第2話「全力疾走、一分遅刻」
---
テレビの音が、バックヤードに薄く流れていた。
「——北海道の十勝地方で、昨夜から時計のずれが報告されています。影響を受けた住民は口々に『気づいたら五分ほど時間が飛んでいた』と語っており、専門家も原因の特定に——」
ソウはロッカーの前でエプロンを結びながら、その声を半分だけ聞いた。
…なんか変じゃない?
頭の隅でそう思ったが、次の瞬間にはロッカーの扉を閉めていた。深く考えるには眠気が邪魔をしていたし、なにより今日は開店一番からキャンペーンの説明会があって、それどころじゃなかった。
「神崎くん、おはようございます」
振り向くと、氷室レイが立っていた。
紺色のスーツ。ブラウスのボタンは一番上まで留まっている。長い黒髪は後ろで緩くまとめられていて、目が合うと彼女はわずかに顎を引いた。完璧な出勤スタイルだった。どこをどう見ても、ごく普通のできる先輩社員——いや、アルバイトだ——にしか見えない。
昨日、この人が壁をすり抜けるのを見た。
しかも服を全部脱いで。
ソウはその記憶を頭の奥に押し込んだ。
「……おはようございます、氷室さん」
「昨日は驚かせてしまいましたね」
レイが言った。声のトーンはいつも通りだった。謝罪しているのか報告しているのか判断がつかない、あの独特の平坦さ。
「いや、まあ……」
「私の仕様は変わりません」
「そうですよね」
「ですが、あなたが見ていることに気づくのが遅れました。以後は気をつけます」
「……あの、どっちを気をつけてるんですか」
「脱衣前に周囲を確認する、ということです」
「壁をすり抜けるのはやめない前提なんですね」
「そこは変えようがないので」
そう言って、レイはコーヒーメーカーのスイッチを押した。会話が終わった、という宣言みたいな動作だった。ソウは口をつぐんだ。なんとなく、これ以上突っ込んでも仕様が変わらないのはわかっていた。
カップに注がれたコーヒーを一口飲んで、レイが小さく言った。
「……おいしい」
少し意外だった。そういう顔をするんだ、とソウは思った。
時刻は九時五十八分。
開店まであと二分。
バックヤードのドアが激しく開いた。
「間に合ったーーー!」
日向ナナが飛び込んできた。
両頬が真っ赤で、息が上がっている。片手にコンビニの袋、肩からリュックがずれ落ちそうになっている。上着はどこかで脱いできたのか持っていなかった。
「ナナちゃん、一分遅刻です」
レイが言った。コーヒーカップを持ったまま、視線だけを動かして。
「え?」
ナナが壁の時計を見た。針は九時五十九分を指している。
「やったっ、間に合いましたよ!」
「十時が定刻です」
「——あ」
一秒の沈黙。
「……間に合ったと思ったんですけど」
「毎回そう思っているはずです」
ナナはぺたんと床に座り込んだ。カバンを抱えたまま、肩を落として、それでも不思議と暗い顔はしていなかった。どちらかというとキツネに化かされた顔をしていた。
ソウは少し笑いそうになるのをこらえた。
「ナナさん、どこから来てるんですか」
「隣の駅です」
「自転車は」
「パンクしてて」
「バスは」
「タイミング悪くて」
「走った」
「全力で!」
全力で走って一分遅刻。ソウは頭の中で計算してみたが、やはりよくわからなかった。もう少し早く出れば、という話なのだが、それを言うと毎回「計算したんですけど」という答えが返ってきそうな気がした。
「じゃあ次は二分早く出ればいいんじゃないですかね」
「そうなんですよね……でも毎回計算したら間に合うはずなんですよね……」
「どういう計算してるんですか」
ナナが考え込んだ。本気で考えている顔だった。
「えっと……歩いて十二分、走ったら七分、だから余裕を見て九分前に家を出れば——」
「その計算、合ってますか?」
「…………あれ?」
ナナが首をかしげた。
ソウも首をかしげた。
レイがコーヒーを飲み干した。
「時間の感覚が少しずれているのかもしれませんね」
そうぽつりと言って、レイは空のカップをシンクに置いた。
…気のせいか。
「時間の感覚って、ずれます?」
「さあ」
「答える気ないですよね」
「少し待ってください」
レイが言った。ソウの首の後ろがすうっと冷えた。
「——え、待ってください今の、少し待ってくださいって、まさか」
「ロッカーに書類を置いてきました。取りに行きます」
「あ、そっちですか」
「何を想像したんですか」
「何でもないです」
ソウは頭を冷やした。そうだ、バックヤードのロッカーは壁じゃない。壁じゃなければすり抜ける必要がない。すり抜ける必要がなければ脱ぐ必要がない。至極当然だ。
レイがロッカーから書類を取り出して戻ってきた。完全にスーツのまま。当たり前だ。
ソウは静かに息を吐いた。
開店から三時間が過ぎた。
平日の昼前は比較的落ち着いている。ソウはカウンターの端で在庫確認をしながら、フロアをぼんやり眺めていた。
レイが接客している。
中年の男性客で、機種変更の相談らしかった。ソウの位置からは細かいやり取りは聞こえないが、レイの立ち姿だけは見えた。背筋が真っ直ぐで、説明するときに資料を指さす角度まで一定な気がする。客の男性は最初、少し不満そうな顔をしていたが、今はほとんど彼女の言葉に頷くだけになっている。
あの人、仕事はすごくできるんだよな。
とソウは毎回思う。毎回。
問題は仕事以外のところなのだった。
「ソウくんソウくん」
耳元でささやき声がした。
振り向くと、ナナが顔を寄せていた。目がきらきらしている。
「見て見て、今日のお昼、コンビニのミートソースパスタにしようか、それともおにぎり三個にしようか悩んでるんですけど、どっちがいいと思います?」
「……今、在庫チェック中なんですが」
「ミートソースのほうが満足感あるじゃないですか。でもおにぎりのほうが食べながら動けるし。重要な問題ですよね」
「重要かな……」
「重要ですよ!」
ナナが力説した。ソウはペンを置いた。
「じゃあパスタ」
「なんで?」
「なんとなく」
「それ根拠ないじゃないですか」
「さっきの問いかけに根拠を求めてる場合じゃないと思う」
ナナが唇を尖らせた。が、一秒後には「パスタにします!」と満面の笑みになっていた。
……切り替え早いな。
「あの、ひとつ聞いてもいいですか」
ソウはナナの勢いが落ち着いたところで言った。
「なんですかー」
「ナナさん、レイさんのこと、最初から変だと思わなかったんですか」
ナナが首をかしげた。
「変って?」
「壁すり抜けるとか、そういうところ」
「ああ、あれ」
ナナはあっさり言った。
「なんか、そういうもんなんだと思ってました」
「そういうもん」
「なんか、レイさんが変というか……レイさんはレイさんじゃないですか。そういう人だなって」
「すごいフラットな受け入れ方ですね」
「ソウくんだって別に騒いでないじゃないですか」
それは、と言いかけてソウは止まった。確かにそうだった。昨日の夜、帰り道で一回「あれ何だったんだ」と思ったが、それ以上はあまり考えなかった。考えてもどうにもならない気がして、なんとなく「変な先輩だな」で片付けていた。
「……まあ、そうですね」
「それでいいじゃないですか」
ナナが笑った。
その笑顔が眩しくて、ソウは少し目を逸らした。
昼過ぎ。
店内が一時間ほど静かになった。
ソウはレイと二人で、夕方からのキャンペーン準備をしていた。POPを貼り替えて、資料を並べ直して、サンプル端末の充電を確認する。黙々とした作業だったが、それほど苦ではなかった。レイが無言でいるのは当たり前で、ソウもいちいち喋らなくていい相手は楽だった。
「神崎くん」
「はい」
「このPOP、三センチ右です」
「あ、すいません」
「そこは二センチ下」
「……測ってます?」
「目視です」
「目測すごいですね」
「慣れです」
慣れって何に、とソウは思ったが聞かなかった。そういう人なのだということは学習していた。
「レイさん、このバイト、いつからしてるんですか」
少し間があった。
「少し前から、です」
「少し前って」
「覚えていないほど前、ではないです」
「……まあ、それはそうか」
ごまかされてるんだろうな、と思った。でも別にいい。このカウンターでレイが普通に仕事をしている。それは変わらない事実だった。
「神崎くんはいつからですか」
「え、俺ですか。三ヶ月前くらいです。大学の学費の足しにって」
「そうですか」
「バイトってそういう理由じゃないんですか、普通」
「普通かどうか、私にはあまりよくわかりません」
レイが言った。
また意味深な言い方だ、とソウは思ったが、それ以上は追わなかった。
窓の外で、ビルのディスプレイが夕方のニュースを映し始めていた。音は聞こえないが、テロップだけが読み取れる。
——『北海道の時計ずれ問題、続報——原因解明にいたらず』
……やっぱり変じゃない?
でもまあ、気のせいか。
夕方六時。
閉店一時間前。
バックヤードで着替えていたソウは、突然の物音に気づいた。
廊下の方から、どさ、という音。
続いて、何かが折り畳まれるような音。
ソウの体が反射的に固まった。
(……また?)
「少し待ってください」
壁の向こうから、レイの声がした。
「待ちますけど——ちょっ、ちょっと待って、ここ廊下!?」
「バックヤードのドアが詰まっていました。こちらが近いので」
「それで抜ける判断になるんですか!?」
返事がなかった。
代わりに、廊下の壁が——わずかに揺れた気がした。蜃気楼みたいに、境界線がぼやけるような感覚。そして次の瞬間、壁の表面からレイの指先が現れて、腕が現れて、肩が——。
ソウは反射的にロッカーの扉を開けて、顔を突っ込んだ。
「ありがとうございます、通り抜けました」
「……確認したいんですけど」
「はい」
「俺、正しい判断をしてますか、今」
「目を逸らしていただいた、という意味では正しい判断です」
「よかった」
「ただ、ロッカーの中身を見つめる必要はなかったかと」
「俺も思います」
後ろで衣擦れの音がした。ソウはロッカーを閉め、深呼吸して、振り向いた。
レイは既に完璧な状態で立っていた。スーツのシワ一つない。髪も乱れていない。どこからどう見ても、今廊下の壁をすり抜けてきた人間に見えなかった。
「……スペアの服、何セット持ってるんですか」
「今日は四セットです。昨日使ったので補充する必要があります」
「補充って言葉を使う発想がまずないんですが」
「ないと困りますので」
困るって何に、とソウは思った。困るのはソウの方だった。たぶん。
ナナが入ってきた。パスタの袋を持っていた。
「あ、ふたりともいた。お疲れでした!あ、ソウくん、ミートソースめちゃくちゃおいしかったですよ。正解でした」
「よかった」
「次もパスタにしよっかな」
「いいんじゃないですか」
「でも迷います!」
「迷うなら聞かなくていい」
ナナが笑った。レイがかすかに口角を上げた。
ソウはそれを見て、少しだけ思った。
変なバイト先だ。
でもまあ、悪くないかもしれない。
その夜。
ソウがアパートに帰ってテレビをつけると、ニュースが流れていた。
「——南米ペルー沖の無人島、マルデラ島について、現地の海洋調査機関が声明を発表しました。先月末まで確認されていた同島が、今週の観測で完全に消滅していることが確認されており——」
島が消えた。
ソウはリモコンを持ったまま、画面を見た。
「……なんか変じゃない?」
でもまあ、気のせいか。
チャンネルを変えた。
翌朝。
「間に合ったーーー!」
「一分遅刻です」
「——あ」
今日もバイトが始まった。




