二話 美しく優しい悪魔との出会い
朝になっても寝た気なんて全くしなくて。でも、仕事は行かなきゃいけないからと残り少ない牛乳だけを飲んだら、身支度をする。
ふと姿見に映る自分を見てみると、あまりに貧相な体つきが映っていてガッカリしてしまう。…田舎から出てくる時は割とぽっちゃり系だったのに、隆志と一緒に暮らし始めて一気に痩せてしまった。
最初はそれでも喜べたのに、あばら骨が浮き出ている今では怖くなってくる。…それに隆志の好きなタイプとあまりにかけ離れていて、これじゃそんな気にならなくても当たり前だと悲しくなる私がいて。
……伸ばし放題の髪はパサパサ、荒れた素肌じゃ化粧もできない。誰がこんな風にしたの?……あいつさえいれなければ食べていけるのに……
心の中に潜んでいる悪魔は今日も雄弁に囁いてくる。田舎に住んでいた頃はこんなことなかったのに。いつの間にか心に悪魔が住むようになった。
「隆志が売れれば、私だって楽になる。必ずそうなるんだから…!」
言い聞かせて逃げるようにアパートを出た。その隆志はどこで何をしているのか分からないけれど…
空腹で痛むお腹を抱えて、満員電車の隙間に体を押しこめる。イヤホンでお気に入りの音楽を聴きながら思い出すのはやっぱり学生の頃。
常に心の奥に潜むようになった悪魔の声も、高校時代のことを思い出していればおとなしくしていてくれる。…辛い毎日にまだ希望があるんだと思わせてくれるから。
会社に着くなり、急いで制服に着替えようと更衣室のドアを開きかけると、同僚たちの話し声が聞こえてくる。その声はひどく楽しそうで入りにくい空気だった。普段なら構わず入っちゃう所だけれど…
「昨日、月宮さんの彼氏が女連れでバーにいる所を見たんだって!」
この一言でドアを開けようとした手が止まる。…嘘だと思いたい。思いたいけれど、でも……
「本当? それって、月宮さんとのデートだったんじゃないの?」
「それはないよ~。女の方は夜職みたいに派手な格好だったんだから。あの子が入社したばかりの頃、写真見せてもらったから間違いないって!」
ドアノブをつかんだままの手が震える。頭の中でつじつまが合っていると理解してしまうから。分からないくらいバカでいられたらいいのに。
昨日、隆志は私の財布からありったけのお金を抜き取って出て行った。とはいっても給料日まで三日。そんな大金なんて入ってるわけない。そんな少ないお金で朝まで時間をつぶすとなると、行く先は限られている。
昔は朝まで飲み歩くんだとバカみたいに信じ込めたけれど、今は違う。
……愚かは幸せ。なにも知らず、信じ続けていられる。では、今の私は…? 27歳の若い男がただ酒におぼれるだけなんて思ってたわけじゃないでしょう? 依存先は酒じゃなかった。別の女……
知りたくない。気づきたくないのに、会話は尚も賑やかに進んでいる。
「二人で月宮さんの悪口言ってたよ。オバサンだのなんだの!」
「そんなもんですよね~。モデルだか俳優だかっても売れてないんですよね」
「そうそう。雑誌の端に載るのがやっとでさ。確かに見た目はちょっといいけど、あの程度のイケメンなんていくらでもいるって。バカだよ、あの子!」
ドア一枚挟んで私がいるのに、気付くこともなく着替えそっちのけで話し続けている。これ以上は聞いていられなくて。
私はもと来た道を走って戻り、会社を出ていく。でも、どこにも行き場がなくて。走った末にたどり着いたのは小さな公園だ。ベンチに小さな滑り台があるだけで誰もいない公園。
つつじが植えられていて、まだ季節じゃないのに日当たりが良いせいだろう。いくつか花を咲かせている。どうすることもできなくて、ぼんやりとつつじを眺めていると…
「不幸そうな顔をしているねえ」
低くて柔らかなおばあさんの声が聞こえてくる。いつから? そんなことより言われたことが気に入らなくて。
「不幸そうって…! バカにしないでください! 私には芸能人の彼氏がいます。ちゃんとしてくれれば、これから売れてくれるはずなんです! ちっとも不幸じゃありませんから!」
今までのストレスや隆志への不満をありったけ吐き出すように怒鳴り散らしていた。誰かに怒鳴るなんて一度もしたことないのに、どうしちゃったんだろう。
「じゃあ、どうして泣いているんだい?」
おばあさんはなにもなかったように笑みさえ浮かべて問いかける。言われるまで自分が泣いているなんて気づかなかったのに、気付いてしまうとどうにもならなくて…
「こ、これは… ちょっと嫌なことを聞いちゃっただけですから。別に不幸だなんて思ってませんから」
申し訳程度に反論するけれど意味はない。おばあさんは苦い顔で溜息をついて、
「本当に助けが必要な者ほど、助けを求めないで死への道をひたすら進む。あたしの師匠の言葉だけれど、その通りになっちまったねえ」
灰色の着物の懐から一枚の紙を取り出す。そして、私に差し出すと、
「これは悪魔との契約書さ。ちょっとした伝手で横流しされたものだけど、本物だ。取扱いに気をつけるんだよ」
簡単に意味の分からないことを語ってくれた。私は自然と隣に並んで座りつつ、震える手で受け取る。
「悪魔って… 実在するんですか?」
この現代社会に、悪魔だなんて… 非現実すぎてファンタジー小説の世界に入り込んだみたいだ。すぐには信じきれない。
「それは問題じゃない。ここまでこじれてしまうと、そう簡単には抜け出せないからね。悪魔とでも契約しないとやってられないだろ?」
「代償は心臓とか願いを叶える代わりに魂をくれとか言うんですよね? ファンタジー小説は大好きだったので分かってます」
「代わりになんでも思いのままだ。それに、これも一種の契約には違いないさね。加えて、悪魔は契約に関しちゃ厳格でだますこともしない。どうする?」
「悪魔との契約書… なんでも願いを叶えてくれるんですよね」
三億円ほしいとか、ハーレム作りたいとか思ったことは一度もない。隆志がモデルとして売れることを東京に出てきて一年目は思ったんだろうな。でも、今は……
「悪魔なら、私を好きになってくれますか? この契約書のせいでもなんでも」
「言っただろ? 願い通りさ」
契約書を持つ手が震える。そんな私に小さな金色のナイフを乗せた。バターナイフみたいに小さくて、きれいなこと以外は何の役にも立ちそうにない。だって、何も考えられなかったから刃部分を握ったのに痛くないんだもの。
「…バターナイフですか?」
「バターしか切れない役立たずと一緒にするんじゃないよ。これは全てを切るナイフさ。悪魔の言いなりというのも腹が立つからね」
「今、私の指を切ってませんけど…?」
「用途が限られているだけさね。もしも悪魔を嫌いになった時、または縁を切りたい相手ができた時、この柄を握りな。切りたいものが見えてくるよ。一振りするだけでいい。切ったという結果だけを作り出す」
本当かな? どうも胡散臭いけれど嘘を言ってるようには見えない。
「ただし、これは試供品なんで使い切りだ。切る相手を間違うんじゃないよ」
「はい… 料金をお支払いしたいんですけど、現金は全く持っていないんです。だから、これは…」
「お代は悪魔からもらっている。曰く先行投資だそうだ。あちらさんも何かの目的がありそうだったから気にしなくていいよ」
そう言うとおばあさんはベンチから立ち上がり、ゆっくりした足取りで公園を出て行った。つつじの生垣を抜けていくと途端に姿が見えなくなって、実在したのかさえ怪しい。
思いきり怒鳴って泣いて… 知らないおばあさん相手に見苦しいことをしでかしてしまったけど、いくらかストレス解消になったんだろう。
気分はスッキリしていた。おばあさんの言葉が頭にこだましていて会社のことも隆志のことも全く考えられない。
悪魔との契約書を広げて眺めてみる。私には読めない文字が連なっているけれど、一か所だけ空欄になっている。ここに名前を書くと、きっと契約したことになる。…だけど、まったく怖くない。
「分かってたこと… 隆志は最初から私を利用する為だけにプロポーズみたいなことをしたの。だって、隆志にとって私は女の子にさえ見えてなくて…」
呟きながら涙が出てくる。いつからだろう。隆志のことを思い出す度、悲しい気持ちになるようになったのは。…認めたくない。認めたら今日までの努力がすべて無駄だったんだということになる。でも、あんな辛い日々はもう…
「悪魔さん、あなたなら契約書の為でも私を愛してくれますか? 隆志のこと忘れられるくらい大事にしてくれて……」
私にだって女としてのプライドくらいある! できれば、愛されたかった。利用なんてされたくない! 都合いい女扱いされるくらいなら、それなら…!
震える手でカバンからボールペンを取り出し、空白の所に名前を書く。震えたせいでひどく汚い字になったけど、なんとか読めるだろう。
「悪魔さん、どうか私を愛してください。他はなにも望まないから… 私の全てを捧げるから…! それが私の願いです…!!」
未だ見てもいない悪魔に向けて宣言すると、契約書が紫色の炎に代わって消えた。かと思うと、炎が膨れ上がり、私の全身を包む。けれど、全く熱くない。むしろ微かに冷たく感じるくらいで…
『契約は成立した。君の願いは必ず俺が叶えよう』
聞こえてきたのは柔らかな男の人の声で、悪魔なのに日本語をしゃべっているのが不思議でどこか面白く感じた。
「悪魔は契約に厳格って本当ですか?」
目の前に現れたのは黒髪に目を紫色に輝かせた美貌の男性で、とても背が高くて私よりちょっぴり年上に見えた。けれど、私の理想の男性の姿だとか、そういう幻めいたものには見えない。
「その通りだね。俺達悪魔は契約書の範囲内でならなんでも願いを叶えてあげるよ」
「わたし、愛されてみたいです…! もう誰かの都合のいい女なんていやです!」
「知っているよ。酷くも道具にされた君… 可哀そうに、もうくだらない男の為に涙を流さなくていいんだよ」
美貌を柔らかな笑みで彩って言うと、そっと私を抱き締めてくれた。…初めて会った隆志以外の男の人、何も知らないのに心から安らぐことができて。
「二度と君を泣かせたりはしないから… 出会うのが遅れてしまってごめんよ」
口説き文句なのか心からの言葉なのか…? 分からないけれど、安らぎをくれたのは本当だった。信じてもいいと思えた。
お待たせいたしました( ^^) _旦~~ 瞳ちゃん、幸せになってくれるといいです。
でも、ハピエン書きなので幸せにしかなれません(`・ω・´)ゞ 引き続きお付き合い下されば幸いです。
感想お聞かせくださればもっと幸いです。




