第12話「壁の向こうの、弁当箱」
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夕方五時のシフト交代のとき、ソウはちょうど氷室レイの「少し待ってください」の意味を理解した。
というか、理解したくなかった。
「……氷室さん、それって」
「脱ぎます」
レイはすでにジャケットのボタンに手をかけていた。バックヤードの棚の前、蛍光灯がじーっと低く鳴っている。カイはとっくに飲み物を取りに行っている。テルは寝ている。ナナはまだ出勤していない。つまり今、このバックヤードにはソウとレイしかいなかった。
「ちょ、ちょっと待って。何で今ここで――」
「在庫が棚の奥に落ちました」
「落ちたんですか!?」
「はい」
レイはジャケットを脱いでパイプ椅子の背もたれに掛けた。それから、何の迷いもなくブラウスのボタンに手をかけた。
「普通に手を突っ込んで取ればいいじゃないですか!!」
「棚の奥行きが九十センチあります。私の腕は六十三センチです」
「じゃあ棒とか! 棒使えばいいんですよ! ほら、あそこの突っ張り棒!」
「その発想はありませんでした」
レイは一瞬動きを止めた。
本当に一瞬だけ。
「……なるほど。合理的ですね」
「ですよね!?」
ソウは棚の隅から突っ張り棒を引き抜き、氷室レイに差し出した。レイは静かに受け取り、棚の奥に差し込んで、くるんと引っかけて、端末の箱をするりと手前に引き出した。
ぽとんと落ちてきた箱を、ソウはキャッチした。
「取れました」
「取れましたね」
沈黙が二秒あった。
「……今日は、お手をわずらわせました」
「いえ」
ソウはすでに背を向けていたが、目の端でレイがジャケットを拾い上げるのが見えた。ブラウスはまだ一番上のボタンしか外れていなかった。つまりほとんど何も起きていなかった。
でも心臓がうるさかった。
……気のせいか。
閉店一時間前になると、店内は急に静かになる。
客足が途絶え、田所店長が帳簿を開き始め、ナナが「来ました! ギリギリじゃなかった!」と玄関で叫ぶ。
「一秒遅刻だよ」とカイが言った。
「え? 嘘。時計どこ?」
「壁の時計」
「……壁の時計、少し狂ってるんじゃないですか?」
「狂ってるのはそっちじゃないの」
「ひどい!」
ソウはカウンター越しにそのやり取りを眺めながら、複製弁当の空き容器を棚に戻していた。
朱雀ミオが、今日もバックヤードに残っている。
ここ数日、ミオはいつも最後まで残る。帰り支度を始めてから、必ず「あ、忘れ物」と戻ってくる。何を忘れているのかはよくわからない。戻るたびに棚の前で少し考えて、また出てくる。
今日もそうだった。
ソウは棚を整理しながら、バックヤードをちらりと覗いた。
ミオは棚の前に立って、タッパーを一段一段確認していた。数えているようだった。自分が複製したタッパーを、ひとつひとつ。
その目が、少し、違った。
昼間のミオの目ではなかった。みんなが笑うのを見て笑い返すときの目じゃなかった。棚の向こうにあるものを見る目だった。この部屋にないものを、見る目だった。
ソウは声をかけようとして、やめた。
……なんか変じゃない?
でも今日はそのまま流せなかった。
「ミオさん」
ミオが振り返った。一秒のラグがあった。
「あ、ソウくん。もう上がっていいよ?」
「いえ。その……タッパー、確認してるんですか?」
「うん」
「全部で何個あります?」
ミオは少し間を置いた。
「今日は七個」
「明日には消えますよね」
「そうだね」
「じゃあ明後日も持ってきてくれるんですか」
「もちろん」
ミオは笑った。いつもの笑い方だった。でもソウには、その笑いの一秒前に、何か別の表情があったように見えた。
「……毎日作るの、大変じゃないですか?」
「全然。好きなことだから」
「ミオさんって、私生活で何か作ったりするんですか。弁当以外で」
「複製するのは弁当だけ、かな」
「複製?」
ミオは一瞬だけ目を細めた。「手作り、の言い方でしょ」と笑って訂正した。でもソウは聞こえた言葉を覚えていた。
複製。
それはミオが選んだ言葉だった。
テルが自販機の前で缶コーヒーを選んでいた。
「当たり、出る?」
ソウが横に来ると、テルはちらりとこちらを見た。
「出したいなら出るよ」
「確率操作で?」
「うん。でもどうでもいいことだから」
「缶コーヒーの当たりは、どうでもいいことなんだ」
「人生への影響がゼロだから」テルは百円玉を入れた。ボタンを押した。がたん、と缶が落ちて、ちゃりんと小銭も出てきた。「ほら、当たり」
「地味にすごい」
「地味がいちばん安定してる」
テルは缶を拾って、蓋を開けた。一口飲んで、「ソウ、なんか考えてる?」と聞いた。
「ミオさんのことを」
「ああ」
「何か知ってる?」
テルは少し間を置いた。缶コーヒーを見た。天井を見た。また缶コーヒーを見た。
「知ってることはある。でも言っていいかは、まあ、なるようになる、かな」
「それはどっちだよ」
「どっちでもない」
ソウはため息をついた。テルはそれをにこにこ見ていた。
「ひとつだけ言えるのは」とテルが言った。「ミオさんは俺たちのこと、ちゃんと好きだよ。弁当、本物だよ」
「……本物って何ですか」
「手作りだって言ってたじゃん」
テルはそう言って、歩いて行った。廊下の端の椅子に座って、また寝始めた。
ソウはしばらく自販機の前で立っていた。
店内モニターがニュースを流していた。
『――本日夕方、静岡県内のスーパー三店舗で、同型のネジが合計四千本以上発見されました。このネジは先月から各地で相次いでいる謎の大量発生事例と同種のものとみられ、国土交通省が調査を――』
ソウはモニターを見た。
ネジのことは前にも聞いた気がした。宇都宮。それから愛知。それが今度は静岡だった。
……なんか変じゃない?
でもまた、「気のせいか」に変換した。
閉店後のバックヤードで、ミオが弁当箱を袋に入れていた。
空の弁当箱ではなかった。
新しいタッパーだった。
ソウはそれに気づいて、「それ、明日の?」と聞いた。
「そう。仕込んできた」
「今日持ってきたやつは?」
「棚に戻した。明日の朝には消えてるから、そのまま置いておく」
消えてるから。
ソウはその言葉を、もう一度頭の中で繰り返した。
「ミオさんって……弁当、どこで作るんですか?」
「家、だよ」
「キッチンで?」
「まあ、そんな感じ」
「具体的に聞くんですけど」ソウは少し声のトーンを落とした。「ミオさんの家って、どこにあるんですか?」
ミオは袋の口を縛る手を止めた。
笑いもしなかった。否定もしなかった。
少しだけ、沈黙した。
「……遠いよ」と、ミオは言った。「ここよりずっと遠い。でもここに来るのが好きだから、来てる」
「遠いって、どのくらい」
「歩いて帰ったら、たぶんソウくんが老人になる」
ソウは黙った。
ミオは袋を持ち上げて、「ほら、もうシフト終わりだよ」と言った。いつもの笑顔だった。
ソウはそれ以上聞けなかった。
「……おつかれさまでした」
「おつかれ。また明日ね」
ミオはバックヤードの扉を開けて、廊下に出た。そのまま非常口の方に歩いていった。
ソウはその背中を見た。
遠いよ、という声がまだ耳に残っていた。
歩いて帰ったら、ソウくんが老人になる。
それはどういう意味の「遠い」だろうか。
……気のせいか。
バイトを上がって外に出ると、カイが自転車に乗ろうとしていた。
「神崎、飯行く?」
「今日は遠慮します」
「渋いな。なんかあった?」
「ミオさんって何者なんですかね」
カイは自転車のハンドルを持ったまま少し考えた。
「さあ。でもうまい飯を毎日くれる人は善人だろ」
「それだけで判断するんですか」
「飯の味は嘘つかない」
カイはそう言って、颯爽と漕ぎ出した。後ろ姿がみるみる遠ざかって、角を曲がった。
ソウは夜道に一人残った。
空が妙にきれいだった。星が多かった。
……なんか星、最近多くない?
いや、気のせいか。
翌朝、店を開けるとバックヤードの棚に昨日のタッパーは一個もなかった。
その代わり、新しい弁当が六人分、ラップをかけて並んでいた。
付箋がついていた。
『今日は鶏めし。よく食べてね。ミオより』
ソウはその付箋を剥がして、しばらく見た。
「ミオさん」と、声に出してみた。
誰もいないバックヤードに、声が吸い込まれた。
――遠いよ。ここよりずっと遠い。
ソウは弁当を棚から一個取り上げた。ラップを少しだけ端から開けてみると、鶏めしの匂いがした。ちゃんと温かかった。
温かかった。
さっき作ったばかりの、本物の温かさだった。
ソウはラップを元通りに押さえて、棚に戻した。
「……どこから来てるんだ、この人」
誰も答えなかった。
店のモニターが自動起動して、朝のニュースが始まった。
『昨夜遅く、南太平洋の無人島が一つ消滅したことが確認されました。衛星画像では島の輪郭が確認されていましたが、本日未明の撮影では跡形もなく――原因は現在調査中で――』
ソウはそれを聞きながら、弁当の並んだ棚をもう一度見た。
七個ある。昨日と同じ数だ。
六人分のはずなのに。
……なんか変じゃない?
そのとき、後ろの扉が開いて、ミオが入ってきた。
「あ、もう来てたの。早いね、ソウくん」
「おはようございます」
「弁当、もう見た? 今日は鶏めし」
「さっき見ました。……七個ありましたよ」
ミオは一瞬だけ止まった。
ほんの一瞬。
「あら。数え間違えたかな」
笑った。いつもの笑いだった。
でもソウは、この店に来てから、ずっとそうだった。笑いの一秒前に、何かがある。
「ミオさん」
「なに?」
「いつまでいてくれますか」
ミオはソウを見た。
今度は笑わなかった。
少しだけ、目を細めた。それから、ゆっくり言った。
「……なるべく、長くいるつもりだよ」
なるべく、という言葉がひっかかった。
ソウが何か言おうとしたとき、ドタドタと音がして扉が開いた。
「間に合った! おはようございます!」
ナナだった。
「一秒遅刻」とソウが言った。
「嘘!? また!? 時間停止したのに!?」
「使ったんですか今」
「帰ってください使ってないです」
ミオがくすくすと笑い始めた。さっきの静けさが薄れて、バックヤードがいつもの温度に戻っていった。
ソウはそれを見ながら、「なるべく」という言葉を、まだ持っていた。
長く、ではなく、なるべく長く。
それはどういう意味だろう。
……気のせいか。
たぶん、気のせいじゃない。
でも今日のところは、鶏めしを食べることにした。
次の話へつづく




