第8話「じゃんけんで負けたことがない人生の話」
テルが初出勤したのは昨日だが、もう三年くらい一緒にバイトしている気がする。
神崎ソウはそんなことを思いながら、ショップフロアの隅で端末のディスプレイを磨いていた。火曜の午前十時。客の入りは薄い。自動ドアが開くたびに涼しい風だけが入ってきて、そのまま出ていく。
テルはカウンターの椅子に浅く腰かけ、目を半開きにしていた。
寝ているのか起きているのか、毎回わからない。
「ねえ、テル」
ソウが呼びかけると、テルはゆっくり瞬きをした。起きていたらしい。
「なに」
「じゃんけん、一回も負けたことないの? 生まれてから」
「んー」テルは少し考えた。「負けたことはある。じゃんけん以外で」
「じゃんけん以外で何に負けたの」
「眠気」
それはじゃんけんじゃない。ソウはツッコむのをやめた。
「じゃんけんだけは負けたことない。勝ちたいと思ったら勝てる。でも勝ちたいと思わないときは普通に負ける」
「そんな精密な制御できるんだ」
「できる。でも別にうれしくない」
「なんで」
「相手が負けるから」
テルはそう言って、また目を半開きにした。ソウはしばらく考えた。
確かに、じゃんけんは勝った数だけ誰かが負けている。テルが全勝しているということは、テルとじゃんけんをした人間が全員負けているということだ。
「……なんかそれ、すごく孤独じゃない?」
「まあ」テルは答えた。「でも負けることもできるから大丈夫」
「能力をオフにしたら?」
「そう」
テルは窓の外を見た。ガラス越しに、駐車場の鳩が歩いているのが見える。最近、鳩は飛ばずに歩いていることが多い。
ソウはそのことを一瞬考えて、やめた。
昼前になって、日向ナナがバタバタと自動ドアを駆け抜けてきた。
「間に合った!」
腕時計を確認する。十一時五十九分。シフト開始の一分前。
ほぼ毎回この感じだ。ソウはもうツッコまない。ナナは荷物をロッカーに放り込みながら、息を整えつつスタッフルームから顔を出した。
「ソウくん、今日混んでた?」
「全然。テルがずっと寝てた」
「寝てない。目が半開きなだけ」バックヤードの奥から声がした。
ナナは「テルさんだ!」と言いながら走っていった。テルとナナが並ぶと、なんとなくちぐはぐな感じがする。ナナは動いていて、テルは静止している。
「テルさんって、能力でじゃんけん絶対勝てるんですよね?」ナナが目を輝かせた。「じゃあカードゲームも?」
「引き次第」
「くじ引きは?」
「まあ」
「自販機の当たりは?」
「百パーセント」
「えっ、すごい!」
「どうでもいいから操作できる」テルは静かに言った。「宝くじは無理だけど」
「なんで! 宝くじのほうが大事じゃないですか!」
「大事だから無理」
ナナはしばらく「えー」と言っていた。ソウもそこが一番引っかかっているポイントだが、テルの答えはいつも同じだ。どうでもいいことだけうまくいく。どうでもいいことだけ。
「……なんかそれって、人生の縮図みたいで変じゃない?」ソウは思わず口に出した。「大事なことはうまくいかなくて、どうでもいいことだけ完璧で」
テルが少しだけソウを見た。
「うん」
それだけだった。でもその「うん」はなんか重かった。ソウは返し方を見つけられなくて、とりあえず磨き直す気のなかった端末をもう一度拭いた。
午後になって、御堂カイが出勤してきた。
今日は機嫌がいいらしく、入ってくるなり「よっ」と言った。ソウは「よっ」と返した。テルはカイをちらりと見て、また目を閉じた。
「なんか今日いい感じじゃない? 俺」カイは自分の腕を確認しながら言った。「昨日ちゃんと有酸素したし」
「有酸素で重力操作は鍛えられないでしょ」
「でも俺がかっこよくなれば周囲の重力は俺に向かう」
「重力はそういうものじゃない」
カイはソウに向かってサムズアップして、スタッフルームへ消えた。何だったんだ。
テルが薄く目を開けた。
「あの人、どうでもいいことに全力だね」
「なんか褒めてる?」
「褒めてる」
テルにしては珍しく断言した。ソウはそれが少し意外で、テルの横顔を見た。テルは相変わらず何を考えているかよくわからない表情のまま、窓の外を見ていた。
夕方四時。フロアに客が二人入ってきた。一人は機種変更の相談で、もう一人は「スマホの充電が最近おかしい」というやつだった。
ソウは充電相談のほうを引き受けた。五十代くらいの女性で、バッグから取り出したスマホを見ると、ケーブルの差し込み口に埃が詰まっていた。
「このゴミを取り除けば直ります」
「あら、そんなことだったの」
「わりとよくあるんですよ」
女性が帰っていく際に、店内のモニターで流れているニュースが目に入った。
音は小さくて聞き取りにくかったが、テロップだけははっきりと読めた。
――東京・渋谷区の一部地区で、昨日の記憶が不明瞭な住民が複数確認される。原因不調査中。
ソウはそれを読んで、一瞬止まった。
渋谷。東京。昨日の記憶がない住民。
以前にも似たようなニュースがあった気がする。どこだったか。北陸だったか。それとも別の場所か。記憶の中でいくつかの単語が重なった。富士山が縮んでいる。島が消えている。鳩が歩いている。記憶がなくなっている。
「……なんか変じゃない?」
つぶやきは誰にも届いていなかった。ナナがバックヤードで在庫を確認している音がして、カイが機種変更の客に何か熱弁しているのが聞こえて、テルがカウンターでぼんやりしている気配があって。
全部いつも通りだった。
ソウはテロップが流れ終わるのを見届けてから、次の仕事に戻った。
閉店一時間前。客が途絶えたタイミングで、田所店長が事務所から顔を出した。
「みんな、ちょっといい?」
スタッフ全員が集まった。今日はソウ、ナナ、カイ、テルの四人だ。レイは今日は休みだった。
「来月のシフト調整の件なんだけど」店長はメモを見ながら言った。「土曜が全体的に薄くて。誰か増やせる人いる?」
「俺は授業が」ソウ。
「私は調整できます!」ナナ。
「俺は……まあ、週一くらいなら」カイ。
全員の視線がテルに向いた。テルは目を開けた。
「入れる」
「何時から?」
「何時からでも」
「朝番大丈夫?」店長が確認する。
「大丈夫」
「助かるわ。テルくん、朝番得意そうだもんな」
「遅刻したことがない」
それは本当のことだろうか。ソウはナナをちらりと見た。ナナは「いいな〜」という顔をしていた。自分の話じゃないの。
店長がメモに書き込んでいる間、カイがテルの隣に立ってひそひそ声で言った。
「テルって遅刻したことないの? マジで?」
「信号が必ず青になる」
「ああ」カイは一瞬で理解した。「効率いいな」
「電車に乗り遅れそうなときは一回だけ使う」
「一回だけ?」
「それ以上使うと交差点の信号が壊れる気がして」
カイはしばらく考えてから、「俺は気にせず使うな」と言った。テルは「知ってる」と返した。
ソウはその会話を聞きながら、テルが「壊れる気がして」と言ったことを頭のどこかに引っかけた。テルは全部わかっていて、それでも使う範囲を自分で決めている。カイはわかっていなくて、気にしない。その差はどこから来るんだろう。
片付けをしながら、ソウはテルに並んで端末を棚に戻していた。
「聞いていい?」
「どうぞ」
「テルって、自分の能力が何かに影響してるって考えたことある?」
テルの手が一瞬止まった。ほんの一瞬だったが、ソウは見逃さなかった。
「たとえば?」
「たとえば」ソウは言葉を探した。「確率を操作したら、どこかの確率が変わるとか」
テルはしばらく黙っていた。ソウは急かさなかった。
「コインが百回連続で表が出た村、ってニュース見た?」テルは最終的に聞いた。
「見てない」
「先週流れてた。どこかのアフリカの小さい村で、コイン投げのお祭りがあって、全部表だったって」
「……それってテルが?」
「わからない」テルは静かに言った。「でも、わからないから、大丈夫じゃないかもしれない」
ソウは答えられなかった。
テルは端末を棚に収めて、また無表情に戻った。でもさっきの一瞬、何かが揺れていたのは確かだ。
「なるようになる」テルはいつもの口癖を言った。「でもなるようになる、って言い続けてたら、なんかまずいことになるのかな」
「……テル、それ自分に言ってる?」
「どうかな」
テルは首をかしげてから、ストックルームへ消えた。
ソウは手の中の端末を見た。画面が黒くて、自分の顔が映っていた。
なるようになる。でもなんかまずいことになるかもしれない。
その二つを同時に信じているテルは、いったい何を見ているんだろう。
閉店後、外に出ると夜の空気がひんやりしていた。
駐車場でナナがリュックのファスナーを閉めていて、カイがスマホを見ながら歩いていた。テルは先に帰っていた。
「ソウくん、今日テルさんと何か話してた?」ナナが聞いた。
「ちょっとだけ」
「テルさんって、なんか変な人ですよね」
「変な人しかいないでしょ、ここ」
「そうですけど」ナナは笑った。「テルさんの変さはちょっと違う気がして」
「どう違う?」
「なんか……全部わかってるみたいな感じ」
ソウは少し考えた。ナナがそれを言うのは面白い。ナナも毎回全力で間に合おうとして、毎回一分遅刻する。全部わかっていない側の代表みたいな人間だ。でもだからこそ、テルの「全部わかってる」感がよく見えるのかもしれない。
「テルさんが全部わかってたとしたら」ナナは言いながら空を見た。「それって楽なのかな、しんどいのかな」
「知らない」ソウは正直に言った。「でも今日、テルが珍しく迷ってるみたいな顔した」
「へえ」ナナは少し嬉しそうだった。「それはよかった」
「よかったの?」
「迷える人のほうが話しかけやすいから」
ナナはそれだけ言って、「お疲れ様でしたー!」と元気よく走っていった。急ぐ理由があるのか、それとも走るのが好きなのか。
カイはスマホから目を上げた。
「なあ、ソウ」
「なに」
「テルってじゃんけん一回も負けたことないって言ってたけど、俺が挑戦したら勝てると思う?」
ソウはカイを見た。まっすぐな目をしていた。本気で聞いていた。
「無理でしょ」
「そうだよな」カイはあっさり言った。「じゃあやめる」
カイはスマホをポケットに戻して、ひらりと手を振りながら歩いていった。軽い。あいつ本当に軽い。でもさっき、テルが「あの人、どうでもいいことに全力で、それを褒める」と言ったのを思い出した。カイがどうでもいいことに全力なのは、たぶんカイにとってはどうでもいいことなんてないからだ。
ソウは一人になってから、空を見上げた。
星が出ていた。
最近、星の数が減った気がする。
気のせいかもしれない。
気のせいだと思いたい。
でも今日テルが「なるようになる、って言い続けてたら、なんかまずいことになるのかな」と言ったことが、ずっと頭の端っこに引っかかったままだった。
ソウは深呼吸をした。
今日も変な人たちと変な一日を過ごした。
それはたぶん、普通のことだ。
……普通なのか、これ。
翌朝、ソウがスマホのニュースアプリを開くと、新しい記事が出ていた。
――渋谷区の記憶消失住民、さらに増加。昨日の出来事を「霧がかかったように思い出せない」との証言相次ぐ。専門家は「睡眠障害の集団発症」と見解。
ソウはその記事を三秒見て、閉じた。
今日もレイのシフトはなかった。でも明日は入っている。
明日、テルとレイが初めて同じシフトに入る。
なんかそれ、面白いことになりそうな気がする。
……いや、面白いで済まないかもしれないな。




