辿り着くまでだと思っていたが…」
「最初は僕もバックレたんかと思たんやけどな」
そう、ルイが否定した。
「一応確認しよ思たら、脱獄自体は成功してたんよ。せやけど、郊外に出た情報が見つからん」
「…通路の中で死んだってこと?」
「さあなぁ」
ドクに問われたが、そう、ルイは返した。若しかしたら、既に何かを知っていて、言葉を濁したのかもしれなかった。
「…それ知ったところで、」
そう、ヒストは、どこか呆れたようにルイへと声を掛けた。
「お役所のお兄さん的にはどうするつもりだよ」
出所不明の死体が増えるだけだろ、とヒストは言った。どうやら、依頼を断る理由を探していたようだったが、ルイはにこにことしながら、「どないしよ」と返した。
考えていない、わけではないのだろう。ヒストに言うつもりがないだけだ。
ラクがヒストに依頼をしたのは3週間ほど前だ。実際にいつラクが行動に移したのかはわからないが、ルイがラクの不在を不審に思い、脱出の成功と噂の確認を済ませるまでを考えると、少なくとも1週間は経過しているはず。
「…まあ、行ってみるしかないな」
そう、ヒストは呟いた。「受けるの?」と聞いたドクに、「ルイさんの依頼にしてはマシだしな」とヒストは返す。
「…なあルイさん、女史先生、あんたたちも来るのか?」
そう、ヒストは、ドクとルイに問いかけた。「じゃあ行こうかしら」とドク、そのすぐあと、「僕は仕事やからねぇ」とルイ。
恐らくルイは、仕事というよりも、ドクと行動を共にすることを避けたいようだったが、ドクはそれを一瞥するだけで言及はせず、ヒストも「そうか」とだけ返した。
「じゃあ、後で気が向いたらここに来るか、俺に声かけてくれ。その時に結果は渡す」
「仕事中でもええか?」
「新手の自殺願望か?」
間髪入れずに返したヒストに、ルイは、冗談だったのだろう、くすくすと笑って、「じゃあ頼むわ」と告げた。
「ラクたち計5名の死亡の証明」
お掃除が必要なら言ってくれればこっちでやるで、とルイは言い、片手を振りながら事務所を去った。
数秒の沈黙を置いて、最初に口を開いたのはドクだった。
「…相変わらずうるさかったわね、あれ」
「あんた第一声それかよ…」
呆れたように呟いたドクに対して、それ自体に呆れたらしいヒストが返した。
「…まあ、取り敢えず行くか」
そうヒストは呟き、ソファから立ち上がって、書架を眺め始めた。どうやら、必要なものを選んでいるらしい。
「…ノベル、上着着て来い。あと…」
ヒストが目線を、書架から扉の横のポールハンガーにずらす。何かに使ったのか、大抵はそこにあるはずの、ヒストの鞄がなかった。
「ついでに俺の鞄も。部屋にある」
「はい」
ついで、というには、ヒストのそれは3階なのだが。しかし、それに反論する権利はノベルには無いし、もし仮にあったとしても、反論する程度のことではない。
大人しく2階への階段を上り、椅子の背もたれから自身の上着を回収して、3階へと向かう。
3部屋あるうちの、右手側奥がノベルの部屋、そして、手前がヒストの部屋だ。しかし、この時ノベルが3階に着くと、その左手側の扉が少しだけ開いているのが目に入る。
ヒストが何かに使ったのか?
それは、好奇心だった。誰に見られているわけでもないのに、ノベルは、恐る恐るその取手に力を入れた。
視界に映ったのは、ベッドと、机と、書架。机の上には、タイプライターがあった。クローゼットの扉は締まっていて中身は確認できないが、入り口近くのポールハンガーにかかっているのは、コートだった。それはヒストの着用しているものとは違って黒く、サイズもヒストに合うものではない。これがヒストやノベルのものと同じ、クロスが仕立てた特注品だと仮定すると、恐らくノベルと同じ程度の身長の、それよりも体格のいい男性。
それでいて、その部屋に、生活感は無かった。
ノベルは内心首を傾げたが、それでも取り敢えずはヒストの命令を果たさなければならず、その扉を元に戻して、ヒストの部屋へと向かう。ヒストの言ったとおりに、先程の部屋と似た位置にポールハンガーがあり、その下段には鞄があった。その部屋に入ることに、命令されているにも関わらず少し申し訳なく思いながらも、ノベルはそれを手に持った。
ノベルが事務所へと戻ると、そこではまだヒストが本を選んでいた。ドクはそれに呆れた様子であったが、慣れているのか、ヒストが選んだそれらを、彼の代わりに抱えていた。
ノベルに気づいたらしいドクが、振り返り、肩をすくめる。
「ノベルくん、これ鞄に詰めてくれないかしら?」
「はい」
そう返し、ノベルはドクから受け取ったそれらを、ヒストの鞄に仕舞った。比較的小さめのものが一冊に、大きい書籍が2冊。
「ノベル、これも」
「はい」
ヒストに差し出され、古びた書籍を受け取る。表紙の文字は掠れて読めなかった。案の定、表紙が開く様子は無い。
「…多くないですか?」
そう、ノベルは問いかけた。それは自分が持たされることになるであろう荷物が重くなることに対する文句ではなく、単なる疑問だ。
先日も史学者としての仕事で外に出たことはあったが、その時は、ヒストは大した荷物を持たなかった。あの時は依頼人がいたから警戒のためということも考えらえるが、ある程度の情報は彼の頭の中に入っているのではないか?
「建国史に関わるからな」
そう、本を選び終えたらしいヒストは、上着に袖を通しながら返した。
「必然的に量は多くなる」
「アンタ得意分野じゃない」
「流石の俺も全部は覚えていない」
そう、ヒストは言った。
ドクは何か茶化そうとしたのか、言葉を掛けようとしていたようだが、ヒストのその声が平坦だったことで、ヒストが謙遜をしているわけではないと察し、押し黙った。
ヒストは先程「ルイさんの依頼にしてはマシ」だと言ったが、比較対象はともかく、もう使われていないとはいえど、嘗ては王族が使用していた緊急避難路だ。ある程度の危険は伴うと考えていいだろう。
ノベルは、無意識のうちに首元へと指を這わせた。包帯越しに触れるのは布地だけで、皮膚にも、傷口にも触れることは無い。
「ノベル、行くぞ」
ヒストに声を掛けられて、はっとした。
「はい」
短い返答に満足したのか、ヒストは、あっさりと目を逸らした。
成瀬です。
今更ですが、「新暦」「旧暦」という単語が作中登場します。新暦は現在使われている歴であり、史学者が通常専攻する、処刑対象となるものが旧暦です。文学における古典文学が旧暦、現代文学が新暦で、古典文学に関する情報がシャットアウトされているようなものだと考えてください。
余談ですが、ルイがラクたちの遺体を探したい理由は、単に行方不明扱いだと捜査の必要があるので、仕事をしたくないという理由によるものです。遺体が発見さえされれば、役所勤務のルイであれば、死因はごまかす事ができます。




