表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アップデートしてください。〜うちのバイト先、なんか変な人しかいないんですけど〜  作者: ハル
このバイト先、なんか変じゃない?

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/73

第2話「全力疾走、一分遅刻」

---


テレビの音が、バックヤードに薄く流れていた。


「——北海道の十勝地方で、昨夜から時計のずれが報告されています。影響を受けた住民は口々に『気づいたら五分ほど時間が飛んでいた』と語っており、専門家も原因の特定に——」


ソウはロッカーの前でエプロンを結びながら、その声を半分だけ聞いた。


…なんか変じゃない?


頭の隅でそう思ったが、次の瞬間にはロッカーの扉を閉めていた。深く考えるには眠気が邪魔をしていたし、なにより今日は開店一番からキャンペーンの説明会があって、それどころじゃなかった。


「神崎くん、おはようございます」


振り向くと、氷室レイが立っていた。


紺色のスーツ。ブラウスのボタンは一番上まで留まっている。長い黒髪は後ろで緩くまとめられていて、目が合うと彼女はわずかに顎を引いた。完璧な出勤スタイルだった。どこをどう見ても、ごく普通のできる先輩社員——いや、アルバイトだ——にしか見えない。


昨日、この人が壁をすり抜けるのを見た。


しかも服を全部脱いで。


ソウはその記憶を頭の奥に押し込んだ。


「……おはようございます、氷室さん」


「昨日は驚かせてしまいましたね」


レイが言った。声のトーンはいつも通りだった。謝罪しているのか報告しているのか判断がつかない、あの独特の平坦さ。


「いや、まあ……」


「私の仕様は変わりません」


「そうですよね」


「ですが、あなたが見ていることに気づくのが遅れました。以後は気をつけます」


「……あの、どっちを気をつけてるんですか」


「脱衣前に周囲を確認する、ということです」


「壁をすり抜けるのはやめない前提なんですね」


「そこは変えようがないので」


そう言って、レイはコーヒーメーカーのスイッチを押した。会話が終わった、という宣言みたいな動作だった。ソウは口をつぐんだ。なんとなく、これ以上突っ込んでも仕様が変わらないのはわかっていた。


カップに注がれたコーヒーを一口飲んで、レイが小さく言った。


「……おいしい」


少し意外だった。そういう顔をするんだ、とソウは思った。



 



時刻は九時五十八分。


開店まであと二分。


バックヤードのドアが激しく開いた。


「間に合ったーーー!」


日向ナナが飛び込んできた。


両頬が真っ赤で、息が上がっている。片手にコンビニの袋、肩からリュックがずれ落ちそうになっている。上着はどこかで脱いできたのか持っていなかった。


「ナナちゃん、一分遅刻です」


レイが言った。コーヒーカップを持ったまま、視線だけを動かして。


「え?」


ナナが壁の時計を見た。針は九時五十九分を指している。


「やったっ、間に合いましたよ!」


「十時が定刻です」


「——あ」


一秒の沈黙。


「……間に合ったと思ったんですけど」


「毎回そう思っているはずです」


ナナはぺたんと床に座り込んだ。カバンを抱えたまま、肩を落として、それでも不思議と暗い顔はしていなかった。どちらかというとキツネに化かされた顔をしていた。


ソウは少し笑いそうになるのをこらえた。


「ナナさん、どこから来てるんですか」


「隣の駅です」


「自転車は」


「パンクしてて」


「バスは」


「タイミング悪くて」


「走った」


「全力で!」


全力で走って一分遅刻。ソウは頭の中で計算してみたが、やはりよくわからなかった。もう少し早く出れば、という話なのだが、それを言うと毎回「計算したんですけど」という答えが返ってきそうな気がした。


「じゃあ次は二分早く出ればいいんじゃないですかね」


「そうなんですよね……でも毎回計算したら間に合うはずなんですよね……」


「どういう計算してるんですか」


ナナが考え込んだ。本気で考えている顔だった。


「えっと……歩いて十二分、走ったら七分、だから余裕を見て九分前に家を出れば——」


「その計算、合ってますか?」


「…………あれ?」


ナナが首をかしげた。


ソウも首をかしげた。


レイがコーヒーを飲み干した。


「時間の感覚が少しずれているのかもしれませんね」


そうぽつりと言って、レイは空のカップをシンクに置いた。


…気のせいか。


「時間の感覚って、ずれます?」


「さあ」


「答える気ないですよね」


「少し待ってください」


レイが言った。ソウの首の後ろがすうっと冷えた。


「——え、待ってください今の、少し待ってくださいって、まさか」


「ロッカーに書類を置いてきました。取りに行きます」


「あ、そっちですか」


「何を想像したんですか」


「何でもないです」


ソウは頭を冷やした。そうだ、バックヤードのロッカーは壁じゃない。壁じゃなければすり抜ける必要がない。すり抜ける必要がなければ脱ぐ必要がない。至極当然だ。


レイがロッカーから書類を取り出して戻ってきた。完全にスーツのまま。当たり前だ。


ソウは静かに息を吐いた。



 



開店から三時間が過ぎた。


平日の昼前は比較的落ち着いている。ソウはカウンターの端で在庫確認をしながら、フロアをぼんやり眺めていた。


レイが接客している。


中年の男性客で、機種変更の相談らしかった。ソウの位置からは細かいやり取りは聞こえないが、レイの立ち姿だけは見えた。背筋が真っ直ぐで、説明するときに資料を指さす角度まで一定な気がする。客の男性は最初、少し不満そうな顔をしていたが、今はほとんど彼女の言葉に頷くだけになっている。


あの人、仕事はすごくできるんだよな。


とソウは毎回思う。毎回。


問題は仕事以外のところなのだった。


「ソウくんソウくん」


耳元でささやき声がした。


振り向くと、ナナが顔を寄せていた。目がきらきらしている。


「見て見て、今日のお昼、コンビニのミートソースパスタにしようか、それともおにぎり三個にしようか悩んでるんですけど、どっちがいいと思います?」


「……今、在庫チェック中なんですが」


「ミートソースのほうが満足感あるじゃないですか。でもおにぎりのほうが食べながら動けるし。重要な問題ですよね」


「重要かな……」


「重要ですよ!」


ナナが力説した。ソウはペンを置いた。


「じゃあパスタ」


「なんで?」


「なんとなく」


「それ根拠ないじゃないですか」


「さっきの問いかけに根拠を求めてる場合じゃないと思う」


ナナが唇を尖らせた。が、一秒後には「パスタにします!」と満面の笑みになっていた。


……切り替え早いな。


「あの、ひとつ聞いてもいいですか」


ソウはナナの勢いが落ち着いたところで言った。


「なんですかー」


「ナナさん、レイさんのこと、最初から変だと思わなかったんですか」


ナナが首をかしげた。


「変って?」


「壁すり抜けるとか、そういうところ」


「ああ、あれ」


ナナはあっさり言った。


「なんか、そういうもんなんだと思ってました」


「そういうもん」


「なんか、レイさんが変というか……レイさんはレイさんじゃないですか。そういう人だなって」


「すごいフラットな受け入れ方ですね」


「ソウくんだって別に騒いでないじゃないですか」


それは、と言いかけてソウは止まった。確かにそうだった。昨日の夜、帰り道で一回「あれ何だったんだ」と思ったが、それ以上はあまり考えなかった。考えてもどうにもならない気がして、なんとなく「変な先輩だな」で片付けていた。


「……まあ、そうですね」


「それでいいじゃないですか」


ナナが笑った。


その笑顔が眩しくて、ソウは少し目を逸らした。



 



昼過ぎ。


店内が一時間ほど静かになった。


ソウはレイと二人で、夕方からのキャンペーン準備をしていた。POPを貼り替えて、資料を並べ直して、サンプル端末の充電を確認する。黙々とした作業だったが、それほど苦ではなかった。レイが無言でいるのは当たり前で、ソウもいちいち喋らなくていい相手は楽だった。


「神崎くん」


「はい」


「このPOP、三センチ右です」


「あ、すいません」


「そこは二センチ下」


「……測ってます?」


「目視です」


「目測すごいですね」


「慣れです」


慣れって何に、とソウは思ったが聞かなかった。そういう人なのだということは学習していた。


「レイさん、このバイト、いつからしてるんですか」


少し間があった。


「少し前から、です」


「少し前って」


「覚えていないほど前、ではないです」


「……まあ、それはそうか」


ごまかされてるんだろうな、と思った。でも別にいい。このカウンターでレイが普通に仕事をしている。それは変わらない事実だった。


「神崎くんはいつからですか」


「え、俺ですか。三ヶ月前くらいです。大学の学費の足しにって」


「そうですか」


「バイトってそういう理由じゃないんですか、普通」


「普通かどうか、私にはあまりよくわかりません」


レイが言った。


また意味深な言い方だ、とソウは思ったが、それ以上は追わなかった。


窓の外で、ビルのディスプレイが夕方のニュースを映し始めていた。音は聞こえないが、テロップだけが読み取れる。


——『北海道の時計ずれ問題、続報——原因解明にいたらず』


……やっぱり変じゃない?


でもまあ、気のせいか。



 



夕方六時。


閉店一時間前。


バックヤードで着替えていたソウは、突然の物音に気づいた。


廊下の方から、どさ、という音。


続いて、何かが折り畳まれるような音。


ソウの体が反射的に固まった。


(……また?)


「少し待ってください」


壁の向こうから、レイの声がした。


「待ちますけど——ちょっ、ちょっと待って、ここ廊下!?」


「バックヤードのドアが詰まっていました。こちらが近いので」


「それで抜ける判断になるんですか!?」


返事がなかった。


代わりに、廊下の壁が——わずかに揺れた気がした。蜃気楼みたいに、境界線がぼやけるような感覚。そして次の瞬間、壁の表面からレイの指先が現れて、腕が現れて、肩が——。


ソウは反射的にロッカーの扉を開けて、顔を突っ込んだ。


「ありがとうございます、通り抜けました」


「……確認したいんですけど」


「はい」


「俺、正しい判断をしてますか、今」


「目を逸らしていただいた、という意味では正しい判断です」


「よかった」


「ただ、ロッカーの中身を見つめる必要はなかったかと」


「俺も思います」


後ろで衣擦れの音がした。ソウはロッカーを閉め、深呼吸して、振り向いた。


レイは既に完璧な状態で立っていた。スーツのシワ一つない。髪も乱れていない。どこからどう見ても、今廊下の壁をすり抜けてきた人間に見えなかった。


「……スペアの服、何セット持ってるんですか」


「今日は四セットです。昨日使ったので補充する必要があります」


「補充って言葉を使う発想がまずないんですが」


「ないと困りますので」


困るって何に、とソウは思った。困るのはソウの方だった。たぶん。


ナナが入ってきた。パスタの袋を持っていた。


「あ、ふたりともいた。お疲れでした!あ、ソウくん、ミートソースめちゃくちゃおいしかったですよ。正解でした」


「よかった」


「次もパスタにしよっかな」


「いいんじゃないですか」


「でも迷います!」


「迷うなら聞かなくていい」


ナナが笑った。レイがかすかに口角を上げた。


ソウはそれを見て、少しだけ思った。


変なバイト先だ。


でもまあ、悪くないかもしれない。



 



その夜。


ソウがアパートに帰ってテレビをつけると、ニュースが流れていた。


「——南米ペルー沖の無人島、マルデラ島について、現地の海洋調査機関が声明を発表しました。先月末まで確認されていた同島が、今週の観測で完全に消滅していることが確認されており——」


島が消えた。


ソウはリモコンを持ったまま、画面を見た。


「……なんか変じゃない?」


でもまあ、気のせいか。


チャンネルを変えた。



 



翌朝。


「間に合ったーーー!」


「一分遅刻です」


「——あ」


今日もバイトが始まった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ