第3話「脱ぐのも仕様、流すのも仕様」
バックヤードのテレビが、今日も誰に頼まれたわけでもなく流れている。
昼のニュース。アナウンサーが何やらやたら真剣な顔をしていた。
「——富士山の標高が、先月に続き今月もさらに三メートル減少していることが確認されました。国土地理院の担当者は『測定機器の誤差ではないか』と慎重な姿勢を示しています——」
神崎ソウは昼飯のコンビニおにぎりを口に運びながら、画面を三秒だけ見た。
「……富士山が縮んでる?」
つぶやいて、おにぎりをもう一口食べた。
「……まあ気のせいか」
テレビは次のニュースに移った。ソウも視線を手元のシフト表に戻した。世界は今日も滑らかに、特に何ごとも起きないまま動いている。
そう思っていた。
午後一時を過ぎたころ、店の入口から小さな嵐が飛び込んできた。
「間に合った——!」
日向ナナが、ドアを勢いよく開け放ちながら駆け込んできた。頬が赤く、前髪が乱れている。全力疾走の痕跡がありありと残っていた。
ソウはカウンターから時計を確認した。
一四時〇一分。
「……一分遅刻だよ、ナナさん」
「え?」
ナナは目を丸くした。本気で意外そうな顔だった。これが演技ならたいしたものだが、この子は絶対に演技ができないタイプだとソウは学習済みだ。
「ちゃんと計算したんです。駅から店まで五分で来られるって確認して、五分前に出て——」
「それが六分かかってたんだと思う」
「え、なんで?」
「知らないよ」
ナナはおでこに小さなシワを寄せ、何かを真剣に考えはじめた。
「時間って……ずれることあるんですか?」
「普通はないと思う」
「でも絶対に五分で来られるって分かってたのに——」
「ナナさん」
カウンターの奥から、氷室レイの落ち着いた声が割って入った。
「タイムカードを先に押してください」
「あ、はい!」
ナナは小走りでバックヤードに消えた。ソウはレイの横顔を見た。
氷室レイは今日もスーツ姿が完璧だった。黒いジャケットのボタンがきっちり留められていて、髪もきれいに整えられている。先月入ってきたばかりの新人の子に「レイさんって本社から来た人ですか?」と聞かれていたのを、ソウはこっそり聞いていた。
外見だけで言えば、完全にそっち側の人間だ。
能力を使わない限りは。
「……レイさん」
「何ですか」
「最近、変なことしてないですよね」
何を聞いているんだと自分でも思った。でも聞かずにはいられなかった。
レイは少し間を置いた。
「定義によります」
「……壁とか」
「今日は使っていません」
「よかった」
「必要が生じれば使います」
「よくない」
レイはそれ以上答えなかった。カウンターに視線を戻し、接客の準備に入っている。話は終わった、という空気だけが残った。
ソウは小さくため息をついた。
バイトを始めて二ヶ月が経った。
レイの「仕様」には、もうある程度慣れた——と思っていた。思っていただけで、慣れてはいない。あれを目撃するたびに頭が処理を拒否する。ただ、拒否しきれないまま「まあそういうものか」に着地している。
人間というのは適応力のある生き物だ。ソウは一人でそれを確認した。
午後三時。客足が少し落ち着いたころ、ナナがバックヤードから顔を出した。
「ソウさん、レイさん! 在庫の端末、棚の一番上に上げておいたほうがいいって田所さんが——」
「分かりました」とレイが即答した。「取ってきます」
バックヤードの棚は、上の段にかなりの高さがある。脚立を使えば届くが、面倒だ。ソウがそれを取り出そうとした瞬間——
レイが立ち止まった。
「……少し待ってください」
ソウの背中が粟立った。
「ちょっと待って、レイさん。脚立使えば届——」
どさ。
音がした。柔らかい布が床に落ちる音だった。
ソウは反射的に壁を向いた。視線を天井に向けた。目をつぶった。いや、つぶると他の感覚が鋭くなる気がした。目を開けた。でも壁しか見えないようにした。
「……ちょっと待って、なんで今、なんで——脚立あるから、脚立あるから!」
「脚立は遠回りです」
「遠回りじゃないよ! 安全だよ!」
「安全より合理性を取ります」
ソウは必死に目線を壁の一点に固定した。バックヤードは狭い。距離が全然ない。レイまで二メートルもない。
「せめて声掛けてください! 事前に!」
「言いました。待ってくださいと」
「それが合図だったの?!」
「そうです」
「分からないよ!」
ずぶ、という感触のある音がした——と言うか、音ではなくて、ソウの感覚が「何かが壁の中に入っていった」と認識した。レイの気配が消えた。
一秒。
二秒。
「取れました」
壁の向こうから、完全に平静な声が聞こえた。
「…………」
「神崎さん、振り向いていいですよ」
「……本当に?」
「服は着ました。今着ています」
「今着てたの、今!?」
「スペアを持ち歩いています。いつも」
ソウはそろそろと振り向いた。
氷室レイは、さっきと全く同じようにスーツ姿で立っていた。何も変わっていない。手に在庫の端末の箱を持っている。髪も乱れていない。表情も変わっていない。完璧だった。何もかもが完璧だった。ただ足元にだけ、空のスーツカバーが畳まれて置いてあった。
「……ご覧になりましたか」
「見てません! 壁向いてました!」
「そうですか」とレイは静かに言った。「配慮していただいて助かります」
「いや、僕が助かりたかったんですけど」
レイは端末の箱を棚に置いた。そして振り向いて、ソウを真っ直ぐ見た。
「今後、私が『少し待ってください』と言ったら、速やかに視線を外してください」
「……約束します」
「ありがとうございます」
深々と頭を下げられた。真剣に、礼儀正しく。
どっちが配慮されてるんだろう、とソウはぼんやり思った。
その日の夕方、田所店長がバックヤードでコーヒーを飲みながら言った。
「レイちゃん、また端末取ってきてくれたんだって? 助かるなあ。どうやって取ったの? 脚立使った?」
「壁を使いました」
「壁?」
店長は不思議そうな顔をした。
「裏の壁経由で回ったってこと? それも大変だったね」
「たいしたことありません」
「ありがとうね。うちのバイト、なんか変な子ばかりだけど、みんな頑張り屋で助かるよ」
変な子、という言葉にソウは全力で同意した。口には出さなかったが。
店長は笑いながらコーヒーカップを置いた。
「なんか最近、地震多いなあ。この辺も揺れてるし——あ、そういえばニュースで言ってたよ。富士山が縮んでるって」
「本当ですか」とナナが目を丸くした。「縮むってどういうことですか?」
「分からん。機器の誤差じゃないかって言ってたけど」
「……なんか変じゃないですか?」とソウがつぶやいた。
「まあ、自然ってよく分からんからな」と店長は笑った。
レイはその会話の間、ずっと静かにコーヒーカップを見ていた。
何かを考えている顔だった。少なくとも、ソウにはそう見えた。
でも何を考えているかまでは分からなかった。
閉店後の片付けをしながら、ナナがソウに話しかけてきた。
「ソウさん、レイさんのこと——怖くないですか?」
唐突だった。ソウは手を止めた。
「怖い、か……」
少し考えた。正直に答えるなら、怖いとは違う。驚くし、毎回頭が真っ白になるし、何なら心拍数が跳ね上がるし、視線の置き場所に困って目が泳ぐし、その後しばらく動揺が収まらないのだが——怖いかと言われると違う。
「怖くはないな」
「そうですよね」とナナは言った。「私も最初は驚いたんですけど——レイさんって、ちゃんと人のこと考えてますよね」
「……そうなのかな」
「さっきも、神崎さんに声かけてから動いてたじゃないですか。『少し待ってください』って」
「あれが声かけだとは思わなかったけど」
「でも声かけたんですよ」とナナはにこっとした。「レイさんなりに、気にしてるんだと思います」
ソウは少し黙った。
確かに、そう言えばそうかもしれなかった。「少し待ってください」は、ソウのための一言だった。必要なかったはずだ。壁をすり抜けるのに、周囲に声をかける義務はどこにもない。でもレイは毎回言う。
……そういうことか。
「ナナさん、なんか鋭いね」
「えっ、そうですか?」とナナは嬉しそうに笑った。「でも私、時間の計算は全然できないんですよね。今日も一分ずれちゃいましたし」
「何でずれるんだろうね」
「ほんとに謎です。絶対合ってるはずなのに」
ナナは首を傾けた。本当に謎そうな顔だった。
ソウも謎だと思ったが、それ以上深く考えると頭が疲れそうだったので、「まあ気のせいじゃない?」と言っておいた。
「そうですね! 気のせいかもしれないです!」
ナナは即座に同意した。この子の切り替えの早さは一種の才能だとソウは思った。
片付けが終わり、ソウが店を出ると、夜の空気が冷たかった。
駅までの道を歩いていると、後ろから足音が聞こえた。
「神崎さん」
レイだった。鞄を肩にかけて、ソウの少し後ろを歩いている。スーツのジャケットの上にコートを羽織っていた。
「駅まで一緒でいいですか」
「いいですよ」
二人で並んで歩いた。夜の商店街は人が少なかった。
しばらく何も言わなかった。レイは基本的に必要なこと以外を話さない。ソウもそれを知っているので、沈黙が気まずいとは思わなかった。
でも今日は、なんとなく聞いてみたいことがあった。
「レイさんって——なんでここでバイトしてるんですか?」
以前も聞いたことがあった気がするが、ちゃんとした答えを聞いた記憶がない。
レイは少し間を置いた。
「契約システムを研究しています」
「携帯の?」
「この社会の」
「……どういう意味ですか」
「人間は契約によって関係を定義します。使用するプラン、通信量の上限、解約条件。全て言語化されたルールの中で動いている」
「まあ、確かに」
「興味深いと思いませんか」
ソウは考えた。
「なんか……レイさんから見たら、僕らが珍しい感じがするんですかね」
「珍しい、というより」とレイは少し止まってから言った。「よく分からない、という感じです」
「人間が?」
「ルールを作って、ルールに縛られて、ルールを破って、ルールを作り直す。その繰り返しが——」
レイはそこで言葉を切った。
「何ですか?」
「…………なんでもありません」
そう言って、レイは少し歩くペースを上げた。話は終わりだ、というサインだった。
ソウはそれ以上聞かなかった。
駅に着いたところで、レイとソウは改札の前で別れた。
「お疲れ様でした」とレイが言った。
「お疲れ様です」とソウが返した。
レイは改札を抜けて、ホームの方へ歩いていった。
ソウはしばらくその背中を見ていた。コートの裾が少し揺れていた。
何者なんだろう、とまた思った。
でも「まあいいか」に着地した。いつも通り。
家に帰ってテレビをつけると、また夜のニュースが流れていた。
「——ペルー沖の無人島が先週に引き続き、さらに面積を縮小していることが確認されました。専門家は海面上昇の影響ではないかと——」
ソウはリモコンでチャンネルを変えようとして、一瞬止まった。
先週も、ペルー沖で何かあったニュースを見た気がした。富士山が縮んでいるニュースも。北海道の時計のニュースも。
……なんか最近、ニュースが変じゃない?
でも考えてみると、世界のどこかで何かが起きているニュースなんて毎日流れている。特別なことでも何でもない。
「……気のせいか」
チャンネルを変えた。バラエティ番組が始まった。
ソウはソファに沈み込んで、今日のことを頭の隅でぼんやり振り返った。
富士山が縮んでいる。
ペルーの島が縮んでいる。
レイが壁をすり抜けた。スペアの服を持ち歩いている。「少し待ってください」が合図。
ナナは今日も一分遅刻した。絶対合ってるはずの計算がずれた。
……なんか変じゃない?
「……気のせいか」
テレビの笑い声が部屋に響いた。
明日も普通にバイトがある。普通に出勤して、普通に接客して、普通じゃない人たちと普通に働く。
それが神崎ソウの日常だった。
翌朝。
出勤したソウが着替えを終えてバックヤードから出ると、カウンターの前に知らない人影があった。
小柄な老人だった。七十代か、あるいはもっと上か。白髪で、作業着のようなゆったりした服を着ている。
店はまだ開店前だ。なのになぜかカウンターの前に立っていて、ガラスケースの中の端末をじっと眺めていた。
ソウは首を傾けた。
老人はふと顔を上げて、ソウと目が合った。
にこりと笑った。
「スマホのことを教えてもらいたいんですが」
と、穏やかな声で言った。
ソウは「あ、開店は十時からなんですが——」と言いかけて、何となく言葉を飲み込んだ。
老人の目が、なんか変だった。
変、というか——なんだろう。何かを見ているような。何かを待っているような。
……なんか変じゃない?
「……今、準備しますね」
気のせいかと思いながら、ソウは笑顔を作った。




