第11話「タッパーの底に、何かある」
朱雀ミオが出勤してきたのは、昼の十二時ちょうどだった。
引き戸をくぐった瞬間、バックヤードにふわっと出汁の香りが届く。両手に提げた大きなエコバッグ、その中でタッパーが軽くぶつかり合う音。
「おはようございます」
ミオは涼しい顔で言った。今日も笑顔が整いすぎている。
「……あの」
神崎ソウはカウンター越しに振り向いて、少し声を潜める。
「ミオさん、今日で四日目ですよね。毎日弁当持ってきてくれてるの」
「ええ」
「……何人分ですか」
「六人分です。今日はひじきと、玉子焼きと、鶏の照り焼きがメインです」
「いや、そこじゃなくて」
ソウは額に手を当てた。
「それ、毎朝四時に起きて作ってるやつですよね」
「三時半ですよ」
ミオはあっさり訂正し、エコバッグを冷蔵庫に押し込んだ。スムーズすぎる。三時半起床を完全に受け入れている顔だ。
「……なんか変じゃない?」
ソウが呟くと、
「何かご不満でしたか」
ミオが振り向いた。目が細くなっている。不満があるなら言ってくれという顔だ。
「不満じゃないです。ありがたいです。ありがたいですけど」
「では今日もよろしくお願いします」
会話を終わらせる達人だと思った。
午前中は落ち着いていた。
店長の田所が受付カウンターでキャリア変更の手続きをしている間、ソウは機種ディスプレイの埃を拭きながら、ぼんやりとミオの動きを目で追っていた。
ミオはどこにいても自然だった。客に話しかけるときの声の調子、棚の在庫確認の手際、何よりバックヤードで書類を整理するときの背筋の伸び方。全部が落ち着いていて、「ここにいていい」という感じがした。
それがかえって引っかかる。
氷室レイも落ち着いているが、あちらは「能力のことを考えると少し危なっかしい」という緊張感がある。ミオにはそれがない。
(この人、何を考えてるんだろう)
ソウが机拭きの手を止めたところで、バックヤードのドアが開いた。
「ソウくん、お昼にしましょう」
ミオが冷蔵庫からタッパーを出しながら言う。
「あ、はい。今行きます」
休憩室のテーブルにタッパーが六個並んだ。
先に着いていたナナが目を輝かせている。
「ミオさん、今日も!」
「今日も、です。ナナちゃん、朝ごはん食べましたか」
「食べ……ました、たぶん」
「たぶん、は食べてないのと同じです」
ミオはナナの前にタッパーを一つ置いて、蓋を開けてやる。ひじきの煮物とご飯、玉子焼きが整然と並んでいた。
「うわ、おいしそう」
テルがどこからともなく現れて隣に座った。
「テルくん、今日はちゃんと出勤しましたね」
「ちゃんとって失礼な」
「昨日は十五分遅れたでしょう」
「なるようになってた」
「なってなかったです」
ミオが静かに言い切る。テルは黙って弁当を受け取った。
続いてカイが入ってきた。
「ミオさん! 今日も作ってきてくれたんすか」
「はい。カイくんは今日、ジムは?」
「午前中に行ってきました! 今日こそ成果出てるはずです」
「あとで体重計乗っておきなさい」
「…………乗ります」
カイが大人しく席についた。
ソウは自分のタッパーを開けながら、テーブルを見渡す。六個のタッパー。レイの分もある。今日はまだ来ていないが、夕方のシフトに入っている。
「ミオさん」
「なんですか」
「自分の分は?」
ミオは少し間を置いてから、微笑んだ。
「私はみなさんが食べているのを見ているだけで十分なんです」
「それ、昨日も一昨日も言いましたよね」
「毎日本当のことを言っています」
「…………」
ソウは箸を持ったまま、ミオを見た。ミオは本当に嬉しそうな顔をしていた。食べないのに。
(なんか変じゃない?)
でも、弁当はおいしかった。鶏の照り焼きが特に。砂糖と醤油の加減が、実家の母親の味に少し似ていた。
午後二時になって、レイが出勤してきた。
「こんにちは」
クールな声で言いながら、バックヤードに消える。すぐに戻ってきて、白のブラウスのボタンを留めながらカウンターに立つ。
「あ、レイさん、弁当ありますよ。ミオさんが」
「……そうですか」
一瞬だけ、何かが揺れた気がした。ほんの少し、レイの目がやわらかくなったような。
「今日のメインは照り焼きです」
「…わかりました。休憩のときに」
素っ気なく答えて、レイは端末ディスプレイのほうへ歩いていった。
ソウはその背中を見ながら、「レイさんって弁当持ってきてもらって嬉しいのかな」と思った。たぶん嬉しいんだろう。でも絶対に言わない人だ。
三時頃、バックヤードで在庫チェックをしていると、ミオが棚の前でじっと立っているのが目に入った。
「ミオさん、何してるんですか」
「……在庫確認です」
「さっきも同じ棚見てましたよね」
「確認は、念入りに」
ミオが振り返る。笑顔。いつもの笑顔。
でも、ソウには何かが引っかかった。ミオが見ていたのは棚じゃなかった。棚の、その向こう側を見ていたような気がした。
「ミオさって」
「はい」
「いつから携帯ショップで働いてるんですか」
「少し前から」
「少し前って、どのくらいですか」
また、少しだけ間があった。
「長いようで、短いです」
ソウはその答えをうまく受け取れなかった。
「……質問の答えになってないですよね」
「そうかもしれません」
ミオはそのまま棚のほうに向き直って、在庫番号をメモし始めた。話は終わりだという背中だった。
四時すぎ、店内モニターにニュース速報が流れた。
音量は小さかったが、ソウは何気なく字幕を目で追う。
『宇都宮市で相次いだネジの大量発生事例。昨日までに確認数は七千本を超え、市は原因調査を続けている。一方、同様の不明物体の発生が隣県にも——』
「……まだネジ出てんのか」
ソウは小声で言った。隣でレイが端末のデモ操作をしている。聞こえなかったか、聞こえたけど反応しなかったか。
「レイさん、ネジって」
「在庫にはありません」
「そっちじゃなくて、ニュースの」
「…視ていません」
レイはディスプレイから目を離さないまま答えた。表情が動かない。
「ミオさん」
ソウは振り返る。
「あのニュース、見ました? ネジの」
ミオは少し間を置いてから、いつものように笑った。
「そうですね、謎のことって、ありますね」
「……それだけですか」
「はい」
端末の案内音が鳴った。新しい客が入ってきた。
ソウは「気のせいか」と心の中で呟いて、カウンターへ向かった。
夕方五時、ソウが休憩に入ったとき、バックヤードのテーブルにタッパーが一つ残っているのが目に入った。
レイの分だ。まだ食べていない。
「レイさん、弁当」
ソウが声をかけると、奥から「少し待ってください」という声が返ってきた。
聞き慣れた口癖だ。でも今日は何かトーンが違った。
「……あ」
ソウが聞き返そうとして、バックヤードのドアのほうを向いた。
ドアの隙間から、何かが床に落ちる音がした。布の音だ。続いてベルトか何かのバックルが当たる小さな音。
(あ。これは。この音は)
ソウは反射的に壁のほうへ向き直った。
廊下側の壁を、白いシルエットがゆっくりと進んでいた。正確にはシルエットが壁に「入っていった」。ずぶっと。音もなく。まるで壁が水面になったみたいに、長い髪と細い背中が壁の中に吸い込まれていく。
「…………」
ソウは何も言えなかった。
五秒後、廊下の向こう側から声が届いた。
「ソウさん」
レイの声。壁越しに完全に普通のトーンで言う。
「あちらに帳票ファイルを持ってきてほしいです」
「……え、あ、はい」
「棚の一番上です。青いファイル」
「わかりました」
ソウは青いファイルを手に取り、廊下側に回った。
レイが壁から出てきていた。正確には壁から「出てきたところ」だった。ずぶっという感じで壁の向こうから体が出てきて、最後に髪の先が壁をすり抜けた。そして床にどさっと服が落ちていた。白のブラウスと黒いスカートとベルトが。
「ファイルをどうぞ」
レイが言った。
ソウは視線を床に落として、すぐに天井に向けた。
「…………あ、はい、どうぞ」
目をつぶったまま差し出す。
「目をつぶらなくても構いません」
「構います!」
「ご覧になりましたか」
「見てないです! 見てないですが、物音で大体わかります!」
「そうですか」
レイが静かにファイルを受け取る音がした。
「着替えますので、少し待っていてください」
「わかりました! 待ちます! 待ちながら壁を見ます!」
「壁を見なくていいです」
「見ます!」
ソウは廊下の壁を向いて、背中全体で「見ていない」を主張した。頭が熱い。耳も熱い。
後ろでブラウスのボタンを留める音が聞こえた。スカートをはく音。ベルトのバックルを留める音。一つひとつが妙にはっきり聞こえる。
「着替え終わりました」
「はい!」
ソウが振り向くと、レイはいつも通りの完璧なスーツ姿で、帳票ファイルを小脇に抱えて立っていた。
「これが私の仕様なので」
レイが言った。
「わかってますよ! でも毎回心臓に悪いです!」
「慣れてください」
「慣れません!」
レイはそのままカウンターのほうへ歩いていった。
ソウは廊下の壁を見た。何事もなかったような壁だった。
そういえば、さっきレイが壁を通り抜けるときに、どこかで何かが消えているんだろうか。島とか、山とか。
「……気のせいか」
呟いたが、今回ばかりは気のせいじゃない気がした。
閉店間際、ミオが帰り支度をしながらソウに声をかけた。
「今日のお弁当、口に合いましたか」
「すごくおいしかったです。照り焼き、特に」
「よかった」
ミオが笑う。本当に、心底よかったという顔で。
「ミオさんって、なんで弁当作ってくれるんですか」
「みなさんのことが心配だから、ですかね」
「心配?」
「ちゃんと食べていないと、消えてしまいそうで」
ソウは少し黙った。
「……消えてしまいそう、って」
「たとえばの話です」
ミオはエコバッグを肩にかけて、「お疲れ様でした」と言った。
ドアを出る直前に振り向いて、
「明日も持ってきますね」
それだけ言って、出ていった。
ソウは「たとえばの話」という言葉をしばらく噛んでいた。
たとえばの話、にしては妙にまっすぐな目をしていた。
施錠を終えて店の外に出ると、スマートフォンにニュースの通知が来ていた。
『宮城沖の海底地形に異変。水深データが昨年比で大幅にズレ。専門家「地殻変動とは異なるメカニズムが働いている可能性」』
「……また海か」
ソウはスマートフォンをポケットに戻した。
島が消えて、山が縮んで、ネジが増えて、今度は海底がズレた。
全部ばらばらな話のはずなのに、なぜか一本の糸でつながっているような気がして仕方なかった。
(気のせいか)
信号が青になった。
ソウは横断歩道を渡りながら、ふと「テルが今日この信号を通ったかな」と思った。
どうでもいいことだ。でも何かが少しだけ引っかかって、頭の隅に残った。
翌朝、バックヤードの冷蔵庫にはまたタッパーが六個並んでいた。
今日のメモには「里芋の煮物・だし巻き玉子・豚の生姜焼き」と書いてあった。
ソウはメモを見て、「すごいな」と思って、それからもう一回「すごいな」と思った。
三時半起きで、六人分。
ミオ自身の分は、ない。
いつも、ない。
(……なんか変じゃない?)
ソウは冷蔵庫を閉めながら呟いたが、今日もたぶん「気のせいか」で片づけてしまう気がした。
でも弁当は今日もおいしかった。たぶん。
まだ食べていないが、そんな気がした。




