第16話「おじいさんと、古い世界の話」
謎のおじいさんは、翌週も来た。
火曜日の午後。曇り空のせいで店内がやけに薄暗く感じる日だった。自動ドアが開いた瞬間、ソウはカウンター越しに顔を上げて、ああまた来た、と思った。
「いらっしゃいませ」
声をかけると、老人はゆっくりとソウの方へ歩いてきた。白髪。小柄。水底みたいな目。先週と全く同じ格好だった。
「また来てしまいましたよ」
老人は穏やかに言った。謝るでも恥ずかしがるでもなく、ただ事実を告げるような声だった。
「全然大丈夫ですよ。前回のスマートフォン、その後どうですか?」
「おかげさまで。写真が撮れました」
「よかった。何か撮られましたか?」
「空です」
老人は短く答えた。ソウは少し間を置いてから、「いい写真が撮れたんですね」と返した。なんとなく、それ以上聞かなかった。
老人は今日もカウンターの前の椅子に腰を下ろした。急いでいる様子は微塵もない。
「今日はどんなご用件でしょう」
「特にはないんです」
ソウは少し困った。携帯ショップに用なく来る客は、たいてい時間を持て余したお年寄りか、冷暖房目当ての人か、道を間違えた人か、のどれかだ。このおじいさんは今のところどれにも見えなかった。
「スマートフォンの使い方で、何かわからないことがあればお気軽に」
「ありがとう。では少し座らせてもらっても?」
「もちろんです」
老人は静かに微笑んで、テーブルに自分のスマートフォンを置いた。ソウはその隣に腰掛けた。待機中のフロアで、他に客はいなかった。
バックヤードのドアが少し開いていて、テレビの音が漏れてきた。
「――北海道の釧路沖で、観測史上初となる深海魚の大量漂着が確認されました。専門家は海流の変化を原因として挙げていますが――」
ソウはちらりと聞いたが、深海魚か、と思っただけだった。
老人はテーブルの上のスマートフォンをゆっくりと手に取った。
「これは不思議なものですね」
「スマートフォンですか?」
「この小さな板の中に、いろんなものが入っている」
「そうですね。写真も動画も、調べものも全部」
「昔のことも入っていますか」
ソウは少し考えた。
「写真や動画として保存してあれば。あとはメモとか、日記アプリとか」
「入れれば入る」
「はい」
「でも、入れなかったものは残らない」
老人はそう言って、スマートフォンを静かにテーブルに置いた。
ソウは何か答えようとして、うまい言葉が見つからなかった。「そうですね」と言いかけて、なんとなく止まった。
「……大切な何か、残せなかったものがあるんですか」
聞いてから、立ち入りすぎたかもしれないと思った。しかし老人は気にした様子もなく、窓の方へ目を向けた。
「残そうと思ったときには、もうずいぶん経っていてね」
「それは」
「人の話じゃないんですがね」
老人は薄く笑った。
ソウはその笑い方が少しだけ寂しそうに見えて、でも悲しいというわけでもなくて、どこかに分類できないまま、ただ黙って隣に座っていた。
バックヤードのドアが開いて、レイが書類を抱えて出てきた。
ソウと老人を見て、一瞬足を止めた。
「お客様ですか」
「いえ、休憩させていただいているだけです」
老人が言うと、レイはわずかに首を傾けた。一秒か二秒、老人の顔を見ていた。ソウはその間、レイの横顔が先週と同じように微妙に固まったような気がして、気のせいか、と思った。
「そうですか」
レイは視線を外して、カウンターの方へ歩いていった。書類をカウンターに置いて、なにか数字を確認し始めた。
老人はレイの後ろ姿をしばらく見ていた。
「あの方は、ここに長いんですか」
「レイさんですか。私が来たときにはもういましたね。レイさんいつからいるんでしたっけ」
ソウはカウンターの方へ声をかけた。
「三年前から」
振り返らずにレイが答えた。
「三年ですか」
老人はそう言って、また窓の方を見た。
「長いですね」
独り言のような声だった。
昼過ぎにナナが出勤してきた。
「おはようございます! 神崎さん、今日暇そうですね!」
「暇でも言わなくていい」
「あ、お客様、いらっしゃいませ!」
ナナはニコニコしながら老人に頭を下げた。老人はゆったりと会釈した。
「賑やかですね」
「そうなんです、いつもこんな感じで! あ、私、日向ナナといいます。よろしくお願いします!」
「これはご丁寧に。岩瀬といいます」
「岩瀬さん! 常連さんですか?」
「先週も来ていただいて」
ソウが補足すると、ナナは目を輝かせた。
「じゃあ次来たときは私が対応します! スマホのことなら任せてください! 一応、スマホは得意なので!」
「頼もしいですね」
岩瀬は穏やかに笑った。ナナの元気な声に当てられたのか、少しだけ表情が柔らかくなったように見えた。
ソウはそれを見て、ナナはやっぱり人の表情を解凍するのが上手いな、と思った。自覚なしに。
夕方に近い時間、カイとテルのシフトが始まった。
カイはバックヤードのロッカーで着替えながら大声を出した。
「今日は俺がフロアメインな、ソウ。なんか女の客が多いって聞いたぞ」
「聞いてないし別に関係ないし」
「重力をな、うまいこと俺の方に引き寄せると、自然と視線が集まるんだよ。わかる?」
「わからない」
「繊細すぎてお前には無理な話か」
テルはカイの隣でエプロンをつけながら欠伸をした。
「カイ、また服のボタン掛け違えてる」
「え」
「三番目と四番目」
「……なんで言ってくれなかったんだよ」
「今言った」
カイは鏡の前でボタンをかけ直した。テルはまた欠伸をした。ソウはその光景を見てから、フロアに戻った。
岩瀬はまだ椅子に座っていた。
ソウが戻ると、老人はスマートフォンを見ていた。先週撮ったという空の写真だろうか、と思った。
「まだいらっしゃったんですね」
「もう少しだけ」
岩瀬は静かに言った。
「ここにいると、落ち着く」
「ありがとうございます」
「不思議ですよ。携帯屋さんで落ち着くなんて、私くらいじゃないですか」
「そんなことないですよ、常連さんも結構いますし」
「そうかな」
岩瀬はスマートフォンの画面を消して、テーブルの上に置いた。
「神崎さん」
「はい」
「この仕事、楽しいですか」
ソウは少し考えた。
「楽しいですよ。面白い人が多くて」
「面白い?」
「なんか変な人が多いんですよね、うちのバイト先」
思わず正直に言ってから、でも岩瀬はそれを聞いて目を細めた。不快そうではなかった。むしろどこかおかしそうに、口元を少し緩めた。
「変な人」
「あ、悪い意味じゃなくて。なんか、一般的な常識みたいなものにとらわれてないっていうか。普通と違うところがあるけど、なんか信頼できるというか」
「それはいいことですね」
「そうですかね」
「変なままでいられる場所は、貴重ですよ」
岩瀬はそう言って、また窓の方を見た。外では夕日が薄い雲に遮られて、なんとなく白っぽい光が差し込んでいた。
閉店一時間前、ミオが裏口から入ってきた。
エプロンをつけながらフロアに出てきて、岩瀬を見た瞬間、ミオも足を止めた。
ソウはその反応が気になった。レイと同じだ、と思った。一瞬止まる。一秒か二秒。それから何事もなかったように動き始める。
「いらっしゃいませ」
ミオは柔らかく微笑んで、岩瀬に会釈した。
岩瀬はミオを見て、少しだけ何か言いたそうな顔をした。しかし何も言わなかった。
ミオもそれ以上近づかなかった。
ソウはその二人の間に何か流れているものを感じて、でもそれが何なのかまったくわからなくて、なんか変じゃない? と思ったが、口には出さなかった。
「そろそろ行きますよ」
閉店三十分前、岩瀬が席を立った。
「今日もありがとうございました」
「こちらこそ、長々とお邪魔しました」
岩瀬はゆっくりと出口の方へ歩き始めた。
ソウは見送りながら、来週また来るかな、と思った。来るんだろうな、という予感があった。
岩瀬は自動ドアの手前で一度立ち止まった。振り返って、ソウを見た。
「神崎さん」
「はい」
「最近のニュース、見ていますか」
唐突な問いだった。
「あ、まあ、なんとなく」
「深海魚が浮いたり、重力が変だったり、島が消えたり」
「あー、なんか最近ちょっと変なの多いですよね」
「変だと思いますか」
「気のせいかもしれないですけど、なんか繋がってる気がしなくもないというか」
ソウは曖昧に言った。
岩瀬はそれを聞いて、また目を細めた。今度の表情は、おかしそうというよりも、何か確かめるような顔に見えた。
「そうですか」
「気のせいですかね」
「どうでしょう」
岩瀬はそれだけ言って、自動ドアを抜けて外に出た。
ソウはしばらくドアの方を見ていた。
背中が小さくなって、曲がり角を曲がって、見えなくなった。
「ソウ、客帰った?」
カイがバックヤードから顔を出した。
「うん」
「あのじじい、先週もいたな」
「常連さんになるかも」
「なんか変な目してるよな。底の方に何かいそうな」
珍しく鋭いことを言うな、とソウは思った。
「カイって結構人のこと見てるよね」
「は? 俺はナルシストだから自分しか見てない」
「さっきと矛盾してる」
「細かいことを言うな」
カイはそう言って引っ込んだ。
「ソウくん」
閉店作業の途中、ミオが棚の整理をしながら声をかけてきた。
「なんですか」
「岩瀬さん、どんなお話してた?」
「別に大した話じゃないですよ。スマートフォンのこととか、空の写真とか、あとニュースの話とか」
「ニュース」
「はい。深海魚とか、重力の話とか」
ミオは少し間を置いた。
「そう」
それだけ言って、また棚の整理に戻った。
ソウはミオの横顔を見た。いつもの柔らかい表情だったが、目だけが少しだけ遠いところを見ているような気がした。
「ミオさん、岩瀬さんのこと知ってます?」
「どうして?」
「なんか、見た瞬間に止まったから。レイさんも同じだったし」
ミオは手を止めた。振り返らないまま、少しだけ笑った気配がした。
「よく気づくね、ソウくんは」
「気のせいですか」
「さあ」
ミオはそう言って、また手を動かした。
ソウはそれ以上聞けなかった。
完全に閉店して、みんなが帰った後。
ソウは最後に店内の照明を落として、出口のシャッターを半分まで降ろした。
しゃがんで鍵をかけようとして、ふと、岩瀬の言葉を思い出した。
変なままでいられる場所は、貴重ですよ。
なんでそんなことを言ったんだろう、とソウは思った。
携帯ショップのバイトに来て、空の写真を撮って、スマートフォンの中に入れなかったものは残らないと言って、ニュースは見ているかと聞いて。
なんか変じゃない?
ソウはシャッターの鍵をかけて立ち上がった。夜風が少し冷たかった。
空を見上げたら、雲が多くて星がほとんど見えなかった。
一個だけ、雲の切れ目に光っているのが見えた。
ソウはそれを見て、なんとなく、またあのおじいさんは来週も来るだろうな、と思った。
そしてもう一つ、これは完全に気のせいだと思いながらも、思った。
あのおじいさん、うちのバイト仲間たちのこと、なんか知ってるんじゃないか。
風が吹いて、雲が動いた。
星が、見えなくなった。




