第5話「重力に従えないのは俺だけでいい」
---
「鳥が飛べない地域、拡大中——専門家も首を傾げる原因不明の重力異常、現在も継続しており——」
バックヤードのテレビが今日も元気よく変なニュースを垂れ流している。
神崎ソウはロッカーの前でネクタイを締めながら、その音声を半分くらい聞いていた。鳥が飛べない。地域が拡大。重力異常。
「……なんか変じゃない?」
呟いて、やめた。考え始めると底がない気がする。
ソウはネクタイを引っ張って結び目を整え、バックヤードを出た。
フロアに出たら、御堂カイが天井を見上げて立っていた。
何かを考えているのか、ぼんやりしているのか、判断しかねる顔だった。手にはスマートフォンの展示機。でもその展示機が、手から十センチほど浮いていた。
「カイ」
ソウは小声で呼んだ。
「ん?」
カイが振り向いた。展示機がふわりと手元に戻る。
「朝から何してんの」
「重さの確認」
「お客さん来たら見えるけど」
「俺の手品ということにする」
「手品にしてはナチュラルすぎるでしょ」
カイはそれを指摘されるのが心外そうな顔をした。イケメンが心外そうな顔をすると何か腹が立つ、とソウは昨日発見した。
「神崎、俺がやってること、そんなに目立つか?」
「目立つよ。物が浮いてたら目立つよ」
「重力を操ってるんだが」
「知ってる」
「知ってるなら言い方があるだろ。もっとこう——『カイさん、すごいっすね』みたいな」
「カイさん、お客さん来ますよ」
ソウはガラスドアの外を顎で示した。ちょうど主婦らしき女性が入店しようとしている。カイが素早く展示機をスタンドに戻した。その動作だけは完璧に自然だった。
接客というのは不思議なもので、カイはフロアに出た瞬間に別人になる。声のトーンが一段落ちて、笑顔が穏やかになる。
「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件でしょうか」
ソウは横目で見ながら、自分のカウンターへ向かった。
午前中は平和だった。
来店客が二組。どちらも機種変更で、どちらも穏やかな客だった。ナナが操作説明をしていて、たまに「えっと……」と詰まるが、それもそんなに長くない。
カイが接客しているところをソウは何度か観察した。
重力を操作してるところは、それから一度もなかった。
「ねえ、カイ」
お茶の時間、バックヤードに入ったタイミングでソウは聞いた。
「重力って、どういう感覚で使ってんの」
カイはペットボトルのお茶をひとくち飲んでから、ちょっと考えた。
「……呼吸みたいな感じ、かな」
「呼吸」
「力を入れてるとか、意識してるとか、そういうんじゃない。なんとなく、物の重さが気になる。気になったら、ちょっと触れる。そういう感じ」
ソウはその説明を聞いて、少しだけ感心した。
「詩的じゃん」
「詩的?」俺が? みたいな顔をカイはした。「まあ、そう言われると悪くない」
「で、自分の体重だけ操作できないって聞いたけど」
カイの表情が一瞬固まった。
ソウは昨日、ナナから聞いていた。「カイくんってダイエットしてるのに全然やせないんだよね、自分はいじれないから」と、何も考えていなさそうな笑顔で教えてくれた。
「……それ、ナナが言ったな」
「うん」
「あいつ余計なことを」
カイはお茶のペットボトルを持ち直した。持ち直したペットボトルが、ほんの少し浮いた。
「俺の体重は、重力に従う。それだけだ。別に大したことじゃない」
「大したことあるでしょ」ソウは言った。「宇宙の理を操れるのに、自分だけ例外って、けっこうしんどくない?」
カイがソウを見た。
なんとも言えない顔だった。怒っているわけでも、照れているわけでも、たぶんない。ただ少しだけ、驚いたような顔だった。
「……お前、そういうこと言うんだな」
「事実を言っただけだけど」
「普通はそこ、笑うところだぞ」
「笑わないよ」
カイはしばらく黙った。
「まあ」と彼は言った。「重力に従えないのは、俺だけでいいと思ってるから」
意味深なのか、強がりなのか、ソウには判断がつかなかった。
昼前に、氷室レイが出勤してきた。
午後からのシフトだが、少し早めに来てバックヤードで着替えることが多い。というか、レイは何事も少し早めだった。余裕が常にある人間に見えた。
「おはようございます、レイさん」
ナナが呼びかけた。
「おはよう」とレイが答えた。「外は?」
「ちょっと風が強くて、コートでちょうどいいくらいです」
「そう」
淡々としているが、レイの「そう」はぞんざいではなかった。ちゃんと聞いているときの「そう」だとソウはわかるようになってきた。たぶん三週間一緒に働いた成果。
レイはロッカーを開けて、制服のジャケットを取り出した。
ソウはそれを確認してから、さっさとフロアに戻った。
「少し待ってください」が来る前に退場するのが、最近のソウの基本行動だった。
午後になって客足が増えた。
カイが接客で「このプランはどうでしょう」と説明しているとき、客の男性がデスクに置いたカタログが——なんとなく浮いた。
一センチくらい。ほんの一瞬。
カイ本人は気づいていないようだった。
ソウは素早くカタログに手を置いて、自然な動作を装いながら固定した。
カイが「ご不明な点はございますか?」と笑顔で客を見ている間、ソウは手のひらでカタログをテーブルに押さえ続けた。
客が「じゃあ少し考えます」と立ち上がってから、カイがソウを見た。
「なんでカタログ押さえてたんだ?」
「落ちそうだった」
「そうか? 風もないのに」
「……気のせいかもしれないけど」
カイは少し首を傾けたが、深く追わなかった。
ソウはそっとカタログから手を離した。
三時ごろ、田所店長が奥から出てきた。
店長の田所マサルは四十代で、どんな日も同じトーンで喋る人だった。怒るときも静かで、喜ぶときも静かで、でも何かを見逃すことはなかった。
「神崎、カウンター三番のモックが傾いてないか?」
ソウが見ると、確かに少し傾いていた。
「直しておきます」
「頼む。あと——」
店長がバックヤードの方を顎で示した。
「なんか今日テレビの音量大きいな。ニュースうるさくないか、確認してきてくれ」
「わかりました」
バックヤードに入ると、テレビがちょうど話し変わりのタイミングだった。
「——続きまして、北陸地方の一部地区で、住民が昨日の記憶を持っていないという報告が相次いでおり——」
ソウはリモコンを手に取って、音量を二つ下げた。
「——専門家は睡眠障害の集団発生を示唆しておりますが——」
三つ下げた。
「……なんか変じゃない?」
呟いてから、リモコンを戻した。
北陸。昨日の記憶がない住民。集団発生。
ソウは腕を組んで少し立ち止まった。
「時間が止まると、記憶もなくなるのかな」
言ってから、誰もいないバックヤードで一人で呟いていたことに気づいた。
「……気のせいか」
フロアに戻った。
夕方、困ったことが起きた。
在庫室の棚の上段に、今日の夕方分の申込書類が入ったファイルが入っていた。ソウが昨日、片付けたやつだ。
上段というのは、ソウの手が届くかどうかギリギリのところだった。脚立を使えばいいのだが、脚立は今、店長がフロア整備に使っている。
「カイ、ちょっといい?」
ソウはフロアを覗いて声をかけた。
「なんだ」
「在庫室のファイル取りたいんだけど、上の棚のやつ。脚立使えなくて」
「俺が取ればいいか?」
「身長は足りるかもしれないけど……なんかうまい方法あったりする?」
カイが在庫室に来た。棚の上段を見上げる。
「このくらいなら、引き寄せられるな」
「え、引き寄せる?」
「重力の方向をちょっとずらして——こっちに傾ければいい」
「……それ、ファイル落ちてこない?」
「落下の方向も操作するから問題ない」
「本当に?」
「俺を信頼しろ」
「したくても怖い」
カイが少し笑った。珍しく、変なプライドが入っていない笑いだった。
「わかった。一緒に手を伸ばしておけ。俺が引き寄せたらお前がキャッチする」
「コンビプレー」
「そう。俺が司令塔で、お前が実行」
「どっちが大事なのかはさておき、やってみよう」
カイが棚の前に立って、ゆっくりと手を上げた。
空気が少し——なんか変わった気がした。物理的に何かが変わったとは言えない。でも棚の上段のファイルが、ほんの少しこちらに傾いた。
ソウは手を伸ばして——
ファイルが滑らかに、棚の端まで移動してきた。ソウは両手でキャッチした。
「おお」
声が出た。
「どうだ」
カイが振り向いた。やや得意げな顔。でもさっきのバカっぽい自慢とは違う、もう少し素直な顔だった。
「すごいじゃん」
「当たり前だろ」
「うん、でもすごいよ」
カイが少し黙った。
「……そういう返し、慣れてないな」
「え」
「褒め方が、こう——真剣すぎる」
「真剣にすごいと思ったんだけど」
「だからそれが——」
カイは頭をかいた。
「まあ、いい」
在庫室を出たところで、廊下の端に氷室レイが立っていた。
「少し待ってください」
ソウとカイは同時に足を止めた。
ソウはすかさず正面の壁を向いた。三週間で完全に条件反射が育った。
カイはなぜ急に壁に向いたのかわかっていないようで、「え、どした」と言いかけた。
「カイ、壁向いて」
「え?」
「向いて。今すぐ」
「急に何——」
どさっ、という音がした。
布の、落ちる音。
カイが「っ」と固まった。
「……なんか来た」
「来たじゃない。向いて」
「向いてるけど俺いま何が——」
「大丈夫ですよ、御堂さん」
レイの声が聞こえた。完全に平静な声。「通り抜けます」という声の後、かすかに空気が動く気配がして——それから、壁の向こうから「問題ありません」という声がした。
しばらく沈黙。
「……戻ります」という声。
どさっ、という音。
「終わりましたか」とレイの声。
ソウが正面を向くと、レイがスペアの制服に着替えて立っていた。頭の一本も乱れていない。完璧な状態でそこにいた。
「何を取りに行ったんですか」
ソウが聞いた。
「壁の向こうに、先週入れてしまった申込書の控えがありました。棚の隙間から落ちたようです」
レイは取り出した書類を見せた。確かに申込書の控えだった。
「それのために」
「最も効率的な方法を取りました」
「……そうですね」
カイがゆっくり振り向いた。目が少し泳いでいる。
「えっと」
「御堂さん、初めてご覧になりましたか」
レイがカイに向いた。
「……はい」
「私の仕様です」
「仕様」
「通り抜けには完全脱衣が必要です。以上です」
「以上、って」
カイが言いかけて、止まった。何か言いたそうだったが、言葉を選んでいるうちにタイミングを逃したようだった。
レイはすでにフロアの方へ歩いていた。
「……神崎」
カイが小声で言った。
「なに」
「お前、あれが普通なのか」
「あれが普通です」
「三週間で慣れたのか」
「慣れたというか……慣れた」
カイが複雑な顔をした。
「すごいな」
「カイも慣れるよ」
「俺は重力を操れても、あれには慣れる自信がない」
ソウはそれを聞いて、少しだけ笑った。
重力より難しいことは、世の中にいくらでもある。
閉店作業が終わったのは夜の九時ごろだった。
ソウはバックヤードでコートを羽織って、カイと一緒に裏口から出た。
「また明後日」
「ああ」
カイが手を上げた。
「神崎」
「なに」
「お前、ここに来る前も、こういう職場だったか?」
ソウは少し考えた。
「前のバイト先は普通のスーパーだったよ」
「普通の」
「普通に普通だった」
カイが少し黙って、「そうか」と言った。
「ここが初めて変なのか」
「うん」
「……慣れるもんだな」
「何に?」
「変なやつに」
ソウは答えなかった。
慣れたのか、慣れたふりをしているのか、もう区別がついていないのかもしれなかった。でも、それはそんなに悪い話じゃない気がした。
裏口の角を曲がったところで、ソウはコートのポケットに手を入れた。
スマホに通知が来ていた。ニュースアプリ。
「北陸一部地区、昨日の記憶を持たない住民がさらに増加。現在対象者は200名超——」
ソウはそれを一秒見て、アプリを閉じた。
「……気のせいか」
空を見上げた。
星が出ていた。
なんとなく、昨日より一個少ない気がした。
気のせいかもしれない。数えたことなんかないし、星の数なんか誰も覚えていない。
でも。
ソウは歩き始めた。
次のシフトで、見慣れない名前がシフト表に書き加えられていた。
「霧島テル」
短い名前だった。
ソウはそれを見て、また変な人が来るんだろうなと思った。
「……気のせいならよかったんだけど」
シフト表を元の場所に戻した。




