第14話「クレーマーと、すり抜ける午後」
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「お前さ、ちょっと聞いていいか」
昼過ぎの閑散とした時間帯、カウンター奥の椅子にだらしなく体を預けながら、御堂カイが言った。ソウはスタッフ用の端末に目を向けたまま「なに」と短く返す。
「クレームって、どう対処するのが正解なの」
「……え、今さら?」
「今さらだけど」
カイは腕を組んで天井を仰いだ。その仕草がまた無駄に様になっていて、ソウは軽く腹が立った。身長と顔の作りに生まれつき優遇された人間の動作というのは、何をしてもサマになってしまうので理不尽だと思う。
「基本は聞くこと。共感。謝罪の順番。解決策の提示は最後」
「それ、店長に同じこと言われた」
「じゃあ身についてるじゃん」
「身についてないから聞いてる」
そういう問題か、とソウは思ったが口には出さなかった。入り口のガラス扉の向こうを見る。今日は妙に晴れている。三月末にしては空気が乾いていて、木枯らしの名残みたいな風が時折ガラスを揺らした。
「お前はどうすんの、クレームのとき」
「俺? 俺は普通に対応する」
「普通って何」
「……相手が何に怒ってるかを、まず考える。携帯の料金に怒ってるのか、説明が分かりにくかったことに怒ってるのか、それとも別のことで嫌なことがあって八つ当たりしてるのか」
カイが少し黙った。
「それ、分かるの」
「大体は」
「すごくない?」
「普通だよ」
「いや、すごいと思う」カイは珍しく真剣な顔をした。「俺、人間の感情って今でもよく分からん。なんでそんな細かいこと読めるの」
「生きてたら自然に覚えるだろ、そういうのは」
ソウはそう言ってから、ちょっと待てよと思った。カイの「生きてたら」が、どうもソウと同じ意味ではない可能性が、最近ちらちら気になっている。ただそれを問いただす言葉が見つからないので毎回流す。今日も流した。
カウンターの端に置いてあるテレビが静かに映っている。昼のニュース番組だった。
「――長野県諏訪市付近で、観測史上初となる湖面の突発的な上昇が確認されました。諏訪湖が昨夜から約二十センチ水位を上げており、専門家は重力場の局所的な変動が原因である可能性を指摘していますが――」
「……」
ソウはちらっとテレビを見た。重力場の局所的な変動。聞き慣れない言葉だなと思いながら、カイの方に視線を戻す。
カイはスマホの画面を見ていた。特に気にした様子はない。
……気のせいか。
その客が来たのは、午後二時を少し過ぎた頃だった。
ガラス扉が開いて、スーツの男が入ってきた。四十代くらい。肩が張っている。靴音が妙に大きい。ソウは「いらっしゃいませ」と立ち上がりながら、あ、これは、と思った。
経験則でなんとなく分かる。怒っている人間の入り方というのは、体全体から出ている。
「先月のプランの件なんですが」
男はカウンターに近づきながら、最初の一言目から低い声で言った。丁寧な言葉遣いだが、温度が三度くらい低い。
「はい、承ります。どのようなご状況でしょうか」
ソウは椅子を引いて男を座らせた。背後でカイが立ち上がりかけるのを、手で制する。俺がやる、という意味で。カイはちょっと不満そうな顔をしたが引き下がった。
「先月のプラン変更で、月額が上がるって言われてないのに上がってるんですよ。これ、どういうことですか」
男はスマホの明細画面を差し出した。ソウは受け取って確認する。
「ご確認させていただきます。少々お時間をいただいてよろしいでしょうか」
「はい、どうぞ」
端末に向かいながら、ソウはちらっと男の表情を見た。怒っているのは本当だ。でも声が震えてはいない。手も震えていない。怒りの純度が高い人間というより、困っている側に近い。
――料金が上がって焦っている、という感じに見える。
明細を確認する。オプションが一つ、自動更新されていた。書類上は説明されているはずだが、それが伝わっていなかったのだと分かった。
「お客様、ご変更いただいた際のプランに、データ容量の自動更新オプションがついておりまして――」
説明しながら、ソウは画面を男の方に向けた。男の眉がわずかに動く。
「聞いてない、そんな説明」
「説明が不十分だったこと、大変申し訳ございません」
先に謝る。解決策は後。
「ご変更の際の案内が、わかりにくい形になってしまったこと、私どもの伝え方に問題があったと思います。本日、オプションの解除と、先月分の差額についてご対応させていただきたいと思いますが、いかがでしょうか」
男がゆっくり息を吐いた。
「……それ、できるんですか」
「はい、店長に確認しながら進めさせていただきます」
温度が少し戻った。ソウはバックヤードに向かって「店長、少しよろしいですか」と声をかけた。
対応が落ち着いたのは、三十分後だった。
男は帰り際に「ありがとう、助かりました」と小さく言った。来たときの靴音と、帰るときの靴音が違う。同じ人間なのに、こんなに変わるものかとソウはいつも思う。
「ナイスだな」
カウンターに戻ると、カイが言った。
「普通だよ」
「だから、その普通がすごいって言ってる」
ソウは肩をすくめた。褒められるのがこそばゆいのではなく、カイが本気で言っているところが少し困る。どこか子供みたいな真剣さで人を褒めるのが、カイの変なところの一つだった。
「お疲れ様です」
奥から氷室レイが出てきた。在庫確認を終えて戻ってきたらしい。いつ見てもスーツがきちんとしている。髪が長くてサラサラしている。どう見ても携帯ショップのバイト店員には見えないのだが、レイは毎日それをやってのけている。
「あの、レイさん」
カイが言った。
「なに」
「俺、クレーム対応まだ苦手なんですけど、今度見てもらえますか」
「……私が見本になるのは難しいかもしれません」
「え、なんで? レイさんめっちゃ有能じゃないですか」
「私には人間の感情を予測する精度が、まだ足りていない部分があります」とレイは淡々と言った。「神崎さんの方が適切な手本になります」
ソウはテレビの方に向いていたので、それを聞いて少し驚いた。
「俺ですか」
「ええ」
「……そうですか」
なんとなく照れたので、ソウはまたテレビを見た。特にニュースは続いていなかった。バラエティ番組に変わっている。
問題が起きたのは、午後三時だった。
「ちょっとすみません」
バックヤードからレイの声がした。いつもより少しだけトーンが低い。ソウとカイは顔を見合わせた。
「どうしたんですか」カイが声を上げる。
「在庫のタブレットが棚の奥に落ちてしまいました。棚が壁に完全に密着していて、手が届きません」
「突っ張り棒とかで寄せられないですか」
「試みましたが、無理でした」
カイが「俺、重力で引っ張れますよ」と言いかけるのを、ソウは手で止めた。
「やめとけ。前に小物を浮かせようとしてガラスのショーケース割りかけてたじゃないか」
「あのときは加減を間違えた」
「どうせまた間違える」
カイは反論できずに口を閉じた。ソウはバックヤードへ向かった。
棚は確かに壁際にぴったり置かれていて、奥に落ちたタブレットの角がわずかに見えていた。棚を動かすしかないが、かなり重い。一人では無理だ。
「レイさん、棚を一緒に動かしましょうか」
「……少し待ってください」
ソウは振り返った。
レイが上着のボタンに手をかけていた。
「あ、」
「そちらを向いていてください」
「え、あの、なんで——」
「少し待ってください」
再度、静かに言われた。ソウは反射的に壁の方を向いた。背後で、衣擦れの音がした。ジャケットがどさっと落ちる音。次にブラウスか何かが落ちる音。ベルトが外れる音。
ソウの頭の中がざわついた。
(なんで。なんで脱ぐの。棚を動かすだけじゃないのか。物理的に棚を動かすのに服はなんの関係もないじゃないか。なぜ今、バックヤードで、なぜ俺は壁を向いているのか)
衣擦れがやんだ。
しん、としずまった。
「……」
「壁に近づきます。そのまま待っていてください」
後ろから、レイの声が聞こえた。
何かが、ずぶ、と埋まるような感覚がした——感覚、というより音だった。空気が圧縮されるような、あるいは布が伸びるような、妙な質感の音。
そして壁の向こうから声が聞こえた。
「……ありました。タブレット、確認できます」
「は」
「棚の壁側の隙間を通過しました。取ってきます」
「……」
ソウは壁を向いたまま固まっていた。
「今、壁の中にいるんですか」
「はい」
「……なるほど」
なるほど、ではないのだが。なるほど以外の言葉が出てこなかった。
ずぶ、という音が今度は逆から聞こえた。戻ってきた音だと分かった。
「取れました」
「……お疲れ様です」
「振り向いてください。着替えが終わりました」
ソウはゆっくり振り返った。
レイはスーツに戻っていた。タブレットを片手に持っている。髪が微妙に乱れているが、それ以外は完璧に整っている。足元には折り畳まれた服の束がきれいに置かれていた。
「……スペア、持ってたんですか」
「いつも五セット持参しています」
「……なるほど」
また言ってしまった。ソウは一回深呼吸した。
「あの、俺、ちょっと聞いていいですか」
「なんでしょう」
「あれって、壁に入るたびに服を全部——」
「全脱衣でないと機能しません」
「いや、そうじゃなくて、その、こう、恥ずかしくないんですか」
レイはソウを見た。一拍置いた。
「ご覧になりましたか」
「見てません! 壁向いてました!」
「では問題ありません」
「見た見てないの話じゃないんですが」
「私の仕様なので」とレイは言った。完全に平静だった。どこかの発表会で自分のプレゼンを終えた研究者みたいな顔をしていた。「慣れました」
「俺は慣れてない!」
「慣れます」
「慣れたくない!」
バックヤードのドアが開いて、カイが顔を覗かせた。
「なんか声がすごかったけど、取れましたか」
「取れました」とレイは言った。
「すごい、どうやって」
「私が壁を通過しました」
「あ、そっか。次からもそれでいいじゃないですか」
「そうします」とレイは頷いた。
ソウはカイを見た。カイはソウを見た。
「なんか変じゃない?」とソウは言った。
「何が?」カイは不思議そうに言った。
ソウはため息をついた。
夕方になると、日向ナナが出勤してきた。定刻は五時。ナナが店に飛び込んできたのは五時一分だった。
「間に合った!」
「一分遅刻です」とレイが言った。
「ほぼ間に合いました!」
「一分は一分です」
ナナはレジカウンターに荷物を置きながら「でも今日は時間を止めたのに!」と言ってから、「あ」という顔をした。ソウを見た。
「聞こえましたか」
「聞こえた」
「気のせいです!」
「そんな気のせいあるか」
ナナはわたわたとエプロンをつけ始めた。毎回これだった。ソウは毎回見ている。
「何を止めたんですか、時間を」とレイが聞いた。
「最後の信号が赤だったんです! だから止めて渡ったんですけど……その後なんか走っても走っても信号が全部赤で」
「止めた反動です」とレイは淡々と言った。「使うと歪みます」
「そんなの知りませんでした!」
「知っておいてください」
店のテレビが夕方のニュースに切り替わった。アナウンサーが告げる。
「――本日、東京都内の一部地区で、交差点の信号機が数分間にわたって全方向が赤を示すという不具合が発生しました。警視庁によると原因は調査中で、交通への影響は軽微でしたが、同様の現象が複数の地区で確認されています――」
ソウはテレビを見た。ナナを見た。ナナは天井を見ていた。
「……なんか変じゃない?」
「気のせいです!」
「なんで叫ぶんですか」
「元気があっていいと思って!」
ソウはため息をついた。今日三回目だった。
閉店間際、ソウは一人でカウンターの拭き掃除をしていた。店の中は落ち着いている。カイは帰った。ナナは在庫整理に入っている。レイはまだ残っていて、何かの書類を処理している。
「神崎さん」
呼ばれた。
「なんですか」
「今日のクレーム対応、見ていました」
ソウは拭きながら「あ、そうですか」と答えた。
「うまかったです」
「ありがとうございます」
「どこで覚えたんですか」
ソウは少し考えた。
「覚えたというか……普通に生きてると、感情の読み方は自然に身につくと思います」
レイは少し黙った。書類から目を上げずに「そうですか」と言った。
「レイさんは、難しいですか」
「……私には、人間の感情が発生する理由が、理解できないことがあります」とレイは静かに言った。「なぜ焦るのか、なぜ怒るのか、なぜ嬉しくなるのか。仕組みは分かります。でも、それがどんな感じなのかが」
ソウはカウンターから手を止めた。
「レイさんは、焦らないんですか」
「焦ったことがありません」
「怒ったことは」
「……あまり」
「嬉しかったことは」
レイは少し間を置いた。
「あるかもしれません」とレイは言った。「でも、それが嬉しいなのかどうか、私には確認する方法がないので」
ソウは何か言おうとして、止まった。言葉が見つからなかった。
「……そうですか」
「そうです」
レイは書類に目を戻した。ソウもカウンターを拭き続けた。
店の外では、風が少し出てきていた。ガラス扉が微かに揺れた。
帰り道、ソウはイヤホンをしないで歩いた。
今日は色々あった気がする。クレーム対応があって、レイが壁をすり抜けて、ナナが信号を止めて、レイが嬉しいかどうか分からないと言っていた。
でも何かが引っかかっている。
テレビのニュース。信号機の不具合。複数地区で同時に。
それから先週あったやつ——諏訪湖の水位が上がったやつ。重力場の変動とか言ってた。
ネジも確か、先々週から複数県でって言ってたな。
……なんか変じゃない?
ソウは立ち止まった。
夜の住宅街に風が吹いた。
バラバラだと思っていたものが、頭の中で一本の線になろうとしている感じがした。でも何の線なのかは分からない。
「……気のせいか」
呟いて、また歩き始めた。
次のシフトはあさって。そのときレイは何セット目の服を着てくるんだろうと思って、ソウは自分が笑っていることに気づいた。




