第4話「重力には逆らえない(体重は特に)」
朝のニュースをぼんやり眺めながら、神崎ソウはトーストに無言でバターを塗り続けた。
テレビの画面では、スーツ姿のアナウンサーが真剣な顔をしている。
「——鳥取県西部の一部地域で、鳥類が飛行不能になるという奇妙な現象が確認されています。住民からは『鳩が歩いている』『カラスが木から落ちてくる』との報告が相次いでおり、専門家は——」
ソウは耳の端にひっかけたまま、トーストを口に放り込んだ。
「……なんか変じゃない?」
誰もいない部屋で独り言が響く。
「……まあ、気のせいか」
バターの塩気が口に広がった。今日もバイトの時間が迫っている。
午後一時。
携帯販売店の「モバイルステーションSHINE」は、週末の客足でそこそこ賑わっていた。
ソウがカウンターで書類を整理していると、自動ドアが開いた。
「——と、いうわけで! 俺が着いたからもう大丈夫だ!」
入ってきた男は、開口一番そんなことを言った。
背は高く、顔立ちは整っている。髪は寝癖なのか意図的なのか判断のつかない微妙なセットで、えりが開いたシャツにジャケットを羽織っている。見ようによっては格好いい。見ようによっては、だが。
「……だから何が」
ソウは書類から目を上げず、平坦な声で返した。
「御堂カイ、二十二歳。今日からこの店のバイトだ。よろしく」
男——御堂カイ——は、誰も求めていないのに手をさっと横に広げてポーズを決めた。
「店長から聞いてる。神崎ソウ、だろ? 世話になるな」
「……うん。まあ」
ソウは書類をひとまとめにして棚にしまい、改めてカイを見た。
第一印象:自信過剰。第二印象:でも人を嫌な気持ちにさせるタイプではない。
そういう人間というのが、世の中には一定数いる。
「氷室さんは?」
「今日は午後三時上がり。ナナは夕方から」
「そっか。じゃあまず神崎くんが色々教えてくれる感じ?」
「まあ、そうなる」
「よろしく頼む。俺、飲み込み早いから」
カイはにっこりと笑って、更衣室の方へ向かった。
ソウはその背中を一秒眺めて、視線を戻した。
……なんか変じゃない?
漠然とした既視感。この店に来る人間に感じる、うまく言語化できないズレ。
気のせいか。
接客マニュアルの説明を終えたのは三十分後だった。
「つまりプランの説明は正確に、でも押し売りはしない。客が決めるまで待つ。端末の在庫確認は棚とシステムを必ず両方見る。これが基本」
「了解。簡単じゃん」
「まあ見てればわかる」
カイは腕を組んで天井を見上げた。
「なあ、神崎くん」
「ソウでいい」
「じゃあソウ。この店、他のバイトはどんな感じ?」
「氷室さん、ナナ、俺、あとカイさんで今のところ四人か」
「カイでいい。カイさんはやめてくれ、むず痒い」
「わかった」
「氷室さんって、どんな人?」
ソウは少し考えた。どんな人、と問われると答えに詰まる。
「……有能。クール。あと、気をつけたほうがいいことが一個ある」
「なに」
「『少し待ってください』って言われたら、目を閉じるか壁の方を向くこと」
カイは眉を片方だけ上げた。
「……どういうこと?」
「見ればわかる」
「なんかよくわからん答えだな」
「そうだと思う」
その日の午後は、思いのほか穏やかに過ぎていった。
問題が起きたのは、夕方四時過ぎだった。
「すみません、このプランって月々いくらになるんですか」
カウンターに立っているのは三十代くらいの男性客で、スマートフォンの乗り換えを検討しているらしい。ソウが対応しながら資料を開いていると、隣でカイが別の客への説明を始めた。
「こちらのプランでしたら——」
声のトーンは丁寧だ。表情も柔らかい。悪くない。
と、思っていたら。
「——え、これって、ちょっと動かしますね」
カイが何かを言って、カウンターの上のタブレットスタンドがふわりと浮き上がった。
ソウの隣で。
五センチほど空中に浮いたまま、くるりと向きが変わって、客の見やすい角度に定まった。
タブレットスタンドは、ケーブルもつながっていないのに。空中に。浮いて。いた。
「……こちらの料金表がこのようになっております」
カイは何事もなかったようにタブレットの画面を指差した。
客がぽかんとしている。
ソウも一瞬固まって、我に返って、自分の客の方に視線を戻した。
「——えーと、月々のご料金は、このプランですと基本料金が……」
ソウは笑顔を維持したまま、内心で深呼吸した。
……見た。確かに見た。タブレットスタンドが浮いていた。
でも客が「え、今浮きました?」と言い出さないので、おそらくカイの動作が自然すぎて見間違えたと思ったのだろう。
「ありがとうございます、参考にしてみます」
カイの客が帰っていく。
ソウも自分の客を見送って、すぐにカイの方を振り向いた。
「……ちょっといい?」
「おう、どした」
「今、タブレットスタンド浮かせた?」
カイはまったく悪びれない顔で言った。
「浮かせた。客に角度合わせたかったんだよ。便利だろ?」
「浮かせた」
「浮かせた。なんか問題あった?」
「……問題というか」
ソウは言葉を選んだ。レイのことを思い出した。「私の仕様です」と言った時の顔を。ナナが毎回全力疾走しているのに一分遅刻する事実を。
「……この店、なんか変な人しかいないのは知ってたんだけど」
「変? 俺が?」
「カイが変とは言ってない。状況が変って言った」
「まあ、そうかもな」
カイはさらりと言って、カウンターに肘をついた。
「俺、重力をちょっといじれる。局所的に。別に大した話じゃない」
「……大した話では?」
「ソウの周り、他にも変な人いるんだろ。さっきそんな雰囲気だった」
「……否定はしない」
「だったら俺くらい別にいいじゃん」
ソウは数秒考えた。
確かに、言われてみれば。
「……まあ、そうか」
「順応早いな、ソウ」
「最近慣れてきた」
夕方になってナナが飛び込んできた。
「間に合った!」
「一分遅刻です」
バックヤードから出てきたソウがそう言うと、ナナは「えっ」と声を上げた。
「嘘! 絶対今日こそは大丈夫なはずだったのに!」
「今日は何をした?」
「時間を——いえ、全速力で走りました!」
「なのに一分遅刻」
「なんで!!」
ナナは本気で悔しそうに靴のかかとを踏み直した。
そこにカイが顔を出して、ナナとソウを交互に見た。
「この子が時間止める子?」
「言ってないけど」
「なんとなく」
ナナがきょとんとカイを見た。
「だれですか?」
「御堂カイ。今日から仲間。重力担当」
「重力ってなんですか?」
「重力」
「あ、そうですか」
ナナはあっさり納得して、更衣室へ向かった。
カイがソウに小声で言った。
「こいつ、ちょっとすごいな」
「何が」
「受け入れるの早すぎる」
「レイさんもそう言ってた」
「氷室さんが?」
「『人間の子どもは順応が早い』って」
カイは「ふーん」と言った。何かを考えているような、考えていないような顔だった。
閉店間際、バックヤードで三人が並んで後片付けをしていた。
テレビがついていて、ニュースが流れている。
「——本日、北海道釧路市の一部地区で重力の異常が観測されました。転がしたボールが坂を登り、水が逆流するなど——」
「……なんか変じゃない?」
ソウがつぶやくと、カイが少し体を硬くした。
「……ニュース見てると、最近変なことが多い気がする」
「そうか?」
「富士山が縮んでるとか、鳥が飛べなくなった地域があるとか、今日は重力の異常とか」
「へえ」
カイの「へえ」が、どことなくそっけなかった。
「気のせいか」
ソウはタオルで手を拭いながら言った。
カイはテレビから視線を逸らして、棚の整理を再開した。
ナナはそもそも何も聞いていなかったようで、「ドリンクバー行きたい」と言った。
「今は関係ないでしょ」
「行きたいものは行きたいです」
片付けが終わって、三人で店を出た。
夜風が少しひんやりしていた。秋の終わりのにおいがする。
「ソウ、あのさ」
カイが歩きながら言った。
「なに」
「重力って、すごいと思わない?」
「突然」
「いや、世の中って結局重力で成り立ってるじゃん。物が落ちるとか、地面に立てるとか。なのに誰も重力に感謝しないよな」
「……感謝する対象が不明だから」
「そういうこと言ってんじゃなくて」
カイはポケットに手を突っ込んだ。
「俺、重力操作できるんだけど、自分の体重だけは操作できないんだよ」
「……そうなの」
「そう。どんなに浮かせようとしてもびくともしない。不思議だよな」
「ダイエット中?」
「なんで知ってんだよ」
「なんとなく」
カイが「なんでだよ」と言いながら少しむくれた。ソウは笑わないようにして前を向いた。
「まあ、なんというか」
ソウは夜空を少し見上げた。街灯が並んでいて、星はほとんど見えない。
「重力に逆らえないものが体重だけってのは、なんか、そういうもんかもな」
「慰めてんの?」
「観察してる」
「どっちにしろ傷つくな」
ナナが二人の間に入ってきた。
「ドリンクバー、コンビニにはないですよね」
「ないよ」
「じゃあファミレス行きましょう。奢ってくれますか御堂さん」
「なんで俺が」
「なんとなく」
「なんとなくで奢らされたくない!」
三人の声が夜道に散らばった。
ソウは少し遅れて笑って、二人の後ろをついていった。
コンビニの前を通る時、ドアの横のテレビ画面が目に入った。
深夜のニュース速報が流れていた。
「——北海道に続き、長野・群馬県境の山岳地帯でも重力異常が確認——」
ソウは三秒だけ立ち止まった。
カイとナナは先を歩いている。
「……気のせいか」
ソウは小さくつぶやいて、二人を追いかけた。
翌日の朝、ソウがシフトに入ると、カウンターにレイがいた。
書類を処理している。完璧な姿勢で。いつも通り。
「お疲れ様です」
「お疲れ様。昨日、カイと接触しましたか」
「した。重力操作、見た」
レイは書類に目を落としたまま、少し間を置いた。
「……その件について、後で話したいことがあります」
「何?」
「少し待ってください」
ソウは一瞬固まって、反射的に壁の方を向こうとした。
「——書類を取りに行く、という意味の少し待ってください、です」
「……ああ」
「紛らわしくてすみません」
レイはファイルを棚から抜き取って戻ってきた。スーツの乱れは一ミリもない。
「カイの能力について。副作用が出始めている可能性があります」
「副作用」
「彼が重力を操作するたびに、世界のどこかで重力定数が微妙にずれます。昨日のニュース、見ましたか」
ソウは昨夜のコンビニ前を思い出した。
「……見た。気のせいだと思ってたけど」
「気のせいではないと私は思っています」
レイは静かな声で言った。
その目が、いつもより少しだけ遠くを見ているような気がした。
「……でも」
ソウは訊いた。
「それって、どういうことになるの」
「まだわかりません」
レイはファイルを開いた。話が終わったような動作だった。
「ただ」
と、付け加えた。
「ニュースを見る時は、少しだけ注意して見てください。繋がっているかもしれませんので」
ソウは返事をしようとして、言葉を探した。
繋がっている、というのが何を指しているのかわからない。
でも、なんとなく。
ずっと「気のせいか」で流してきたものが、少しずつ輪郭を持ち始めているような感覚があった。
「……わかった」
自動ドアが開いて、最初の客が入ってきた。
ソウはカウンターに立って、いつも通りの笑顔を作った。
レイはとなりで書類をめくっている。
何かが、少しだけ動き始めていた。




