五話 狂気の獣さえ慈悲と思えるほどの 前編
初めて瞳が会社を休んだ日以来、彼女はアパートには帰ってこなくなった。冷蔵庫を開ければ、食材は揃っているのだから自炊すればいい。けれど、瞳に養われて生きてきた隆志には、できない相談だった。
そういった家事全般の経験もないし、あったとしても自分のやるべきことじゃないという無駄に高いプライドが邪魔をした。…結果、酒を買いに行くこともできず、買い置きのパンとコーヒーだけで食いつなぐ日々が続いていた。
…それでも会社に電話をしたり、行きそうな所を手当たり次第に歩き回るなどということはしたくなかった。この9年間、瞳は何も言わなくても時間通りに帰ってきたし、自動的に家事全般を片付けてくれたからだ。
20代ならではの性欲を吐き捨てる相手にはできなくても、隆志に支配され、隆志の夢を自分の夢として養ってくれていれば、それでよかった。道具なのだから。
「帰ってきたら、タダじゃおかないからな…!」
手ずからインスタントのコーヒーを淹れつつ吐き捨てて、一口啜る。コーヒーの香りさえ、隆志の苛立ちを癒すことにはならなかった。…この惨めな感情を晴らすには瞳から金を巻き上げ、お気に入りの風俗嬢相手に酒を浴びるほど飲んで……
瞳は説教するだろうが、一発二発殴れば黙って財布を差し出してくれる。その程度で良い。それでいい…… 罪悪感など感じる必要はない。三木隆志に支配される道を選ぶ瞳が狂っているのだから。
「いや、狂っているのは……」
自虐的に笑った所でスマホが電子音を響かせ、瞳かと思いつつ出ると、久しぶりに聞くマネージャーの声だった。
『三木くん、ちょっと事務所に出てこられるかな。先輩の東城さんがちょっと話をしたいとのお呼び出しだよ』
「仕事以外で呼び出さないって言いましたよね? 話がしたいならそっちが来るのが筋でしょ!?」
思わず敬語を使ったのが惜しくなるほど興味のないことで。普段から隆志に興味を持っていないマネージャーはそれで適当に詫びつつ引き下がるのだが、今回ばかりは違っていて。
『今回ばかりは東城さんだけじゃない。社長からのお呼び出しでもあるんだ。こちらもはいそうですかというわけにはいかないよ。待っているから事務所に来て。タクシー呼んであるからさ』
面倒なことこの上なかったが、社長の存在をちらつかされてはどうにもならない。仕方なく了承して支度をする。洗濯もできていないので黒いスエット上下に薄汚れたスニーカーを履くだけだったが……
アパートの前で待っていると、ほどなくタクシーが現れて自動ドアを開けてくれた。窓に張られた禁煙の文字に内心で舌打ちしたが、事務所持ちのタクシーでは無視するわけにもいかなくて。
「料金は既に頂いていますので」
と最低限のことだけを伝えたそっけない接客で言うと、隆志が頷くより先に車を発進させた。…内心でありえないと思いつつ、仕事の話だったらいいと願ってしまう。
だが、一年目の時のように事務所のごり押しで未成年ながら煙草をふかしている少年が売れていく様は見たくない。だが、芸能界で売れていくというのはそういったダークな側面にも適応していかねばならないというわけで……
瞳の清冽な様を眺めているだけで癒しになったのは一年目まで。なにをどうして、こんなに堕落してしまうようになったんだろう。考えるだけで惨めでならなくなり、瞳に対しても乱暴になってしまう。
彼女が怯えた様子で金を渡すのを見ているだけでひどく満足し、瞳の清冽で無垢な魂を汚してやったようで恍惚とした感覚を覚えた。
タクシーで走ること20分くらいだろうか。ようやく辿り着いた事務所へ入ると、受付のオバサンに会議室へ案内された。これが芸能人かとオバサンの遠慮のない目線が居心地悪くさせたが、無視して会議室へ入る。
「失礼します」
申し訳程度に言いつつドアを開けると、ソファに足を組んで座った東城彰人が向かい側に座ったマネージャーと仕事の話をしていた。
「この間の舞台、シェイクスピアの四代悲劇すべてで主役を務めるということでしたが、全てというのは難易度高いのではないかと噂されていましたね。今、評価高いですよ。再演を望む声が我が事務所のホームページにも殺到しています」
「俺の力じゃないさ。ファンが変わらぬ愛を注いでくれているおかげだね。ここにいるカイルとアランにも同じことを言ってあげてくれないか。俺のアドリブにもきっちりついてきてくれたのだから」
手にしているのは紙コップに注がれたコーヒーのはずなのに、ひどく優雅に見えるのがこの男の個性というもので。それに細やかな気遣いのできる男で、常に場の空気を支配する悪魔じみた魅力を醸し出していて…
「はい。社長もお祝いを兼ねて盛大にお披露目パーティーを開きたいとおっしゃっております。具合よくファンミーティングの時期でもありますし」
「あははっ、ファンミーティングを口実にカイルとアランを盛大にお披露目するという魂胆かな。社長も野心家だなあ。琉偉と昴流くんが移籍してくれただけでも満足していいだろうに」
隆志がいるのに、誰も注目しない。ただ延々と自慢話を聞かされているというのは惨めさが募って仕方なくて……
「あの… 帰っていいですか?」
少し勇気を振り絞って話に割り込むと、会議室に集った男たちの視線が集まる。東城彰人、日向カイル、桐生アランの視線は妙に隆志を居心地悪くさせて。…獣に睨まれた獲物のようで。
「これは失敬。さあ、浅井さんの隣に座ってくれるかな。君に見せたいものがあってね。感謝もしなければいけないことだし」
ひどく優雅な仕草で座るよう促してみせる。隆志とは絶対的な格の違いがあるんだと見せつけているようで腹が立った。意に介さず帰ってしまうこともできたが、帰るための電車賃さえ持っていないのでは従うより他になくて。
「君の華やかなプライベートに関して、俺は咎めるつもりはないよ。芸能人でなくても若いうちというのは仕方ない側面もあるのだから」
「じゃあ、俺への用事ってのはなんだよ…!! さっさと話せよな!」
「三木くん! 先輩に対してその言葉遣いは…」
すかさず敬語を忘れた隆志をマネージャーの浅井が咎めるが、片手をあげて止めると、
「浅井さんは少し席を外してくれないかな。四人だけで話がしたいんだ。ほんの20分程度でいいから」
嫣然と微笑んだままであからさまに命令した。芸能事務所の稼ぎ頭からの命令とあっては逆らうこともできないのだろう。浅井は不服そうな顔で部屋を出て行った。
隆志くん(-ω-;) ごめんなさい。そうとしか言えませんね。彰人さん、カイルくん、アランくんの魔族らしい所が描けて楽しかったです。後編も続きますのでお付き合い下されば幸いです。感想お聞かせくださればもっと幸いです。




