第15話「タブレットと、重力と、おじいさん」
バックヤードの棚は、相変わらず狭い。
高さ二メートルほどの金属棚が三列、壁際にぎっしり並んでいる。在庫のスマートフォン、タブレット端末、充電ケーブルが詰まった段ボール。その最奥の、もっとも取り出しにくい位置に、今日の被害者が鎮座していた。
タブレット端末、一台。薄型ケース入り。棚の一番奥。
「……届かない」
ソウは爪先立ちで腕を伸ばしながら、つぶやいた。あと五センチ。もう五センチあれば届く。
「神崎くん、どうせ無理だよ」
御堂カイが腕を組んで、入口から覗いている。この狭い棚の前には一人分しか立てない。カイは手伝う気がないらしく、壁にもたれながら爪を眺めていた。
「お前が先に取ろうとしたんだろ」
「俺の腕の長さじゃ無理だった。神崎くんも無理そうだな」
「助けろよ」
「重力で引っ張れる、って昨日言いかけたのお前だろ」と、ソウは棚から振り返った。
カイの表情が微妙に動いた。
「……あれはちょっと口が滑っただけ」
「どういう意味だよ、重力で引っ張れるって」
「体重のコントロールができなくてですね」
「関係なくない?」
沈黙。
カイはしばらく宙を見ていたが、やがて「ちょっとだけな」とつぶやいて棚の前に並んだ。ソウが半歩横にずれると、カイが棚の最奥に手を向けた。
ふわっ、と。
タブレットが、浮いた。
正確には「スライドした」という感じだ。棚の奥から、ゆるやかな弧を描いて、カイの手元まで滑ってきた。引力に逆らって動いたわけではなく、引力の向きが少し変わったような、そういう動き方だった。
ソウはしばらく見ていた。
「……なんか変じゃない?」
「俺の特技だ」カイは涼しい顔でタブレットを受け取った。「感謝しろ」
「その特技って、なんなの」
「言ったろ。重力だ」
「重力」
「局所的に、方向を変えられる」カイはタブレットをソウに渡しながら、あっさりと言った。「棚の奥にあるやつを引き寄せるくらいは余裕だ」
余裕、という言葉の出し方が妙に自然だった。長年使い慣れた道具について話すときの、あの感じ。
「……お前、もしかして結構すごい能力持ってる?」
「重力すら俺には従うからな」
「だから自分の体重は操作できないのか」
カイの顔が曇った。
「……それは別の話だ」
ソウは笑いを堪えながらバックヤードを出た。タブレットを棚に戻して、カウンターに戻ると、店内はまだ閑散としていた。月曜日の午後三時。暇な時間帯だ。
テレビが音量を絞ったまま流れている。ソウはふと画面に目をやった。
——諏訪湖周辺で引き続き異常な水位変動が確認されています。気象庁は「重力場の局所的な変動が原因である可能性を排除できない」と発表し——
「……気のせいか」
ソウは視線を外した。
扉が開いたのは、三時半を少し過ぎた頃だった。
店内に入ってきたのは、老人だった。
七十代か、あるいはもう少し上か。小柄で、白髪で、少しだけ背中が丸い。くたびれたベージュのジャケットに、薄い色のズボン。手に持っているのは、画面が割れかけた古いスマートフォン。
ソウが「いらっしゃいませ」と言うと、老人はゆっくりと顔を上げた。
目が、妙だった。
老人の目は明るかった。視力が悪そうな、細められた目だが、その奥に何か透明なものがある。水底みたいな、なんとも言えない静けさ。初対面の客の目をこんなに観察したのは、ソウには記憶がなかった。
「すみませんな」老人は穏やかな声で言った。「スマホの、使い方を聞きたくて」
「もちろんです。こちらへどうぞ」
ソウは相談用のカウンターへ案内した。老人は椅子に腰を下ろすと、古いスマートフォンをテーブルに置いた。画面はひびが入り、ベゼルは黒く汚れている。かなり長く使っていると見えた。
「このスマホ、もう古いですよね」老人は言った。「そろそろ換え時ですかな」
「拝見しますね」ソウはスマートフォンを手に取った。機種は七年前のモデルだ。バッテリーも相当劣化しているはずだ。「端末としては、かなり老化が進んでいます。基本的な動作は可能ですが、最新のアプリには対応できなくなってきています」
「老化」老人は静かに繰り返した。「なるほど、老化ね」
「えっと、端末の寿命という意味で……」
「わかってますよ」老人はくすりと笑った。「人間みたいですな」
「そうですね」ソウは少し笑いながら答えた。「一応、データのバックアップを取れば、機種変更でほぼ引き継げますよ」
「引き継げる、ね」老人はスマートフォンをじっと見ていた。「記憶も引き継げますかな」
「写真とか、連絡先とか、アプリとか——」
「そういうことじゃなくて」老人は静かに言った。「ここに入っている、思い出みたいなもの。そういうものも、ちゃんと向こうに移りますかな」
ソウは少し考えた。
「データとして残っているものは、基本的には全部移ります。写真も、メモも、LINEの履歴も」
「なるほど」老人はまた静かに繰り返した。「じゃあ、大丈夫ですな」
老人はそれ以上何も言わなかった。ソウは端末のプランについて説明を続けたが、老人はほとんど画面を見ていなかった。どこか別のところを見ていた。店の奥のほうを、ぼんやりと。
ソウが説明を終えると、老人は「今日はとりあえず話だけ聞けてよかったです」と言って立ち上がった。
「また来ますよ」
「お待ちしてます」
老人は会釈して、ゆっくりと扉のほうへ歩いた。
ソウはその後ろ姿をなんとなく見送った。
ドアが閉まった瞬間、なぜか胸の奥に、薄い引っかかりが残った。
なんだろう、と思った。変な客だったわけじゃない。むしろ穏やかで感じのいい老人だった。それでも、何かがひっかかっていた。
「……気のせいか」
ソウはカウンターを拭き始めた。
「今日の常連さん、初めて見たな」
夕方の閉店作業中、ソウはレイの隣で在庫の確認をしながら言った。
氷室レイは端末リストをチェックしながら「いつ頃来ましたか」と聞いた。
「三時半くらい。白髪のおじいさん。古いスマホを持って来て、使い方を聞いてった」
「……ああ」
レイの手が、わずかに止まった。
「知ってる人?」
「いいえ」レイはすぐにリストに目を戻した。「そういう方は多いですから」
「そうだけど……なんか独特の雰囲気あってさ」ソウは棚の端を拭きながら言った。「目が、なんか不思議だった。静かというか、深いというか」
レイは何も言わなかった。
「また来るって言ってたよ」
「……そうですか」
それだけだった。でもソウには、レイの横顔が一瞬だけ、ほんのわずかだけ緊張したように見えた。錯覚かもしれない。レイの表情はいつも読みにくい。
そのとき、バックヤードのほうから声が聞こえた。
「あっ、レイさんちょっといいですか! 棚の奥にまた端末が落ちてて——」
ナナだった。
レイはリストをカウンターに置いて、「少し待ってください」と言った。
ソウは反射的に棚の向こうを見た。
そういえば、カイが今日の昼に同じことを言っていた。「棚の奥に端末が落ちてて」。カイはそのとき重力を使って引き寄せた。
レイが使う方法は、もっとダイレクトだ。
バックヤードの扉が閉まった。
三秒後、どさっ、という音がした。
布の擦れる音。何かがまとめて床に落ちる音。
「……ああ」
ソウは天井を見た。
レイの口癖を、ソウはもうほぼ完璧に学習していた。「少し待ってください」と言ったあとに来るのは、脱衣の音だ。壁すり抜けの準備。服がまとめて落ちる、あの音。
頭の中が先に「まずい」と判断した。
「ちょっと待ってレイさん、カイが昼に——」
ドアを開けようとした瞬間、ソウは足を止めた。
バックヤードの薄い壁を、スーツの背中がずぶりと沈んでいくのが見えた。正確には見えていないのだが、音と気配でわかった。完全に壁の中に入っていく感覚を、ソウはもう身体で覚えていた。
ナナの声が向こうから聞こえた。「あっ、レイさん、すごー……」
壁の向こうから、ものを取り上げる音。
そして壁を逆向きに抜ける音。
ソウはドアノブに手をかけたまま、動けなかった。
「……入っていいのかわからない」
「どうぞ」
扉の向こうからレイの声がした。ソウは目を閉じてドアを開けた。
バックヤードにはレイとナナがいた。ナナは回収した端末を両手で持って立っている。レイはすでに服を着直していた。完璧なスーツ姿。ジャケットのボタンが整然と並んでいる。
ソウは深呼吸した。
「……レイさん、今脱いだの見えてたんだけど」
「ご覧になりましたか」
「いや、ちゃんと見えてないけど気配が——」
「これが私の仕様なので」
「仕様って言えば全部済む話じゃないからな」
ナナがにこにこしている。「でもレイさん速いですよね、着替えるの」
「練習しましたから」
「練習したのか」ソウは頭を抱えた。「あとカイが昼に重力で引き寄せたから、そっちで対応できたんだけど」
「知りませんでした」
「事前に言えよ」
「連携が取れていませんでしたね」レイは落ち着いた声で言った。「以後気をつけます」
「俺の動揺には気を遣ってくれないの」
「神崎くんは丈夫そうですから」
ソウは深く息を吸って、棚の前にしゃがみこんだ。もう慣れろ、という話でもないし、慣れるべき事態でもない。ただ、レイが悪意を持っていないのはわかっている。これが仕様だと、本気でそう思っている。
「スペアの服、今日何セット目?」
「二セット目です」
「今日もう一回あるの」
「わかりません」レイは静かに答えた。「棚卸しがありますから」
「棚卸しで壁が関係するのか」
「在庫が壁際に詰まっている場合、すり抜けで確認すると効率的です」
「効率の話してる場合じゃない」
ナナが端末を棚に戻しながら「でもレイさんがいると在庫確認すごく早いんですよ」と言った。「この前、棚の裏に三台隠れてたの全部見つけてくれたし」
「隠れてた?」
「前のバイトの人が間違えて奥に詰め込んだやつ」ナナは続けた。「普通に探したら見つからないんですけど、レイさんが壁の中を一周したら全部出てきて」
「それはすごいけど」ソウはレイを見た。「仕事に使いすぎ」
「有効活用です」
「お前の感覚は絶対おかしい」
レイはかすかに口角を動かした。笑った、のかもしれない。よくわからない。
閉店後。
スタッフ全員が帰り支度をするバックヤードで、ミオが複製した豚汁を配っていた。
「今日は寒かったでしょ。温まって帰って」
小鍋から一人ずつ紙コップに注ぎながら、ミオは言った。冷えた夕方の空気の中で、湯気が白く立ち上っている。
「ミオさん、これ複製?」
「出汁から取ったやつを複製したの。だから本物と同じ味よ」
「明日の朝には消えるんだ」
「消えるけど、今は本物だから安心して」ミオはソウに紙コップを渡しながら言った。「不思議でしょ」
ソウは豚汁を一口飲んだ。大根と豆腐と油揚げと、ちゃんと出汁の味がした。確かに本物だ。
テルが床に直接座って、紙コップを両手で包んでいた。
「今日もいい一日だったな」
「何もなかったじゃないか」ソウは言った。
「何もないのが一番いい」テルは目を細めた。「まあ、なるようになる」
「タブレットを重力で引き寄せたし、壁もすり抜けたけど」
「それが日常じゃん」
日常、という言葉の重量が、今日は少し違って聞こえた。ソウはカイを見た。カイはミオの豚汁をすすりながら、不満そうに腹を押さえていた。
「複製した豚汁って、カロリーあるの」
「本物と同じだから当然あるわよ」ミオは笑った。
「なんで……」カイは天井を見た。「重力は操れるのに、自分の体重だけ操れないんだ俺は……」
「それはそういう仕様だから仕方ないじゃない」ミオは言った。「みんな、自分の一番大事なところだけは、どうにもならないものよ」
しんとした。
誰も何も言わなかった。豚汁の湯気だけが静かに消えていった。
ソウはその沈黙の中で、今日の午後の老人のことを思い出した。
このスマホ、もう古いですよね。
記憶も引き継げますかな。
なんで記憶のことを聞いたんだろう。データの話をしたはずなのに、老人の頭の中では別の何かを考えていた気がした。
「ねえ、ミオさん」
「なに?」
「今日、変なおじいさんが来たんだよね」ソウは言った。「古いスマホを持って来て、使い方を聞いてった。また来るって言ってたけど」
ミオの手が、小鍋の柄の上で静止した。
「おじいさん」
「うん。目が、なんか——なんか深くてさ。うまく言えないけど」
ミオはソウを見た。ソウと目が合った。
ミオの瞳は、いつもより少しだけ、何かを言いたそうに見えた。でも、彼女は微笑んだだけだった。
「そう。また来るの、楽しみね」
「……うん」
楽しみ、という言葉の響きが、どこか違った。「楽しみ」ではなく「知っている」という感じに近かった。
ソウはもう一口豚汁を飲んだ。
温かかった。
テレビは今日もニュースを流していた。音量が低くて、ほとんど聞こえなかった。ソウの耳に、断片だけが届いた。
——諏訪湖周辺に続き、本日、長野県内の複数地点で重力測定値の——
「……なんか最近、ニュースが変じゃない?」
独り言のような声だった。
誰も答えなかった。
レイはスペアの服を畳んでいた。カイは腹を押さえていた。テルは目を閉じていた。ミオは小鍋を丁寧に洗っていた。ナナはカバンの中を漁っていた。
ソウは紙コップの底を見た。
豚汁は、もう少しだけ残っていた。
翌週、月曜日。
三時半を少し過ぎた頃。
扉が開いた。
ソウはカウンターから顔を上げた。
白髪の老人が入ってきた。くたびれたベージュのジャケット。薄い色のズボン。手には同じ古いスマートフォン。
老人はソウを見て、静かに微笑んだ。
「また来ましたよ」
「お待ちしてました」
ソウはそう言いながら、老人の目を見た。
先週と同じ目だった。水底みたいな静けさ。でも今日は、その奥に何か別のものがあるような気がした。何かを確認しに来たような、そういう目。
「今日はちゃんと決めてきましたよ」老人は言った。「機種変更、お願いできますかな」
「もちろんです。こちらへどうぞ」
ソウは案内しながら、なんとなく店の奥を見た。
レイがカウンターの端から、こちらをちらりと見ていた。
目が合うと、すぐに視線を外した。
ソウはまた引っかかった。
なんだろう。この感じ。
(次回、謎のおじいさんがソウに、奇妙な一言を残していく)




