トネリコの魂石⑨
アーデンから壁を越える為に絶対に守らなければならない指示を幾つか受けていた。
外見を隠す為、仮面とマントを身につける事。
マントは森を抜ける途中で見つけた人間の死体から取った。
仮面はアーデンが手彫りで作った。
魔法で作れば良い、と言っても夜の暇つぶしの為だからと頑なだった。
「それと、コレも持っておけ」
そう言われて受け取ったのは、人間が首からぶら下げていた一枚の小さな銀の板だった。
「コレは何なんだ?他の人間の死体も持ってる物だよな」
「コレは身分証だ。持って無いと、人間としての身分を証明できない。だから必ず持っておけ」
トネリコは他にも指示を受けていた。
アーデンの後ろを離れずに、喋らずに着いていく事。
初めて見るものしかないから、それらに過剰に反応しない事。
壁の向こうにある物は、事前にアーデンから言葉で教えられていた。
しかし、それでもトネリコには、初めて見る物と驚きの連続だった。
視界いっぱいに広がる木の無い平原を初めて見た。
平原の中には、小さな村が幾つもあった。
村の中には当然の様に、人間がたくさん居た。
その中に入る恐怖。
体を仮面とマントで隠したトネリコは人間の視線を引いた。
その中を、アーデンは怯む事なく進み、人間と話し、人影のない所では小声で補足の説明をしてくれた。
アーデンは村の事を『駅』と呼んでいた。
駅は人を運ぶ為の『列車』を管理している。
列車には人が乗り、平原を素早く移動する。
トネリコたちも、列車に乗った。
アーデンに指示されるまま歩き、列車の座席に座る。
他の座席には人間も居た。
座席の硬さと、列車が放つ異音と振動。
しかし、この時のトネリコの中に恐怖は無かった。
隣に座るアーデンはトネリコの手を握ってくれていた。
その暖かさと、力強さ。
そして、窓の外から見える景色は、トネリコの興味を奪うには充分だった。
今まで体験した事のない速度。
窓から見える景色は、瞬く間に流れていく。
平原の先には『壁』があった。
列車の窓から見える、視界の端から端まで続く巨大な赤い壁に、圧倒された。
壁は近づくに連れて大きさを増すようであり、壁の下を列車で越える時には、壁を見上げて立ちくらみをするほどだった。
壁を越えると、全く違った景色が広がっていた。
大量の人間。
奇妙な建物。
人工物に満ちた世界に囲まれ、トネリコは高揚していた。
人間の街の中を列車は走り、再び駅に停まった。
「ここで降りよう。知っている人間に会う前に街を出たい」
アーデンに手を引かれたまま、街を歩く。
すれ違う人間の中には、トネリコのように顔を隠した者も少なからずいた。
銃を背負い、戦いの準備をしている人間も数えきれないほどいた。
わからないことは後からアーデンに聞けばいい。
そう決めていたトネリコは周りを見渡しながらも、アーデンの大きな背中に引かれていた。
少し街を歩き、再び列車に乗って街を出た。
列車に揺られていると、トネリコにとって理解できない物ばかりの景色から、段々と見慣れた緑が増えていった。
「ここまでくれば、ひとまず大丈夫だろう」
列車の窓から見える景色に夢中になっていたトネリコは、アーデンの言葉で周りを見渡した。
2人が乗っている客室には、他に乗客の姿はなかった。
「すまなかった。初めて見るものばかりで不安だったろうが、もう大丈夫だ」
「いいや、案外楽しかった。……それにしても、この列車という物はすごいな。これも人間が作ったのか」
「そのようだ。俺の居た世界にもなかったから、俺も初めて乗った時には驚いたものだ」
「アーデンもそうだったか。それよりも、これはどこに向かっているんだ」
「人間がいない田舎に向かいたいと思うんだ。そこならきっと、安心して暮らせる場所があるはずだ」
「そうか。頼りきってしまってすまないな」
「これから先は、助け合って生きていくことになる。だから気にするな」
こうして2人は、移動を続けて人里離れた土地に、広い森を見つけて生活をしていた。
そこからしばらくは、とても幸せな生活を過ごしていた。
2人は互いに助け合い、家を建て、共に狩りをして暮らした。
トネリコの胸中では、エルフの村が気がかりだった。
トネリコがいなくなって、イヌマキを殺した犯人探しはどうなったのだろうか。
川は、人間を遠ざけただろうか。
それを確かめる術はない。2度とエルフの村に戻ることはできない。
そう思うと、胸が痛んだ。
しかし同時に、アーデンもきっと同じ思いを抱いて生きてきたのだろう、とも思った。
アーデンも元の世界を離れて、この世界に来た。
アーデンも同様に、置いてきた家族や村がどうなったのか確かめる術はない。
2人は、同じ傷を持って日々を暮らした。
やがて、トネリコが身籠った。
出産の経験のない2人は、近くの人里に助けを求め、しばらくそこに滞在した。
人の助けを受けてアカシアを出産し、再び森へ戻って3人は暮らしていた。
アカシアを育てる為、森の不自由な生活の中でも工夫をして暮らした。
言葉がわからないと分かっていても、色々なことを教えた。
トネリコもアーデンも、元の世界を忘れるほどに幸せだった。
しかし、3人の幸せな暮らしは、長くは続かなかった。
ここから先に何があったのか、詳しくトネリコが聞かされることはなかった。
ある雨の日のことだった。
慌てた様子のアーデンに手を引かれ、アカシアを抱いて列車に乗り、赤い壁を越えてグリンヘルに戻ることになった。
アーデンは「人間に見つかった」とだけ言った。
それだけでトネリコには事情がなんとなくわかった。
いつの日か、アーデンに言われたことだ。
『トネリコの外見は人間の関心を惹きすぎる』
3人は壁を越え、森に入った。
追手に追いつかれ、アーデンとは森の中で別れた。
「必ず、あの川で再び会おう」
最後に2人は、約束をした。
しかし、2人の約束は果たされなかった。
トネリコと赤子のアカシアは、森の中では格好の獲物だ。
魔族や人間に見つかり、襲われ、重傷を負った。
それでも、逃げ延びた。
トネリコは、2人が作った川に辿り着いた。
そこにアーデンの姿はなかった。
アカシアは腕の中で穏やかな寝息を立てている。
「無事でよかった……」
トネリコは、アカシアを力強く抱いたまま眠るように意識を失った。




