第6話「重力には従うけど、体重計には従いたくない」
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「鳥、まだ飛べてないらしいですよ」
ナナがカウンター越しにタブレットを向けてきたのは、午前のシフト開始から十分も経っていない頃だった。
「なんですかこれ」とソウが画面を覗き込むと、ニュースアプリの見出しに『関東近郊・鳥類の飛行異常、発生域がさらに拡大』とある。続報だ。最初に聞いたのは確か先週で、その時は北関東の一部地域だったはずだが、今週は神奈川まで広がっているらしい。
「気のせいか、範囲広くない?」
「広がってますよね」ナナはけろっとしている。「でもうちの近所のハトはふつうに飛んでたので、大丈夫です」
「大丈夫の根拠がローカルすぎる」
ソウはタブレットをナナに返した。鳥が飛べない地域。富士山の縮小。謎の島の消滅。ニュースのラインナップが、ここ最近じわじわとおかしなことになっている気がする。
……気がする。
でもまあ、気のせいかもしれない。
気にしても仕方ない案件を引きずるのはソウの性格に合わなかった。バックルームから出てきた氷室レイが「おはようございます、神崎さん」と静かに挨拶を寄越し、ソウは「おはようございます」と返した。今日のレイはネイビーのスーツで、いつも通り一分の隙もない。スペアの服は本日もちゃんと鞄に五セット入っているのだろう。
御堂カイが遅番で出勤してくるのは昼からだ。
霧島テルはどうだったか。今日のシフトに入っていたような、いなかったような。
「テルくんは今日いる?」
「霧島さんは十三時から」とレイが答えた。「昨日、確認しておきました」
「ありがとうございます」
かゆいところに手が届く先輩だ。壁に突っ込んでいく人物と同一人物とは思えない。
午前中の来客は少なく、ソウはレイと交互にカウンターに立ちながら手の空いた時間を過ごした。
十一時を少し回った頃、店のドアが開いた。
入ってきたのはカイだった。
——昼番じゃなかったっけ。
「早いな」とソウが声をかけると、カイは胸を張った。珍しくトレーニングウェアの上にジャケットを羽織っている。
「俺、今日ジム行ってきたんだよ」
「バイト前に?」
「当たり前だろ。体の管理は基本だ」カイは腕を組み、いかにもな顔で言った。「重力を操れる俺でも、自己管理は欠かさない」
「偉いと思います」
「そう、偉い。で、ちょっといいか」
カイはバックルームの方を顎でしゃくった。「あっちで着替えたい。早めに入っていい?」
別にかまわないか、とソウは店長に目配せした。田所マサルは「どうぞ」と鷹揚に手を振り、カイが奥へ消えた。
三分ほど経って、カイが出てきた。
制服姿になっているが、その顔が微妙に沈んでいる。
「……どうした」
「体重計があった」
「バックルームに?」
「あった」カイはむっつりしたまま答えた。「なんであんなところに体重計が」
「誰かのじゃないですか」とナナが首を傾けた。「でもカイさん、ジム行ってきたんでしょう? ちょうどよかったじゃないですか」
「よくない。むしろ最悪だ」
「なんで」
カイはしばらく黙った。
「……二キロ増えてた」
場に沈黙が落ちた。
ソウは「あ、そう」と言いながら、なんとかそれだけにとどめた。笑ってはいけない。でも表情の制御が難しい。
「重力を操れるのに?」ナナが素直すぎる問いを投げた。
「自分の体重だけ操作できないんだよ!」
「ジムって言ってましたよね」
「行ったよ! 行ってきたよ! プロテインも飲んできたよ!」
「プロテインって増量期に飲むやつでは」
「減量用のやつ買ったの! ちゃんと!」
ソウは唇を噛んだ。いや、これは笑ってはいけない案件だ。うん。大丈夫。
「……神崎、笑ってるだろ」
「笑ってません」
「顔が笑ってる」
「笑ってません。心配してます」
レイが静かに割り込んだ。「御堂さん、プロテインの成分を確認しましたか」
「した!」
「糖質量は?」
「……」
カイの動きが止まった。
「確認しましたか」
「……してない」
「糖質ゼロと書いてあっても、原材料に乳糖が含まれていることがあります。ホエイプロテインは特に。製品によっては一杯あたり十グラム以上入っています」
カイの目が虚空を見た。
「御堂さん、一日何杯飲みましたか」
「……三杯」
「それは増えます」
沈黙。
ソウはカウンターの端を掴んだ。笑ってはいけない。これは真剣な問題だ。重力を操れる男が糖質で二キロ増えた話だ。笑えない。
「……笑ってるだろ神崎」
「笑ってません」
「笑ってるだろ絶対に」
「笑ってません。笑いたい気持ちはありますが、笑ってません」
「そっちのほうが傷つく!」
昼過ぎ。定刻にナナが一分遅刻で飛び込んできて(本人は「計算通りです!」と叫んだが誰も信じていない)、入れ違いでソウは休憩に入った。
バックルームのテレビが、昼のニュースを流している。
ソウはパンをかじりながらぼんやりと画面を見た。
アナウンサーが「南米チリ沖の無人島が先月に引き続き、また一つ消滅しています。チリ政府は原因を調査中ですが——」と読み上げている。
また消えた。
先月もそういうニュースを聞いた気がする。確かペルーだったか。島ってそんなに頻繁に消えるものだろうか。
……気のせいか。
地球規模でいろいろあるのかもしれない。プレートとか、海底地形の変化とか。そういう話は専門家に任せておけばいい。
そう思いながら、ソウはパンを飲み込んだ。
扉が開いて、霧島テルが入ってきた。
「……あ、もうここにいるんですね」
「霧島さん、今日十三時でしたよね」
「そうです。ちゃんと来ました」テルは目を細めて壁の時計を確認した。「あと四十秒あります」
「だからバックルームに先に入ってきた?」
「ロッカー使いたいので」
まあそれはそうか、とソウは思った。テルがロッカーを開け、ぼんやりと荷物を入れ替え始める。
しばらく無言が続いた。
ソウはテレビを見た。テルはロッカーを見た。
「ねえ霧島さん」
「なんですか」
「昨日の、あの話」
テルがロッカーから視線を上げた。
昨日の終業際、テルが言った言葉が、なんとなくソウの中で引っかかっていた。
なんで自分たちは皆、能力を持っているのか。
あの時、なんとも言えない空気が流れた。レイも、ナナも、カイも、少し黙った。その間がソウには引っかかっていた。
「別に」とテルは言った。「ただ思っただけです」
「ただ思っただけにしては、みんな反応が——」
「まあ、なるようになる」
テルは目を細めてそう言い、制服の袖に腕を通した。
いつもの口癖だ。でも今回は少しだけ、違う質感がある気がした。
……気のせいか。
ソウはパンの最後の一口を飲み込んだ。
午後の来客が一段落した頃、事件は起きた。
正確には「事件」と呼ぶほどでもないかもしれないが、ソウの心拍数的には充分に事件だった。
発端は棚だ。
店の端、天井近くに設置された展示棚に、メーカーのロゴが入った大きなパネルボードが立てかけてある。重さ三キロほどの、あの手の看板だ。それが、突然傾いた。
ちょうどその棚の前を、一人の女性客が歩いていた。
ソウが動くより早く、カイが動いた。
——正確には、「カイが手を上げた」。
特に走ったわけではない。ただ少し腕を持ち上げて、指先を向けた。それだけだ。
バシャン、という音がして、パネルボードは落下しかけた軌跡をそのまま止め、空中で静止した。
女性客は気づいていない。振り返ることなく歩いて行き、棚から充分に離れた。
カイが静かに腕を下ろすと、パネルボードがゆっくりと棚に戻った。
ソウは一部始終を見ていた。
カイはソウの視線に気づくと、肩をすくめた。
「別に大したことじゃない」
「いや、大したことあるだろ」
「ナルシストが人助けしたら不思議か」
「そういう話じゃなくて」
ソウは言葉を探した。言いたいことが何となくある。能力を使うことを驚いているわけじゃない。ただ、あの動きの、迷いのなさというか、自然さというか。
「あの人に気づかれなかったな」
「当たり前だろ」カイは平然と言った。「気づかれたら意味がない」
「……それ、わかってやってたの?」
「何が?」
「気づかれないように、ってこと」
カイは少しだけ目を細めて、ソウを見た。
「……まあな」
それだけ言って、カイはカウンターの方へ戻って行った。
ソウはしばらくその背中を見ていた。
重力すら俺には従う、が口癖のナルシストが、誰にも気づかれないように人を助けた。
なんか変じゃない? いい意味で。
夕方、また一仕事終えた頃。
レイが「少し待ってください」と言った。
その瞬間、ソウの背中を冷たいものが走った。
「……え、ちょっと待って、今?」
「はい。バックルームに書類を置いてきてしまいました。扉の鍵が閉まっているので」
「いや鍵なら俺が——」
「少し待ってください」
レイはすでに動いていた。ソウは反射的に反対を向いた。
どさ、という音が聞こえた。
服の、落ちる音だ。
テルがカウンターの向こうでコップのお茶を飲んでいたが、そちらの方向はソウから見て視界の外だ。カイはトイレに行っている。ナナは接客中でこちらを向いていない。
良かった、目撃者が少ない。
そういう問題でもない気がするが。
「……神崎さん、そちらを向かないでください」
「向いてません」
「目の端に入っています」
「入ってませんっ」
壁の向こうから、足音が聞こえた。一歩、二歩、三歩。
そしてしばらく無音。
また足音。
壁から、レイがずぶっと出てきた。
書類を手に持っている。
服はない。
「ご確認いただけましたか」
「確認してませんっ」
「ご覧になっていましたか」
「見てないっていってるじゃないですかっ」
「目の焦点が合っていました」
「合ってませんっ」
ソウは天井を向いた。天井には何もない。何もないが、それでも天井を向いていた方が精神衛生上よろしい。
レイは手際よく着替えを済ませた。どさっと音がして、スペアの服に袖を通す気配。
「完了しました」
「……ちゃんと完了した?」
「はい」
ソウはそろそろと振り返った。レイは完璧なスーツ姿で、書類をデスクの上に置いていた。どこからどう見ても有能な先輩バイトだ。
「前回の『少し待ってください』は在庫棚の端末でしたよね」とソウは声を絞り出した。「その前は書類の確認で」
「今回も書類の確認です」
「今回もって、それ頻度上がってません?」
「仕様です」
「仕様が増殖してませんか」
レイは一瞬だけ、ほんの少しだけ、視線を横にずらした。
「……鍵を探す時間が、もったいなかったので」
「それは効率の問題なんですか」
「はい」
ソウはしばらく黙った。
「あの」
「はい」
「俺、こういうの慣れた方がいいですか。慣れていいんですか」
レイは考えた。しばらく考えて、
「慣れなくていいと思います」
「じゃあどうすれば」
「ご自身でお決めください」
それは答えなのか、と思ったが、ソウには反論する語彙が今日は残っていなかった。
閉店作業が終わり、バックルームで着替えながら、ソウはカイに声をかけた。
「さっきのパネル、ありがとうな」
カイは鏡を見ながら髪を直していた。
「何が」
「客が気づかないようにしてたろ、あのパネル止めた時」
カイは少しの間、鏡越しにソウを見た。
「当たり前のことだろ」
「当たり前なのか」
「能力を見せびらかしたら意味がない。接客は空気感が大事なんだ。俺はプロだ」
ナルシスト発言に戻ってきたが、ソウは今日に限っては何も言わなかった。
当たり前のことだろ、と言ったカイの顔が、さっきよりも自然に見えたから。
「霧島さん」
テルがロッカーを閉めながら振り返った。
「昨日の話、ちゃんと教えてくれる気ある?」
「ない」
「即答だな」
「でも、そのうちわかります」
「そのうちって、いつ」
「なるようになる頃に」
テルは眠そうな目でそう言い、のっそりとバックルームを出ていった。
ソウはその背中を見送った。
——そのうち。
なるようになる頃に。
なんか変な言い方じゃない?
……気のせいか。
帰り際、スマホで何気なくニュースを流し見した。
鳥の飛行異常、拡大。チリ沖の島、消滅。それから——新しい見出しが一つ。
『国土地理院発表:富士山の標高、今月でさらに二メートル減少。調査継続中』
富士山が縮んでいる。
二ヶ月で、もう五メートル以上か。
ソウはスマホの画面を閉じた。
気のせいじゃない気がしてきた。
でもまあ、今日はもう家に帰って寝ることにした。
明日のシフトにはミオさんが来るはずだ。朱雀ミオ——まだちゃんと話したことのない、一番の古株が。




