第9話「その人、なんか見覚えがあるような、ないような」
ニュースが静かに流れていた。
「静岡県内で確認された謎のコイン連続表現象ですが、今週に入り愛知・神奈川にも類似報告が拡大しています。専門家は『統計的にあり得ない』としつつも、原因を特定できていません。また、これとは別に——」
休憩室のテレビをちらりと見て、神崎ソウはコーヒーを一口飲んだ。
……なんか変じゃない?
コインが連続表なのはまあいいとして、愛知まで広がっているのはどういうことだろう。これで先週の富士山縮小と、先月の島消滅と、先々月の時計が狂った街と——
「ソウ、もう時間だよ」
バックヤードのドアを開けてナナが顔を出した。制服のボタンを上から二つ付け間違えたまま、気づいていない。
「ナナ、ボタン」
「え、あっ」ナナは胸元を見て声を上げた。「やばい、接客前に気づいてよかった——」
「今言ったじゃん俺」
「あ、そっか。ありがとうソウ!」
ぺこりと頭を下げて、ナナはドアの向こうに引っ込んだ。ドアが閉まる直前に「間に合った!」という声が聞こえた。
何に間に合ったのか、ソウには分からなかった。
モバイルステーションSHINEの午後は、だいたいのんびりしている。
平日の火曜日、客の入りはまばらで、ソウはカウンターの端で新機種のパンフレットを整理していた。隣ではレイが伝票を処理している。氷室レイ。スーツ姿が板についた、この店で一番有能なバイトだ。
「この書類、今月の在庫報告と突き合わせると三枚足りません」
レイが静かに言った。
「え、マジですか」
「田所店長の処理ミスと思われます。あとで私が——」
「あとで私がやります、でいいですよね?」
「そうです」
レイは三文字で会話を完結させた。有能だった。
入り口のドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
ソウは顔を上げる。入ってきたのは老人だった。腰が少し曲がっていて、白い開襟シャツを着ている。手にはガラケーを一台、大切そうに握っている。
……あれ。
「神崎さん」レイが小声で言った。「常連の方です」
「あ、はい」
ソウは軽く会釈しながら、なんとなく客の顔をじっと見てしまった。見覚えがある、ような気がする。でも初めて会う人の顔だ。
……気のせいか。
「すみません、ちょっとよろしいですか」
老人は柔らかい口調でソウに声をかけた。「このスマートフォン、使い方を教えていただけますか」
「スマートフォン——あ、もしかしてお乗り換えですか?」
「いえ」老人は首を振った。「前に教えていただいたのに、また忘れてしまって」
老人はポケットから取り出したのはガラケーではなく、スマートフォンだった。薄くて新しい、最近のモデルだ。
「毎週来てくれてるんですよ」
カウンターの向こうから声がした。テルだ。今日はバックヤードの棚卸しをやっていたはずで、いつの間にか出てきている。白い店の制服の袖を肩まで捲り上げて、ソウの隣に並んだ。
「毎週?」
「毎週。スマホの使い方聞いてく」
テルは老人を見て、小さく笑った。「こんにちは、おじいさん」
「ああ、こんにちは」老人は穏やかに笑い返した。「また来てしまいました」
「いいですよ」ソウは老人をカウンターへ案内した。「どのへんが分からなくなりましたか?」
「写真の撮り方、でしたかね」
「先週も写真でしたね」テルが言った。
「そうでしたか」老人は首をかしげた。「私、物覚えが悪くて」
「大丈夫ですよ。何回でも聞いてください」
ソウは老人のスマートフォンを受け取って、カメラアプリを開いた。説明しながら、なんとなく横目で老人の顔を確認する。
白髪。細い目。右の耳元に、小さなほくろ。
……やっぱり見覚えがある気がする。
でも、ここに来てから初めて見る顔だ。先週は火曜日、バイトに入っていなかった。
「こうですか」老人がシャッターボタンを押した。カウンターの端に置かれた販促用のパンフレットが写真に収まった。
「上手く撮れましたね」
「ありがとう。若い人は丁寧に教えてくれて助かります」
老人はしわの刻まれた顔でにこりとした。「あなた、名前は?」
「神崎、といいます。神崎ソウです」
「神崎くん」老人は繰り返した。「よく覚えておきます」
「あはは、また来てください」
老人はゆっくりと頭を下げて、ドアの方へ歩いていった。テルがその背中を目で追っている。ソウも同じように見送った。
ドアベルが鳴って、老人は出ていった。
「テル」ソウは小声で言った。「あのおじいさん、毎週来てるの?」
「うん」
「俺、今日初めて会ったけど——なんか見覚えある気がして」
「そう?」
テルは答えながら、表情を変えなかった。いつものマイペースな顔だ。でも一瞬だけ、ソウには目を細めたように見えた。
「まあ、なるようになる」
「それ答えになってなくない?」
夕方、カイが出勤してきた。
「俺今日も完璧」
開口一番それだった。
「何が?」ソウが聞く。
「体調もスタイルも全部」カイはロッカーで上着を脱ぎながら言った。「今朝の体重、昨日より三百グラム減ってた」
「おめでとう」
「ありがとう。重力のせいじゃない、ちゃんと絞った」
「重力のせいにしたことあったの」
カイは少し黙った。「……コンマ数グラム単位で調節しようとしたことはある」
「え待って、自分の体重を重力操作でどうにかしようとしてたの?」
「できないんだけどな」カイはむっとした顔で制服を羽織った。「俺の能力、なんで自分だけ効かないんだろうな。宇宙規模で重力弄れるのに」
「宇宙規模!?」
「いや、大げさに言ったけど」カイは笑った。「でも結構でかいぞ。惑星くらいの重力ならいじれる」
ソウはちょっと考えた。惑星の重力をいじれる人間が、三百グラムの体重減少に喜んでいる。
……なんか変じゃない?
「何笑ってんだよ」
「笑ってない笑ってない」
カイが制服のネームプレートを付けながら、ふと言った。「なあソウ、テルってどんな感じの奴?今日会うんだけど」
「どんな感じって——マイペースで、なんか達観してる。あとじゃんけんには絶対勝てない」
「じゃんけん?」
「確率をいじれるらしくて。でも使えるのはどうでもいいことだけ」
カイは眉をひそめた。「どうでもいいことだけって、なんか損じゃないか」
「本人は全然そう思ってないみたいだけど」
「ふーん」カイは哲学的な顔をした。それから「まあ俺も人のこと言えないか」と付け加えた。「惑星動かせるのに自分の腹は動かせないから」
「それ違う話だから」
閉店一時間前。
バックヤードで在庫の整理をしていたソウの耳に、テレビの音が届いた。休憩室のドアが開いていたのだ。
「——謎のネジ大量発生の報告が、今週は九州北部でも確認されました。素材はスチールと判明しましたが、製造元は不明のままです。また、四国沖に新たな——」
「ソウ」
振り返ると、ナナが荷物を抱えてバックヤードに入ってきた。今日の業務終了らしく、私服用のトートバッグを肩にかけている。
「もう上がり?」
「うん、あと十五分で」ナナはソウの手元を見て、手伝おうとした。「それ私もやる——」
「いいよ、あと少ししかないし。上がって」
「でも」
「ナナ、今何時?」
ナナはスマートフォンを確認した。「六時四十五分」
「終業って何時だっけ」
「六時四十、あ」ナナは口を押さえた。「もう終わってる」
「そう。上がって」
ナナはトートバッグを両手で持ち直して、少し困った顔でソウを見た。「ソウって、なんかこういうとき優しいよね」
「え」
「変な人ばっかりのところに来て、嫌にならないのかな、とか——思って」
ソウは少し考えた。変な人ばっかり。確かにそうだ。壁をすり抜ける人間とか、時間を止める人間とか、惑星の重力を操れるのに自分の体重だけどうにもならない人間とか、じゃんけんに絶対勝てる人間とか。
「嫌にはならないけど」ソウは答えた。「……なんか変じゃない?って毎回思ってる」
「あはは」ナナは笑った。「そうだよね、変だよね、私たち」
「まあ」ソウも笑った。「変でも一緒に仕事してたら、まあいっか、って感じになる」
ナナはしばらくソウの顔を見ていた。何か言いかけて、やめた。
「……うん。そっか」
静かな声だった。いつもの焦り系の声じゃない。
「バイトお疲れ様、ソウ」
ナナはバックドアから出ていった。外の空気が少し入って、すぐに扉が閉まった。
閉店後、最後の施錠チェックをしながらソウは店内を一周した。
ショーケースに並んだスマートフォンが、ライトアップされている。薄くて、滑らかで、全部ほとんど同じに見える。どれも「最新機種です」「この端末、もう古いですよ」という売り文句を毎日浴びている。
古くなる、というのはどういうことだろうと、ソウはぼんやり思った。
機械が古くなるのは分かる。でも最近ニュースで流れている「古くなっていく」感じは、なんか違う。島が消える。山が低くなる。コインが表になり続ける。時計が狂う。
それって、壊れてる?
……気のせいか。
「神崎さん」
レイの声がした。カウンターの奥から出てきた彼女は、スーツの上着を脱いで腕にかけている。今日の業務は完全に終わったらしく、いつもより少しだけ表情が柔らかかった。
「お疲れ様です。施錠、問題ありませんか」
「はい、大丈夫そうです」
「では私は先に」
レイは踵を返そうとして、止まった。ショーケースのガラスを一秒だけ見て、また歩き始める。
「レイさん」
呼び止めると、レイは振り返った。
「あの、今日来たおじいさん——毎週来てるって聞いたんですけど」
「そうです」
「名前とか、知ってます?」
レイは少し考えてから答えた。「田所店長も把握していないようです。毎回同じことを聞いていかれます」
「同じこと?」
「写真の撮り方。毎週来て、毎週同じことを聞いて、毎週ありがとうと言って帰っていかれます」
「……覚えてないのかな、前に聞いたこと」
「分かりません」レイはそれだけ言った。
何かを知っている顔ではなかった。でもソウには、レイが何かを考えているように見えた。
「神崎さん」
レイが言った。「気になるのは構いませんが、あまり深く考えすぎない方がいいかもしれません」
「深く、って」
「色々と」
それだけ言って、レイはドアを開けて出ていった。ドアベルが鳴った。
ソウは一人、ショーケースの前に立った。
……色々と、ってどういう意味だろう。
変な人ばっかりだ、と思った。全員が。レイも、ナナも、カイも、テルも——全員なんか変だ。それは最初から分かっていた。
でも「変な人」というのは、ソウが思っていたよりもっと大事な何かと関係しているんじゃないか、という気が、最近少しずつしてきた。
気のせいか。
たぶん気のせいだ。
ショーケースの電源を落として、ソウは店を後にした。
外に出ると、夜の空気だった。商店街の端に、コンビニの明かりがある。ソウはスマートフォンを取り出してニュースアプリを開いた。
流れていたのは、こんな見出しだった。
「静岡・愛知・神奈川でコイン連続表現象が拡大——専門家も原因特定できず」
「四国沖に謎の島が出現。昨日まで存在が確認されていなかった無人島について、国土地理院が緊急調査へ」
「北海道・北部地区で昨日の記憶がない住民が新たに複数人確認。精神的疾患との関連を検討中」
ソウはしばらくスクロールした。それから画面を閉じた。
……なんか変じゃない?
でも、まあ。
気のせいか。
角を曲がった先に、テルが立っていた。コンビニの袋をぶら下げて、ガムを噛んでいる。
「ソウ」テルは手を上げた。「帰り?」
「うん。テルは?」
「今から帰る」テルは並んで歩き始めた。「今日のおじいさん、気になった?」
「……なんで分かるの」
「なんとなく」テルは笑った。「まあ、なるようになる」
「それ毎回言うよね」
「毎回そうだから」
二人は商店街を歩いた。並んで歩くと、テルはソウより少しだけ背が低い。コンビニの袋がゆらゆら揺れる。
「テル、あのおじいさんのこと——何か知ってる?」
テルは答えなかった。三秒くらい沈黙して、それからガムを噛む音だけした。
「まあ、また来るよ」
答えになっていない。でもテルの「まあ」は毎回そういう顔をしている。知っている顔か、知らない顔か、どっちでもない顔か、ソウには判断がつかない。
「次のバイト、いつ?」ソウは聞いた。
「木曜」
「俺も木曜」
「じゃあそのとき」
「そのとき何?」
「なるようになる」
ソウは笑いたいのか呆れたいのか分からない気分で、夜の商店街を歩いた。
頭の中で、白髪の老人の顔が浮かんだ。細い目。右の耳元の、小さなほくろ。
「ありがとう。よく覚えておきます」と言ったとき、老人はソウの名前を呼んだ。
神崎くん、と。
まるで、最初から知っていたみたいな口調で。




