第1話「このバイト先、壁が薄すぎません?」
携帯電話販売店というのは、不思議な場所だとソウは思っていた。
狭い店内に、プランが何十種類も並んでいる。5Gだのデータ無制限だの、聞いてもわからない言葉が飛び交って、客の九割は「よくわかんないけどこれでいいか」で帰っていく。
そしてバイトの自分も、内心「よくわかんないけどこれでいいか」と思いながら説明している。
互いに、わかったふりをして、生きている。
悪くない場所だと思う。
「神崎くん、棚の端末ケース、補充お願いしてもいいですか」
声をかけてきたのは氷室レイ、バイトの先輩だ。
長身で、黒髪をきれいにまとめていて、制服のスーツが恐ろしく様になっている。ソウが入った初日、「バイトにこんな人いるの?」と三回くらい心の中で言った。
いまはカウンターで書類を整理しながら、こちらを見もせずに言っている。
「はい、やります」
ソウは返事をして、バックヤードに向かった。
端末ケースの在庫を探していると、ポケットの中でスマホが振動した。ニュースアプリの通知だ。
画面をちらと見る。
『四国沖に謎の島が出現――海上保安庁が調査中』
…なんか変じゃない?
そう思ったが、在庫を抱えていたので、まあいいか、と思って画面を閉じた。
神崎ソウがこの店でバイトを始めたのは、三ヶ月前のことだ。
理由は単純で、家から自転車で十分、時給が少し高い、それだけだった。
面接のとき、店長の田所マサルに「うちは変わったバイトが多いけど、大丈夫?」と聞かれた。
そのとき田所の目が少し遠くなったのが気になったが、まあ、どこにでも変な人くらいいる、と思った。
思っていた。
「レイさん、これを返品したいんですが」
昼過ぎ、店内が少し落ち着いてきたころ、客の男性がカウンターに来た。三十代くらい、スーツ姿、目が少し険しい。
氷室レイが対応した。
「はい、どのような理由でしょうか」
「電波が繋がらないんですよ。うちのマンション、全然入らなくて」
「エリアの確認はされましたか?」
「したよ。サイトには対応ってなってる。なのに繋がらない。これ不良品じゃないですか」
ソウは少し離れた棚の整理をしながら、横目で様子を見ていた。
こういうとき、氷室レイはすごい。顔を変えない。声のトーンを変えない。ただ、真っすぐ相手を見て、一言一言を丁寧に出す。
「ご不便をおかけしております。端末の設定を一度確認させていただいてもよろしいでしょうか。電波の受信状況によっては、設定の調整で改善できるケースがございます」
「……まあ、それでよくなるなら」
男性の肩から少し力が抜けた。
ソウは密かに「すごい」と思った。
レイが端末を受け取って、カウンターの奥のほうで設定を確認し始める。ソウは棚に向かいながら、ぼんやりと「あの人、本当に何者なんだろう」と考えた。
聞いても「バイトです」としか言わない。
大学名も、年齢も、出身も、ほぼ教えてくれない。「人間社会の契約システムを研究しています」と一度だけ言っていたが、それが何なのかはよくわからなかった。
…気のせいか。
午後二時。
入口のドアが勢いよく開いた。
「間に合ったー!!」
叫んだのは、日向ナナだった。
十八歳、ショートカット、常に全力疾走してきたような顔をしている。今日もそうだ。息が若干乱れていて、バッグが片方の肩からずり落ちかけている。
ソウは時計を見た。
二時〇一分。
「…一分遅刻だよ、ナナちゃん」
「え? え? 噓!?」
ナナはスマホで時刻を確認して、本当に困ったような顔をした。
「ちゃんと間に合うように走ってきたのに……なんで?」
「なんでって言われても」
「おかしくない? ちゃんと計算したのに」
「計算が合ってないんじゃない?」
「計算は合ってる! 合ってたはずなのに!」
ナナは心底納得いかない顔で、制服に着替えるためにバックヤードへ走っていった。
毎回、こうだ。
日向ナナは、ソウがバイトを始めた一週間後に入ってきた後輩だ。いつも全力で走ってくる。いつもぎりぎりで遅刻する。なのに本人は毎回「計算通りに来たのに」と言う。
計算が合っていないのか、時計が狂っているのか、あるいは彼女の体感時間が少しおかしいのか。
…なんか変じゃない?
まあ、そういう人もいる。
在庫確認のためバックヤードに向かったソウが扉を開けた瞬間、視界に飛び込んできたのは――スーツのジャケットを丁寧に折り畳んでいる氷室レイの背中だった。
白い。
語彙が消えた。
ブラウスもスカートも、床に揃えて置かれている。長い黒髪だけが背中を流れ、それ以外には何も、本当に何もない。
「あ」
ソウの口から出たのはその一音だけだった。
レイはゆっくりと振り返った。表情は完璧に凪いでいる。
「神崎さん。タイミングが悪かったですね」
「い、いや、俺が……ノックを……すべきで……」
「いえ、問題ありません」
問題しかない。全方位に問題がある。
「ちょっと待ってください氷室さんなんで」
「在庫リストを取りに行くので」
「は?」
「この壁の向こうが第二倉庫です」レイは親指で背後の壁を示した。「直接抜ければ効率的でしょう」
「それは……そうかもしれないですけど……」
ソウは視線をどこに置けばいいのか分からず、天井・床・扉の蝶番・レイの顔・天井、という謎の循環を繰り返していた。顔は正面を向いているが脳みそのほうがすでに動いていない。
「神崎さん」
「はい」
「ご覧になりましたか」
「……は?」
「私の能力です」レイは至って真剣な顔で言った。「完全脱衣状態でないと発動しません。これが私の仕様なので」
「そっちじゃなくて」
「そっちとは」
「服!服がない!」
「脱いでいると申し上げました」
会話が噛み合っていない。ソウには分かっていた。でも正しい言葉が出てこない。「それって普通じゃない」「問題しかある」「目のやり場が」「いや待て落ち着け」が脳内で玉突き事故を起こしていた。
レイはそのまま踵を返し、壁に向かって一歩踏み出した。
ずぶっ、と。
本当に、ずぶっ、という感じで、壁に入っていった。
腰まで埋まったところで、レイは振り返った。上半身だけが壁から生えた状態で、やはり表情一つ変えない。
「問題がありましたか」
「あります」ソウは即答した。「複数あります」
「そうですか」
壁の中に消えた。
しん、と静まり返ったバックヤードに、ソウは一人残された。床にはブラウスとスカートとジャケットが行儀よく畳まれている。これは現実だ。夢じゃない。たぶん。
扉が再び開いて、ナナが顔を突っ込んだ。
「あれ、ソウくん? 氷室さんは?」
「……壁の中」
「あー」ナナは納得したように頷いた。「また在庫リストね。どうせ五分で戻るよ」
「なんで『また』なの。なんで慣れてるの」
「だって週二くらいでやってるし」ナナは肩をすくめた。「最初はびっくりしたけど、慣れたら慣れるよ」
「俺には無理だと思う」
「ソウくんも三回目には慣れるって」
ナナは事もなげにそう言って、扉を閉めた。
ソウはもう一度天井を見た。
気のせいにするには、ちょっと、情報量が多すぎた。
ナナが隣に来た。
「……ソウくん、顔が変だよ?」
「そうだと思う」
「大丈夫?」
「わからない」
ナナは少し考えてから、「ま、レイさんいつもそんな感じだよ」と言った。
「いつも?」
「うん。在庫確認とか、荷物取り忘れたときとか。あと一回、更衣室の鍵忘れたときも」
「見たことあるの?」
「うん。最初はびっくりしたけど、レイさんが『仕様です』って言うから、まあそうなのかなって」
まあそうなのかな、で納得したのか。
ソウはナナの顔を見た。ナナは特に困った顔もしていない。普通の顔だ。
…なんか変じゃない?
でも、まあ。
ナナが言うなら、そうなのかもしれない。
閉店間際、ソウは店の外でシャッターの準備をしながら、スマホを開いた。
さっきのニュース通知が、まだ残っていた。
『四国沖に謎の島が出現――海上保安庁が調査中』
その下に、もう一本。
『ペルー沖の島、消滅。原因不明。現地政府は関連を否定』
島が出て、島が消えた。
同じ日に。
…気のせいか。
ソウはアプリを閉じた。
最後の片付けをしながら、ソウはレイに聞いた。
「あの、さっきの件なんですけど」
「はい」
「壁、すり抜けましたよね」
「はい」
「普通、人間は壁をすり抜けられないと思うんですが」
「そうですね、一般的には」
「レイさんは?」
「できます」
レイは棚の商品カバーをかけながら、至って普通のトーンで言った。
「条件があって、完全に脱衣している状態でないと発動しません。不便ですが、これが私の仕様なので」
「仕様って……どこの仕様?」
「私自身の、です」
ソウは少し考えた。
考えたが、答えは出なかった。
「……なるほど」
「ご理解いただけましたか」
「理解はしてないですけど、とりあえず承りました」
レイは少しだけ、口の端を動かした。笑ったのかもしれない。ソウには判断できなかった。
「神崎くんは面白いですね」
「そうですか?」
「面白いと思います。驚いて、考えて、納得できないまま承る。ちゃんと筋が通っている」
「褒められてるのかわからないですが、ありがとうございます」
「褒めています」
レイはそれだけ言って、棚の作業を続けた。
バイトが終わり、三人で店を出た。
田所店長が「ごくろーさん、また来週」と手を振って、先に帰っていった。
夜の通りは静かで、遠くにコンビニの光が見えた。
ナナが伸びをしながら言った。
「今日も疲れた〜。でも楽しかった」
「何が楽しかったの?」
「なんとなく。ソウくんと一緒に働くと楽しい」
理由が薄いな、とソウは思ったが、悪い気はしなかった。
レイが少し先を歩きながら、振り返らずに言った。
「神崎くん」
「はい」
「壁のことは、他言しないでください」
「しませんよ、誰に言うんですか」
「それならよかった。スペアの服は常に持っています。次からは声をかけてもらえれば、扉から出ます」
「それ最初からそうしてください」
「そうですね、善処します」
善処、という言葉を、こんな文脈で使う人を初めて見た。
ナナがくすくす笑っている。
ソウはため息をついて、自転車のカギを取り出した。
夜風が少し冷たかった。上を見ると、星がいくつか見えた。
なんとなく見上げながら、ソウは思った。
なんか変な人たちだ。
でも、まあ。
…気のせいか。
翌朝、スマホを開いたら、また通知が来ていた。
『富士山の高さが3メートル減少――国土地理院が測定誤差を否定』
ソウはしばらくその通知を見て、それから画面を閉じた。
今日も、バイトがある。
次の出勤日、一分遅刻してきたナナが言った。「聞いてください、またぴったり計算したのに……!」ソウはそのとき初めて、ナナの走ってくる方向が毎回おかしいことに気づいた。




