第13話「その弁当、本物ですか」
昼休みが終わる五分前に、バックヤードに戻ると、ミオが一人でテーブルに座っていた。
タッパーが二つ、彼女の前に並んでいる。
ソウが入ってきても、ミオは顔を上げなかった。ただ、両手をテーブルの上に乗せたまま、タッパーの蓋をぼんやりと眺めている。
「あ、お疲れ様です」
ソウが声をかけると、ミオはようやく顔を上げた。
「あら、ソウくん。おかえり」
「……ただいま、です」
なんとなくそう返してしまってから、ソウは少し恥ずかしくなった。ここはバイト先で、自分の家ではない。
でも、ミオがにっこり笑うと、それが正解だった気がしてしまう。
「これ、余ったやつ?」
タッパーを顎で示すと、ミオは「うん」と頷いた。
「テルちゃんが今日はいらないって言うから。寝てたし」
「ああ、また昼から爆睡してましたね」
「かわいいでしょ」
ミオはそう言って、タッパーの一つをソウの前に押し出した。
「食べる? まだあたたかいよ」
「さっきお昼食べたので……」
「じゃあデザートで」
蓋を開けると、中にはイチゴが入っていた。きれいに洗われた、形のそろったイチゴが六粒。
ソウは一粒つまんで口に入れた。甘い。普通に、ちゃんと甘い。
……本物だ。
テルが言っていたことを、ソウはまた思い出す。
『弁当は本物だよ』
じゃあ何が本物じゃないんだ、という疑問は、まだ消えていない。
「ミオさん」
「なあに」
「複製、って何ですか」
言ってしまってから、ソウは自分が思ったより直球だったことに気づいた。
でもミオは驚かなかった。ただ、少しだけ目を細めた。
「難しいこと聞くね」
「聞いていいですか」
「うん」
ミオはイチゴを一粒つまんで、口に入れた。咀嚼している間、天井を見上げている。
「複製したものはね」とミオは言った。「本物と全部おんなじなの。重さも、味も、温度も。でも、二十四時間で消える」
ソウは黙って聞いた。
「消えるっていっても、バンって消えるわけじゃなくて。じわっと薄くなって、気づいたらなくなってる。触ってたら、指先が少し冷たくなるかな。そういう感じ」
「……それって」
「うん」
「弁当も?」
ミオは少し間を置いてから、答えた。
「弁当は、ちゃんと作ってるよ。毎朝三時半に起きて」
「それは知ってます。でも」
「でも?」
ソウはイチゴをもう一粒つまんだ。
「タッパーが増えてたじゃないですか。棚の奥に。最初より明らかに多い」
ミオは返事をしなかった。
否定もしなかった。
ソウはそれを、答えとして受け取った。
「複製してるのは、弁当じゃなくてタッパー?」
「……正解」
ミオは静かに笑った。
「弁当箱が足りなくなってね。買いに行く時間もないし、まあいいかって」
「まあいいかって……」
「消えるの、弁当箱だから。別に誰も困らないでしょ」
ソウは少し考えてから、言った。
「消えるまでの間に弁当を食べて、洗って、返してもらったらどうなるんですか」
「きれいな弁当箱がじわっと消えるだけ」
「……それってミオさんの損じゃないですか」
ミオはまた笑った。今度は声を出して。
「ソウくんって、そういうとこあるよね」
「そういうとこ?」
「損とか得とか、ちゃんと考えるとこ」
ソウには、それが褒め言葉なのかどうかよく分からなかった。
「ミオさんは考えないんですか」
「考えるけど、損でもいいんだよね。見てるだけで、お腹いっぱいだから」
先週も聞いた言葉だった。でも今日は、少し違って聞こえた。
ソウはイチゴを全部食べて、空になったタッパーをミオに返した。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
バックヤードのドアが開いて、カイが頭だけ突っ込んできた。
「ソウ! お前シフト始まってるぞ!」
「あ、やば」
ソウは立ち上がって、エプロンを手に取った。振り返ると、ミオはまだ同じ姿勢でテーブルに座っていた。
「ミオさん」
「うん?」
「また明日も弁当、作ってくれますか」
ミオは少し驚いた顔をした。一瞬だけ。
「もちろん」
午後のシフトは、暇だった。
携帯ショップの平日の午後というのは、だいたいこういうものだ。学生も主婦も来ない時間帯、客足がぴたっと止まって、店内に流れているBGMだけが存在感を主張し始める。
ソウはカウンターの内側で、端末のディスプレイを拭きながら、ぼんやりと考えていた。
複製。二十四時間。消える。
ミオがタッパーを複製しているのはわかった。弁当箱が足りないから。それは了解した。
でも、どうやって?
そもそも、どうやって複製するんだ。
「カイさん」
隣で暇そうにスマホをいじっているカイに、ソウは声をかけた。
「んー?」
「複製って、どうやってやるんですか」
「俺は重力担当だから知らん」
「能力者同士って、お互いの能力の仕組みって分かるんですか」
カイはスマホから顔を上げた。
「なんで急にそんな話?」
「ミオさんに聞いたんです。タッパーの話」
「ああ」
カイは少し考えるように天井を見上げた。
「分かんない、ってのが正直なとこ。俺は重力をいじれるけど、なんでいじれるのかは分かんないし。息するのに肺の仕組みを全部理解しなくていいでしょ、みたいな」
「なるほど」
「ミオさんのは、触れたものを増やせるやつだろ。昔から使えるみたいだし、本人も慣れすぎてて逆に説明できないんじゃないかな」
「昔から、ってどのくらい昔ですか」
「さあ」
カイは再びスマホに目を落とした。
「あの人、年齢聞いたら笑ってごまかすから。俺も知らない」
ソウは端末の拭き取りをやめて、カウンターに肘をついた。
「カイさんは、ミオさんが怖くないですか」
「なんで」
「なんか……色々知ってそうじゃないですか。みんなのこと。俺らのこと」
カイはしばらく黙っていた。
「怖いっていうか……」
珍しく、カイは言葉を探している。
「お母さんみたいな感じあるじゃん、ミオさんって。親ってさ、子供の知らないこと全部知ってるけど、だからって怖いとは思わないだろ」
「……まあ」
「それと似てる。俺は」
ソウは「なるほど」と言いかけて、やめた。
なるほど、ではない気がする。なんとなく。
親が子供の知らないことを知っているのは、長く生きているからだ。でも、子供はいつか追いつく。
ミオが知っていることに、自分たちは追いつけるのか。
……なんか変じゃない?
店内のモニターが、昼のニュースの再放送に切り替わった。
アナウンサーの声が、静かな店内に流れ込んでくる。
「——続いて、先週に引き続き、国内各地で報告されている謎の金属片大量発生について。国土地理院および環境省の合同調査チームは、本日午前の記者会見で——」
「またネジか」
カイがぼそっと言った。
「福岡・佐賀・長崎の三県でネジが発見されているんですよね」と、ソウは言った。「最初は宇都宮だったのに」
「広がってんの?」
「拡大してるんですよ、なんか」
「へえ」
カイは興味なさそうに「大変だな」と言ってスマホに戻った。
ソウはモニターを眺め続けた。
最初は宇都宮。それが群馬、埼玉、栃木に広がって、今週は九州。
地図で繋いだら何かになるか? いや、そんなわけないか。ネジだし。
……気のせいか。
閉店一時間前、レイが戻ってきた。
外回りの訪問契約対応から帰ってきたレイは、ショルダーバッグを肩にかけたまま、カウンターに書類を置いた。
「三件、契約取れました」
「さすがですね」
ソウが言うと、レイは無表情で「普通です」と答えた。
レイは本当に有能だった。接客は完璧、書類のミスはゼロ、クレームを受けても顔色ひとつ変えない。バイトとして見たら、文句のつけようがない。
「あの」
ソウは、ずっと聞こうと思っていたことを思い出した。
「レイさん、今日お昼の弁当食べましたか」
「……なぜそれを」
「ミオさんが気にしてたんで。最近レイさんが弁当返してくれないって」
レイは少し間を置いた。
「食べました」
「本当に?」
「本当に。外で」
「移動中に?」
「そうです」
ソウはレイの横顔を見た。
嘘をついている感じじゃない。でも、何かを言っていない感じはする。
「レイさん」
「なんですか」
「ミオさんの弁当、おいしいじゃないですか」
レイは何も言わなかった。
「おいしいですよね?」
少しして、レイは「……はい」と言った。
声が、いつもより低かった。
「おいしいです。しっかり味がして、具材のバランスも良くて。食感も、毎日違う」
「そうですよね」
「毎朝三時半に起きて作っているんでしょう」
「みたいですね」
「……そうですか」
レイはバッグを下ろして、椅子に座った。
「神崎さん」
「はい」
「あなた、いつもそういうことに気づいてますね」
「そういうこと、って?」
「ミオさんが誰かのために無駄なことをしているとか。ナナが毎回ぎりぎりに来るのが、本当はぎりぎりじゃないとか。テルが一番楽しそうに見えるのに一番孤独そうだとか」
ソウは少し黙った。
「……気のせいじゃないですか、全部」
「そういう返し方をするんですね」
「してますか」
「毎回。気づいているのに、流す」
レイは書類を整えながら、淡々と言った。
「それが正解なのかは、私には分かりません」
「レイさんは、どっちだと思いますか」
「どっち、というのは」
「気づいたとき、流す方がいいか、聞く方がいいか」
レイは少し考えた。
「流した場合と聞いた場合で、何が変わるかを先に考える方が合理的です」
「……それ、答えになってますか」
「なっていません」
どこかすっきりした顔でレイがそう言ったので、ソウは思わず笑った。
レイが「何がおかしいんですか」という顔でこちらを見たが、別に何でもないです、とだけ答えた。
閉店作業が終わると、バックヤードにはミオとソウとテルが残った。
テルは昼に続いてまた寝ていた。ロッカーに寄りかかって、完全に目を閉じている。
「テルって、毎回ちゃんと帰れてるんですか」
「帰れてるよ」とミオが言った。「信号が必ず青になるから、困らないんだって」
「そんな使い方してるんですね」
「便利でしょ」
ミオはタッパーを袋にまとめていた。今日回収できた分と、回収できなかった分が別の袋に分かれている。
「ミオさん」
「うん」
「さっきレイさんと話したんですけど」
「どんな話?」
「弁当を外で食べてるって言ってました」
「あー」
ミオは手を止めなかった。
「最近そうなんだよね」
「何かあったんですか」
「さあ。私が何か怒らせたかな」
ソウはミオの横顔を見た。心配していないように見える。でも、心配していないはずがない気がした。
「怒らせた、とは思ってないんですよね」
「うん?」
「だったら怖いな、ってなりませんか。理由が分からない方が」
ミオは手を止めた。
ゆっくりと、ソウの方を向く。
「ソウくん、さっきから何か探ってる?」
「……そんなつもりは」
「ないか。ただ気になってるだけか」
「すみません」
「謝らなくていい」
ミオは再び袋の整理に戻った。
「レイちゃんはね、たぶん弁当に慣れることが怖いんだと思う」
「慣れることが、ですか」
「おいしいとか、あたたかいとか、誰かに作ってもらえるとか。そういうのに慣れると、なくなったとき困るから。だから最初から距離を置いてるんじゃないかな」
「なくなる、って」
ソウは、なんとなく次の言葉を待った。
「まあ、なんでもなくなるでしょ」
ミオはあっさり言って、袋の口を結んだ。
「弁当箱みたいに。じわっと、ね」
テルが寝ぼけたような声を出した。
「……帰る」
「おやすみ」とミオが言った。
「もうおはようの時間じゃないですか」とソウが言った。
「まあ、なるようになる」
テルはそれだけ言って、ふらっと出て行った。
ソウが店の外に出ると、夜風が思ったより冷たかった。
スマホを取り出すと、ニュースのプッシュ通知が来ていた。
『【速報】鹿児島県・屋久島沖に正体不明の小島が出現。約100m四方の陸地が一夜にして浮上。国土地理院、調査チームを派遣へ』
ソウはしばらく画面を眺めた。
島が出てきた。
しばらく前に、どこかの島が消えていた。ペルー沖だったか。
出て、消えて。
……なんか変じゃない?
でもまあ、気のせいか。
ソウはスマホをポケットに突っ込んで、自転車に乗った。
夜道を走りながら、ミオの言葉がまだ頭の中にあった。
弁当箱みたいに。じわっと、ね。
じわっとなくなるものが、この世界にはいくつあるんだろう。
島とか、山とか、記憶とか。
それから、もしかしたら——。
ソウはペダルを踏んだ。
考えてもしょうがない。明日もバイトだ。
明日もミオが弁当を作ってきて、ナナがぎりぎりに来て、カイが自分の重さに文句を言って、テルが信号を全部青にしながら遅れてくる。
レイは、外で弁当を食べるかもしれない。
それでも、ミオは明日も三時半に起きるんだろう。
ソウには、なぜかそれだけが確かなことに思えた。




