第7話「じゃんけんで負けたことがない人間の話」
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昼休みのバックヤードは、いつもより五度くらい体感温度が低い気がする。
エアコンの設定は変わっていないはずなのだが。
神崎ソウはパイプ椅子に腰かけ、コンビニで買ってきたサンドイッチの袋を開けながら、壁に掛かったテレビに目をやった。
「——静岡県御殿場市近郊で、昨夜から続く地盤沈下が確認されています。国土地理院によると、富士山の高さは今年に入ってすでに合計で約三メートルほど——」
「…また富士山」
ソウはぼそりと言ってから、たまごサンドを口に押し込んだ。
三メートル。先月も同じようなことを言ってた気がする。合計でいくら縮んだんだろう、あの山。
まあ、気のせいか。
向かいの椅子には、制服のままひっくり返って眠っている人間が一名いた。
見た目は十六歳くらいの子どもで、腕を頭の下に敷いて、口をわずかに開けて、規則正しい寝息を立てている。制服のネクタイが斜めになっていた。
今日から入ることになった新しいバイト——霧島テル、らしかった。
「あの」
ソウはその人物を覗き込んだ。
「起きてますか、霧島さん」
「……ん」
「起きてませんね」
「……んー」
まつげがわずかに動いた。色素の薄い、砂をふるいにかけたみたいな色の睫毛だった。
男女どちらとも決めがたい顔立ちで、どちらの制服を着せても絵になりそうな均整がある。ソウは一瞬「この人、どっちなんだろう」と考えたが、まあどっちでもいいかと思い直した。どっちかである必要が特にない。
「霧島さん、昼休み二十分しかないですよ」
「……まあ、なるようになる」
目が開いた。
虹彩がうすいオリーブグリーンで、テレビの灯りを反射してわずかに光っていた。
「——神崎さん?」
「そうです」
「よろしく」
「よろしくお願いします」
テルはゆったりと身を起こし、ネクタイを直しもせず、胸元のポケットからミントタブレットのケースを取り出してひと粒口に放り込んだ。それからぼんやりとテレビを見た。
「富士山、縮んでるんですね」
「らしいですね」
「ふうん」
特に動じていなかった。ソウとまったく同じ温度感だった。
「霧島さん、今日が初日ですよね。レジの使い方とか、教えましょうか」
「お願いします。でも」
「でも?」
テルはソウを見た。
「神崎さんって、じゃんけん強いですか」
「……え?」
「じゃんけん」
「いや、普通ですけど」
「じゃあ、やりましょう」
「やりましょうって、なんで今」
「暇だから」
ソウは一瞬固まった。たまごサンドが半分残っていた。
「……まあ、いいですけど」
向かい合って、じゃんけんをした。
ソウがパー、テルがグー。
もう一回。ソウがチョキ、テルがパー。
三回目。ソウがグー、テルがチョキ。
「……全部負けた」
「うん」
「もう一回」
「いいですよ」
五回やって、五回全部負けた。
ソウはテルの手元をじっと見た。後出しをしている様子はない。タイミングも普通だ。でも全部勝っている。
「……霧島さん」
「はい」
「もしかして」
「うん」
「なんか、あります?」
「あります」
あっさりと言った。ソウは軽くため息をついた。
「なるほど。また一人か」
「またって?」
「いや、こっちの話です」
午後のシフトが始まって、ソウはテルを接客フロアに連れていった。
氷室レイが端末のディスプレイを拭いているところで、隣でナナが台本を読むようにプランの説明を練習していた。
「ただいまのおすすめプランは——えーと、えーと、月額千九百——千九百八十円から——」
「ナナさん、それ三ヶ月前のパンフレットです」
「え、嘘。じゃあこっち?」
「それは英語版です」
「なんで英語版が……」
レイが静かにパンフレットを差し替えた。ナナが「助かりました!」と元気よく頭を下げる。
テルはその一連を眺めて「ふうん」と言った。
「あの人たちも、なんかありますか」
「……まあ、そうです」
「だと思った。なんか変だもんね、みんな」
「そうなんですよ」
ソウはうなずいた。
なんか変。うまい表現だと思う。自分がずっと言えなかったことを、この人は五分で言い当てた。
御堂カイがバックヤードから出てきたのは十五時を回ったころだった。
今日は接客担当ではなく在庫整理だったらしく、両手に段ボールを抱えている。ただし段ボールは微妙に浮いていた。正確には、カイの手のひらの少し上を漂っている。
「カイさん」
ソウが小声で言った。
「手。手」
「あ?」
「浮いてます」
「あー」
カイはちらりとテルを見た。テルはカイの手元を見て「ふうん」と言った。特に驚いていなかった。
「なんで驚かないんだよ」
カイがむっとした。
「重力じゃないですか、それ」
テルが静かに言った。
「……正解。なんでわかるんだ?」
「段ボールの浮き方が均一すぎる。風じゃないし、紐でもない。だとすると重力しかない」
「……こいつ、できる」
カイが真顔でソウを見た。ソウも真顔で返した。
「俺に言われても」
「お前の仲間か?」
「今日からそうみたいです」
「へえ。お前の能力は?」
カイがテルに聞いた。テルはしばらく考えてから答えた。
「確率操作です」
「確率? どんな?」
「じゃんけんで必ず勝てます。自販機のジュース、当たりが引けます。信号は青になります」
間があった。
「……それだけ?」
「それだけ」
「宝くじとかは?」
「それは大事すぎて操作できない」
「なんで大事かどうかで分かれるんだ……」
カイが眉間に皺を寄せた。テルは気にしていなかった。
「まあ、なるようになる」
「それが口癖ですか?」
ソウが聞いた。
「そうかもしれない」
夕方の来客が落ち着いたころ、ソウはバックヤードで棚卸しの作業をしていた。テルが手伝いに来て、並べて端末の箱を数えている。
「霧島さん」
「テルでいいですよ」
「じゃあ、テルさん。さっきのじゃんけん、本当に確率操作なんですか?」
「そうですよ」
「……なんか、地味じゃないですか」
テルは少し間を置いた。
「そうですね」
「悔しくないですか」
「全然」
きっぱりと言った。嘘をついている顔ではなかった。ソウはまた少し考えた。
「でも、あの——さっきのカイさんみたいに重力を曲げたり、レイさんみたいに壁をすり抜けたりはできないわけですよね」
「できません」
「それで、じゃんけんと自販機と信号だけ」
「だけ」
「……すごく割り切ってますね」
「割り切るっていうか」
テルは端末の箱を棚に戻しながら言った。
「どうでもいいことだけうまくいくっていうの、結構いいと思いません?」
「いいですか?」
「大事なことがうまくいかなくても、小さいことがちゃんとうまくいく。そっちの方が毎日楽しいですよ」
ソウはそれを聞いて、ちょっと黙った。
なんか変なことを言われている気がするのに、反論できない。
「……なるほど」
「自販機、一緒に行きましょう。あたり出します」
「出せるんですね」
「百パーセントで」
休憩を挟んで戻ってくると、フロアが少し騒がしくなっていた。
といっても、お客さんが増えたわけではない。
レイが端末コーナーの奥で「少し待ってください」と言っているところだった。
ソウの背中に、うっすらと寒気が走った。
「——あの」
ソウはすぐに声の方向を向いた。壁際に立っているレイの姿が目に入った。一歩手前で、客用の椅子が倒れていた。
「お客さんのスマホが、棚の裏に落ちていて」
レイが静かに言った。ソウに向かって。
「回収が必要です」
「……棚の裏に」
「はい。壁と棚の間の隙間に」
「……レイさん」
「はい」
「今から」
「はい」
「……わかりました」
ソウは一歩引いた。テルが隣に来て「どうしたんですか」と小声で聞いた。
「ちょっと目を閉じてた方がいいかも」
「なんで」
「仕様です」
「……?」
どさっ、という音がした。
続いてすうっ、という静かな音。
ソウはテレビの方を向いた。画面ではニュースキャスターが何かを読んでいた。
「——南米チリ沖で、記録的なスケールの海底隆起が観測されています。専門家によると原因は不明で——」
「神崎さん」
後ろからレイの声がした。
もう服を着た状態だった。手の中に、客のスマホが収まっていた。
「無事回収できました」
「……お疲れ様です」
「ありがとうございます。見ていらっしゃいましたか」
「見ていません」
「そうですか」
レイは微塵も表情を動かさず、お客さんの元へ戻っていった。
テルがぽかんとした顔でレイの背中を見送っていた。
「……あの人、今」
「仕様です」
「え?」
「仕様だそうです」
「……ふうん」
さすがのテルも、今のは「ふうん」で片付けるのに一秒くらいかかっていた。
ソウはひとつため息をついた。
チリ沖で海底が隆起しているらしい。謎の原因で。さっきレイが壁をすり抜けた方向は、確か南南西だった。
……気のせいか。
閉店作業を終えたバックヤードで、カイが腹が減ったと言い出した。
「誰かコンビニ行く人いる?」
「俺、行きますよ」
ソウが答えた。
「テルさん、来ますか」
「行きます」
二人で連れ立って外に出た。夜の空気が冷たくて、ソウはジャケットのファスナーを上げた。
コンビニまでの道、信号が二つあった。
一つ目、テルが前に出た瞬間に青になった。
二つ目、同じく青になった。
「……本当に青になるんですね」
「なります」
「毎回?」
「毎回」
ソウは空を見上げた。星がいくつか出ていた。
「テルさんって、この仕事どうして始めたんですか」
「暇だったので」
「暇」
「うん」
「それだけですか」
「それだけ」
コンビニの自動ドアが開いた。テルは迷わず飲料コーナーに向かい、棚の前に立った。
「何がいいですか、神崎さん」
「緑茶か水どっちかで」
テルが二本、適当に手を伸ばした。そのまま会計に向かった。
「当たり、出ますか?」
「たぶん出ます」
精算が終わった直後、電子音が鳴った。
「あ、当たり」
テルは特に嬉しそうではなかった。でも、その顔はどこか穏やかだった。
「もう一本もらえますよ。神崎さん、何にします?」
「……コーヒーで」
「わかりました」
テルがもう一本選んで、追加の精算をした。ソウは受け取りながら言った。
「ありがとうございます」
「いや、当たったのは偶然ですよ。私の能力で引き寄せただけで」
「偶然と引き寄せって同じじゃないですか?」
「……どうでしょうね」
テルは少し考えてから、「まあ、なるようになる」と言った。
バックヤードに戻ると、ナナが床に直座りしてスマホを見ていた。
「あ、お帰りなさいソウさん!」
「ただいまです。なんで床で」
「椅子が全部埋まってるんです」
見ると、レイがパイプ椅子に腰掛けて報告書を書いていて、カイが別の椅子の上に書類を山積みにして机代わりにしていた。
「カイさんそれ椅子ですよ」
「知ってる」
「椅子は座るためのものです」
「わかってる。でも机が遠い」
「近づいてください」
テルはさっさと空いた隅の床に座り込んで、コーヒーのキャップを開けた。床に座ることへの抵抗が一ミリもなさそうだった。
レイが顔を上げてテルを見た。
「霧島さん、今日はどうでしたか」
「問題なかったです」
「接客は?」
「普通にできました」
「そうですか」
それだけ言って、レイは報告書に視線を戻した。
ソウはみんなの顔を見回してから、なんとなく壁に背中をもたせかけた。
カイが書類をめくる音。ナナがスマホのゲームをしている効果音。テルが缶をテーブルに置く小さな音。レイのシャーペンが紙の上を走る音。
バックヤードというのは本来、業務のための場所のはずだ。でも今は、なんか、居場所みたいになっている。
変な人たちの、変な居場所。
テレビではまだニュースが流れていた。
「——南米チリ沖の海底隆起に続き、今日未明には太平洋上の観測衛星が複数の異常データを送信してきたことが明らかになりました。当局は『前例のない事象』として——」
「……なんか変じゃない?」
ソウはぼそりとつぶやいた。
「何が?」
テルが聞いた。
「ニュース。最近、変な自然現象ばっかりじゃないですか。富士山とか、海底隆起とか、鳥が飛べなくなるとか」
「ふうん」
「テルさんは気にならないですか」
「なるようになりますよ、そういうのも」
「……そうですかね」
「まあ」
テルはコーヒーをすすった。
ソウはもう一度テレビを見て、それからサンドイッチの残りを食べた。
気のせいか。たぶん、気のせいだ。
でも、どうして毎回「気のせい」にしてしまうんだろう、と一瞬だけ思った。
——一瞬だけ。
「ところで」
帰り際、更衣室の前でテルがソウに言った。
「神崎さん」
「はい」
「明日もじゃんけんしましょう」
「……また絶対に負けるやつですよね」
「そうです」
「なんのために」
「暇だから」
テルは笑った。
口角が少し上がる、小さな笑い方だった。
「おやすみなさい、神崎さん」
「おやすみなさい」
テルが先に出て行った。
ソウは鍵をポケットに突っ込みながら、今日一日を思い返した。
新しい変な人が来た。じゃんけんで五回全部負けた。信号が全部青だった。自販機が当たった。レイが壁をすり抜けた。チリで海底が隆起した。
てんでばらばらな出来事が、なぜか一本の線で繋がっているような気が、うっすらとした。
——気のせいか。
たぶん、気のせいだ。
ソウは電気を消して、バックヤードを出た。
次の日の朝のニュースで「太平洋上の謎の電磁波異常」が報告されることを、この時点ではまだ誰も知らなかった。
——少なくとも、ソウは知らなかった。




