第10話「弁当は、24時間で消える」
バックヤードの壁掛け時計が十一時四十分を示したとき、朱雀ミオはポリ袋からタッパーを六つ取り出し、テーブルの上に並べ始めた。
「はい、今日のお昼ご飯ですよ」
ミオの言葉は、廊下でレシートの束と格闘していたソウの耳に届いた。
神崎ソウは顔を上げ、その光景を見た。
昨日もあった。一昨日もあった。そして今日もある。
鮭の切り身と煮物と卵焼き。白ごはんのうえに梅干しがひとつ。蓋を開けると湯気が上がった。
「……また手作りですか」
「そうですよ」
「朝、何時起きです?」
「四時です」ミオはにっこりと笑う。「早起きは三文の徳、というじゃないですか」
「三文じゃ追いつかないと思いますけど、その労力」
ソウが呟くと、ミオは「うふふ」とだけ言った。
この笑い方には、三日働いてもまだ慣れない。「うふふ」には情報がなさすぎる。返しようがない。
店長の田所マサルが段ボールを抱えてバックヤードに入ってきた。タッパーを見た瞬間、顔が崩れた。
「ミオちゃん、また作ってきたの!」
「田所さんの分もありますよ」ミオはタッパーを一つ差し出す。「今日は筑前煮です」
「いやあ……」田所は受け取りながら、目を細めた。「なんか、うちの店、最近急に飯がうまくなったな」
ソウは店長の言葉を聞きながら、タッパーをひとつ手に取った。蓋の隙間から鮭の匂いがした。ちゃんと本物の、魚の匂いだ。
ところで、これは本当に本物の魚なのだろうか。
ソウはその考えを頭の端に追いやった。三日間、食べても何も起きていない。少なくとも自分は生きている。
たぶん、気のせいだ。
昼休みになると、バックヤードにバイトメンバーが集まってきた。
最初に来たのは日向ナナで、スタッフ用の入口から飛び込むように入ってきた。
「間に合ったーっ!」
「休憩時間は一時間あります」ソウは言う。「今、十二時ちょうどです」
「でも! 弁当なくなったら困るじゃないですか!」
「六人分あります」
ナナはソウの言葉を聞いて、ようやく呼吸を整えた。十八歳にしては胆力があるとソウは思っていたが、食事になると話が別になるらしい。
「ナナちゃん、はい」ミオがタッパーを渡す。「今日は卵焼きに出汁を効かせてみました」
「わあ……!」ナナは蓋を開けて、両目を輝かせた。「ミオさん、毎日ありがとうございます」
「いいんですよ。作るのが好きなので」
続いて入ってきたのが御堂カイだった。ドアを開けた瞬間、鮭の匂いを嗅いで口角が上がる。
「よっしゃ、今日も弁当か」
「カイさんの分もあります」ミオが言う。「ただ、今日は白ごはん少し少なめにしました」
カイの顔が止まった。
「……なんで?」
「先日、体重計で悲しそうにされていたので」
「……俺、悲しそうにしてたか?」
「ええ」ミオは静かに頷く。「うふふ」
カイは受け取ったタッパーを見下ろした。白ごはんは、確かに少し少なかった。
「……気が利くのか、余計なお世話なのか、わからんな」
「両方です」ソウが横から言った。
カイはソウを見て、「お前、ミオさんの肩持つのか」と言ったが、なんとなく嬉しそうに見えた。
霧島テルは隅のパイプ椅子に座って、すでに弁当を受け取っていた。黙々と食べている。
「テル、速いな」
「腹が減ってた」
短い答えだった。テルの視線は弁当の中にある煮物に向いていて、他のことには関心がなさそうだった。
「ミオさんの弁当、どう?」
「うまい」
「それだけ?」
「充分じゃないか」
テルは箸を置いて、ソウを見上げた。
「神崎、お前、毎回うまいって言うだけじゃ駄目だと思ってるだろ」
「……そこまでは思ってないけど」
「なるようになる、って食べ物に関しては正しい。うまいものはうまい。それでいい」
テルはそう言って、また煮物を口に運んだ。
ソウは自分のタッパーを開けた。鮭の切り身がほぐれていて、煮物が角煮のように柔らかくて、卵焼きに出汁の香りがした。
……なんか変じゃない?
この人、本当に朝四時に起きてこれを作ってるのか。六人分を毎日。
ソウは弁当を食べながら、ミオの横顔をそっと見た。
ミオは自分の弁当を開けもせず、みんなが食べているのを見て、「うふふ」と笑っていた。
「ミオさん、自分のは」
「ああ、私のはあとで食べます」
「なんで」
「みなさんが食べているのを見ていると、お腹がいっぱいになるので」
ソウは箸を持ったまま、少し考えた。
「……それ、食べてることにならないですよね」
「うふふ」
やっぱり情報がなかった。
昼休みの残り十分になったとき、ソウは水を飲みに立ち上がった。
ふと、棚の方に目がいった。
タッパーが、三つあった。
ソウは首を傾げた。さっき、全員に配ったはずだ。六人分、ちゃんと渡った。田所さんも含めて全部出た。それなのに、棚にタッパーが並んでいる。
「……ミオさん」
「はい」
「あの棚のタッパー、なんですか」
ミオは棚を見た。それから、ソウを見た。笑顔のまま、一秒だけ間があった。
「あら。予備ですよ」
「予備、三つも?」
「みなさん、おかわりするかもしれないと思いまして」
「……六人しかいないですよ、スタッフ」
「うふふ」
会話がそこで終わった。
ソウは棚のタッパーを見た。ちゃんと蓋が閉まっていて、中に弁当が入っている気配がした。
昨日も似たようなことがあった気がする。食べ終わったはずのタッパーが、夕方になって棚に戻っていた。ソウはそのとき「片付け忘れたのかな」と思って、特に気にしなかった。
気のせいか。
たぶん、気のせいだ。
午後のシフトは、レイが入っていた。
氷室レイは定時より三分早く出勤してきて、スタッフ用の着替えスペースでユニフォームに着替え、完璧なスーツ姿で売り場に立った。ソウは引き継ぎのメモを渡しながら、レイが今日三本目のコーヒーを飲んでいることに気づいた。
「午前、何かありましたか」 レイが聞く。
「クレームが一件。プランの説明が伝わらなかったやつで、田所さんが対応しました」
「私がいれば——」
「レイさんじゃなくて正解だったかもしれないです」
ソウはそう言ってから、少し考えて付け足した。
「レイさんがクレーム対応すると、途中で壁に入りそうになるから」
「……あれは緊張すると反射的に発動しかけるだけです」レイは眉一つ動かさない。「意識すれば止められます」
「本当ですか」
「たぶん」
「『たぶん』で大丈夫なんですか、この職場」
「問題ありません」
レイはそう言って売り場に出た。ソウはその背中を見ながら、「問題あると思う」と思ったが、口には出さなかった。
夕方になった。
店内のモニターがニュースに切り替わっていた。女性キャスターが、やや硬い表情で何かを伝えていた。
《——栃木県宇都宮市内の住宅街で発見されたネジは、現在までに確認されただけで三千本を超えています。近隣住民の話では——》
ソウはモニターを見た。
昨日のニュースでは二千本だった。一日で千本増えた。
ネジが増えている。
《——また別のニュースです。本日、気象庁は富士山の山頂標高について、再測定の結果を発表しました。現行の三七七六メートルから——》
ソウは耳を傾けたが、客が質問してきたので音声が途切れた。
「すみません、このプランって月々いくらになりますか」
「はい、ただいまご説明します」
ソウは業務に戻った。モニターの音声は、別の話題に変わっていた。
……富士山、また測り直してた。
気のせいか。
閉店作業の途中で、ミオがバックヤードから声をかけてきた。
「ソウくん、少しいいですか」
片付けの手を止めて、ソウは振り返った。
ミオがエプロンを畳んで持っていた。もう上がる時間らしい。
「何ですか」
「弁当のタッパー、今日は棚に三つ残っていましたよね」
ソウは一秒、止まった。
「……見てたんですか」
「ええ」ミオは頷く。「ソウくんが気づいているのも、見ていました」
「あれ、予備じゃないですよね」
「予備です」ミオはにっこりとした。「ただ、もとから三つあったわけではなかったかもしれません」
「……もとから、なかった?」
「複製するんです」
ソウは黙った。
「……複製」
「そうです。一つ作れば、同じものが作れます。ただ、二十四時間で消えます」ミオは言葉を選ぶように話した。「なので、弁当は朝作った分で大丈夫なんですが、余ったぶんが夕方になるとよく棚に残ってしまって。昨日も気づいていましたよね、ソウくん」
「……気づいてはいました」ソウは素直に答えた。「片付け忘れかなと思っていたんですけど」
「そう言っていただけると助かります」ミオは小さく笑う。「ただ、今日はちゃんと言っておこうと思って」
「なんでまた今日」
「ソウくんが、あまりにもちゃんと見ているので」
ソウはそれを聞いて、少しだけ困った顔になった。
「……見てただけです。特に何かするつもりもなかったし」
「わかっています」ミオは言う。「だから話しました。隠し事をしても、ソウくんにはあまり意味がないと思ったので」
ミオのエプロンが整然と畳まれていた。その手つきは落ち着いていて、急いでいる様子が一切なかった。
「一つ聞いていいですか」ソウは言った。
「どうぞ」
「ミオさんって、レイさんやナナさんやカイさんとは、前から知り合いなんですか」
ミオはしばらく、答えなかった。
「……長い付き合いです」
「どのくらい」
「あの子たちが思っている以上には」
その言葉の意味をソウが測っている間に、ミオはエプロンをトートバッグに入れた。
「お昼ご飯、おいしかったですか」
「おいしかったです」
「よかった」ミオは言って、バックヤードのドアを開けた。「ただ、複製したものなので。明日には消えます。——食べてよかったですね、今日のうちに」
それだけ言って、ミオは出ていった。
ソウは少しの間、バックヤードに一人で立っていた。
腹の中に鮭と煮物の記憶があった。確かにうまかった。本物と変わらない味がした。
でも消える。
……なんか変じゃない?
複製した食べ物が消えるなら、食べた後に腹の中で消えることもあるのか。それとも消化された後は消えないのか。栄養として吸収されたらどうなるのか。
考え始めると止まらなくなったので、ソウは首を横に振った。
気のせいだ。今日も飯はうまかった。それでいい。
テルが今日言っていたことを、ソウは思い出した。
うまいものはうまい。それでいい。
帰り道、ソウはスマホで天気予報を確認しようとしたら、ニュースのプッシュ通知が入ってきた。
《【速報】宇都宮市・謎のネジ問題、近隣の市でも同様の事例を確認。合計本数は一万本超へ》
ソウは通知を見た。
一日で一万本。
……増えるの、速くない?
スクリーンショットを撮るかどうか、一秒だけ迷った。
やめた。何かに使うわけでもない。
ソウは通知を閉じて、天気予報を開いた。明日は晴れだった。
ポケットに手を入れながら歩いていると、ふと思った。
ミオさんは、「あの子たちが思っている以上に長い付き合い」と言った。
あの子たち、という言葉を使った。
レイさんもナナさんもカイさんもテルさんも、みんなある日突然バイトに入ってきた。前から知り合いとは聞いていなかった。でもミオさんは、全員のことを最初から知っているみたいだった。
好みを知っていた。性格を知っていた。カイさんの体重計の件も、なぜか把握していた。
「うふふ」の意味が、少しだけわかった気がした。
あの笑い方は、全部知っているから笑えるのかもしれない。
……なんか変じゃない?
ソウは空を見上げた。十月の夜空に星が出ていた。
明日もミオさんは四時に起きて、弁当を作るのだろうか。複製するのに、どれだけ作ればいいのかわからないけれど。朝の一個が夕方には三個になっていた。
でも二十四時間で消える。
消える前に食べてよかった、と言っていた。
どこか遠い話のような言い方だった。弁当の話だけをしているようには、少し聞こえなかった。
ソウは歩きながら、その言葉の重さを確かめるように、もう一度頭の中で繰り返した。
——消える前に食べてよかったですね、今日のうちに。
明日も弁当があるとは、ミオさんは言わなかった。




