沼地の襲撃者⑨
洞穴の中は酷い臭いだった。
洞穴に入った瞬間から、嗅いだ事もない悪臭が鼻を突く。
何でボサノバは平気なんだ。
そう思ってボサノバを見ると、意外な事に全く平気ではなさそうだった。
息は荒く、体は小刻みに震えている。
ただ我慢しているだけだ。
洞穴に入る前に注意する点を言ってきたのは、中に入ってからは喋ることをしたくなかったからなのだろう。
足元が滑ることや、隠れているゴブリンがいるかもしれないから警戒は怠らないように。
とにかく臭いが酷い事も言われていた。
しかしまさかここまでとは思ってもいなかった。
ランタンは、アカシアが持つ事になった。
ボサノバはゴブリンよりも夜目が効く。
クイーンがいると思われる場所なら、灯りがなくても入り口から差し込む光で十分らしい。
洞穴もそこまで深くはなかったが、臭いを我慢しながら滑らないように歩く事が苦痛すぎて、余計に長く感じた。
ゴブリンクイーンは、普段見かけるゴブリンとは全く異なった姿をしていた。
醜悪な、大きな芋虫だ。
その体は、ボサノバより一回りは大きい。
外皮は白く、所々黒くなっているのは内臓が透けて見える為だろうか。
胴体に生えた小さな手足はその体を支えるには余りにも頼りない。
クイーンの下半身の辺りには、卵が転がっている。
受け止めるゴブリンがいない為か、幾つかが積み重なり転がっている。
ランタンの光を当てると、鳴き声を上げた。
恐らく、目があるのだろう。
ボサノバはナイフを取り出し、喉元に突き立てた。
クイーンの短い手は身を守る事も出来ずに、ただジタバタと絶命までもがくだけだ。
ボサノバはナイフを抜くと、絶命を見届ける事もなく、入り口に戻って行く。
アカシアの目に、クイーンの魂石が目に入った。
それを剥ぎ取り、ボサノバの後を追う。
洞穴の外に出ると、久しぶりに新鮮な空気を味わう事ができた。
ボサノバも横で深呼吸を繰り返している。
「クイーンは殺した。残った卵も世話をする者がいないから放っておいていいだろう。後は洞穴をどうするか……」
ボサノバは洞穴に視線を向けて呟いた。
洞穴を残していれば、また、他の魔族が住み着いてしまう事を危惧しているのだろう。
「だったら植物で塞いでおくか?」
「できるのか?」
アカシアは、洞穴を塞ぐように木を生やし、蔦で隙間を埋める。
「便利だな」
あっという間に生える植物に、ボサノバは感嘆の声を漏らした。
「洞穴はアカシアに任せる。俺は殺したゴブリンの死体を集めておく」
こうして作業が終わると、洞穴から離れた。
「なぁ、どこか水浴びが出来るところはないか?」
ボサノバの提案は、アカシアも思っていた事だ。
体に、ゴブリンの巣穴の臭いが染み付いている気がする。
とにかく水を浴びてさっぱりしたかった。
「村に戻る途中に川がある。そこに行こう」
2人は迷う事なく、川へ向かった。
川に着いてようやく、アカシアは仮面について考えていた。
ボサノバの前で素顔を見せてもいいのだろうか。
マントや他の衣服も同様だった。
しかし、脱がずに川で水浴びはしたくない。
濡れた衣服を着るのは好きではない。
ボサノバは少し離れた場所に荷物を下ろし、気にする様子もなく、川に入って泳ぎ始めた。
「俺は少し泳いでくる」
水に浮かんだままそう言って、ボサノバはあっという間に泳いで行ってしまった。
「気を使ってくれたのか?」
しかしそんなことを直接聞く訳にはいかない。
アカシアは水浴びを手早く済ませ、ボサノバを待ちながら考えに浸っていた。
どうして魔王軍に入りたいのか。
その答えを、自分の中で出しておきたかった。
村が嫌な訳ではない。
むしろ、ここ数日の村での居心地は良かった。
他のエルフと交流を深め、協力して、これから村は人間や他の魔族と戦いながら暮らすことになるだろう。
悪くはない、と思う。
ただ、それだけではきっと、エルフの村はいつか滅びる気がする。
魔族と人間。
その二つを敵にしていつまでも生きて行くことはできない。
今日のボサノバの動きを見たせいだろうか。
素早く、影のように忍び寄るボサノバの戦い方は、エルフの天敵だ。
あんな魔族に村が狙われたら、人間以上に恐ろしいことになる。
だから、戦わないために魔王軍に行くのか。
それも違う。
見たいと思った。
ボサノバやサレアのような、他の魔族を。
そして、他の魔族の魂石を。
まだ見た事のない、人間の道具を。
だから、村の外に行きたい。
アカシアの気持ちに整理がついた頃、ボサノバが戻ってきた。
ボサノバは少し離れた場所から歩いて来たようで、すでに出発する準備が終わっていた。
「悪い、待たせたな」
「いいや、ありがとう。おかげで気持ちの整理ができた。……聞いて欲しいんだ。俺がこれからどうしたいのかを」
アカシアは魔王軍に入りたいと思っていることを話した。
ボサノバは最後までそれを聞き、嬉しそうに笑みを浮かべた。
「これからよろしくな」
ボサノバが差し出した手を、アカシアは強く握り返した。
そして、いつかトネリコの作った川を観に行かなければならない。
人間が襲ってきた今、川がどうなっているのか確かめなければならない。
アカシアの胸にはそんな思いが秘められていた。




