第17話「弁当が消えると、困る」
水曜日の昼過ぎ、店内には客が一人もいなかった。
ソウはカウンターに頬杖をついて、テレビの音を半分だけ聞いていた。
「——北海道・十勝地方で、昨夜から牛が一頭も鳴かなくなっているという奇妙な現象が報告されています。農家によると牛自体は元気で、ただ『声が出ない』状態が続いているとのこと——」
…なんか変じゃない?
牛が鳴かない。理由もなく。
まあ、牛の気分もあるか。ソウはチャンネルが切り替わるのをぼんやり見届けて、目線をカウンターの端まで転がした。
ミオが弁当を配っていた。
大きな風呂敷包みからタッパーを次々と取り出して、ナナに、カイに、テルに、レイに。それからソウの前にもことんと置いて「はい」と言った。
「ありがとうございます」
「今日は豚の角煮にした。柔らかく炊けたと思う」
ソウはタッパーの蓋を開けた。湯気が立って、醤油と砂糖の甘い匂いがした。箸を入れると、肉がするっと割れた。
本物の弁当だった。複製だとしても。
「うまい」
「それ聞けたら、もう充分」
ミオは自分の分のタッパーを開けながら、静かに笑った。
……
昼休みが終わるころ、ナナが戻ってきた。
「ただいまもどりました!」
「三秒遅い」
カイが壁の時計を指差した。ナナは時計をまじまじと見てから「そんなはずない、止めたのに」と呟いた。
「お前の時間停止、精度落ちてるんじゃないか」
「落ちてない! ちゃんと五分止めた!」
「で、帰ってきたら三秒遅れてる」
「……誤差です」
「誤差じゃない」
ソウはその会話を横で聞きながら、三秒というのが妙に具体的だと思った。誤差にしては、毎回同じ方向にズレている気がする。ナナはいつも「ギリギリ間に合った」と言うが、間に合ったことは一度もない。
…気のせいか。
レイが書類の山をカウンターに置いた。午後の在庫確認票だった。
「ソウさん、照合をお願いできますか」
「俺ですか」
「カイは足し算が速くて間違えます。テルは途中で寝ます」
「正確な評価だな」とカイが言った。テルは「否定しない」と目を閉じたまま言った。
ソウは票を受け取った。
レイが隣に立って、棚の奥の番号を読み上げ始めた。声が低くて、読み上げのテンポが均一で、聞いていると眠くなってくるような一定さだった。
「……C-12、数量三、異常なし」
「確認」
「C-13、数量一、異常なし」
「確認」
「C-14——」
レイが急に黙った。
ソウは顔を上げた。
「どうしました」
「棚の奥に、在庫が一つ落ちています」
レイは棚の一番下の段をしゃがんで覗き込んでいた。手が届かないくらい奥まったところに、箱が一つ転がっているのが見えた。
カイが「引っ張ればいいだろ」と重力でどうにかしようとしたが、ソウが「この前やったら棚ごと揺れた」と止めた。
「突っ張り棒は」とソウが言った。
「先週ナナが折りました」とレイが言った。
「折ってない! 変形させただけ!」
「使えなければ同じです」
沈黙が落ちた。
ミオが「あら」と言いながらエプロンを外した。
「複製しましょうか」
「何を」とソウが聞いた。
「突っ張り棒を」
「あ、それいいじゃないですか」
ミオはバックヤードの隅に立てかけてあった、変形した突っ張り棒を持ってきた。手のひらでそっと包むように持って、目を細めた。
少しの間があって、もう一本が現れた。
音もなく。まるで影がそのまま実体を持ったように。
ソウはまだ慣れない。どれだけ見ても、「あ、また出てきた」という感覚より先に「え、出てきた」という感覚が来る。
「24時間で消えるので、今日中に使ってください」
「は、はい」
ソウは複製された突っ張り棒を受け取った。本物と区別がつかなかった。重さも、冷たさも、表面の塗装の剥げ具合まで同じだった。
棚の奥の箱は、30秒で回収できた。
……
午後の後半、霧島テルがじゃんけんを始めた。
相手はナナだった。
「なんで急に」
「暇だから」
「暇だからって」
「一回だけ」
ナナは半笑いのまま手を出した。グーとパーが正面から当たって、テルが勝った。
「また勝った」
「まあ、なるようになる」
「なるようになるって言葉、勝った人が言う言葉じゃないでしょ」
テルは何も言わなかった。ただ小さく欠伸をして、カウンターの端に頬を乗せた。
ソウはそれを横目で見ながら、伝票を整理していた。
テルとじゃんけんをすると必ず負ける。これはもう確認済みだった。負けたことがない、という意味ではなく、ソウが挑戦した回数は七回で、七回全部負けていた。偶然の域を超えている気もするが、じゃんけんはもともと運なので、証明ができない。
…気のせいか。
テルが片目だけ開いてソウを見た。
「ソウも一回やる?」
「やらない」
「なんで」
「どうせ負けるから」
テルは「正解」と言って目を閉じた。
……
閉店一時間前、ミオが複製した弁当箱の回収を始めた。
バックヤードに入ったソウは、ミオがタッパーを一つ一つ手のひらに乗せて確認しているのを見た。食べ終わったあとのタッパーで、もう中身はないのに、どれも丁寧に持って、何かを確かめるように触れていた。
「何やってるんですか」
「確認」
「確認って、何を」
ミオは少し考えてから言った。
「消える前に、全部回収しておかないといけないので」
「消えたら困るんですか。タッパーが」
「タッパー自体は別にいい」
ミオは五つ目のタッパーをエコバッグの中に入れた。
「でも、消える場所に気をつけないと。誰かのカバンの中で消えたら、穴が開く」
「……穴が」
「開く」
ソウはその言葉を飲み込んだ。
複製したものが消える、というのは、ただ「なくなる」のではなくて、「あった場所から消える」ということらしかった。だから複製した食べ物は食べてしまえば問題ないが、食べ終わった容器はちゃんと回収しないといけない。誰かが持ち帰ってしまったら、翌日の同じ時刻に唐突に穴が開く。
「今まで事故ったことは」
「一度だけ。随分昔に、複製した鍋が——まあ、大変だった」
「鍋」
「鍋」
ソウは聞かなかった。いくつかの可能性が頭をよぎったが、どれも想像したくない方向に転がりそうだったので、止めた。
ミオはエコバッグの口を結んで、ソウを見た。
「こういうのも、全部込みで引き受けてる」
「引き受ける、というか」
「まあ、習慣かな」
ミオは微笑んだ。母親が「今日のご飯何食べたい」と聞くときの顔に、少し似ていた。違うのは、ミオの笑い方がどこか老いていないことだった。年齢よりも幼い部分と、年齢よりもずっと古い部分が、同じ顔の中に同時にあった。
……
閉店作業が終わった。
ソウが後片付けをしていると、カイが「そういや」と声をかけてきた。
「ミオさんって、いつからここにいるんだろ」
「さあ。俺が来る前からいるのは知ってます」
「俺が来る前からもいた」
カイは首を傾けて、遠くの棚を見た。
「なんか、ずっといる感じがする。最初からいたみたいな」
「最初って、いつの最初ですか」
「……わかんない」
カイはそれ以上言わなかった。
ソウも何も言わなかった。
バックヤードのテレビが点いたままで、ニュースが流れていた。
「——新潟県上越市で、昨夜から原因不明の現象が相次いでいます。住民によると、いつもと変わらず起床・出勤したにもかかわらず、一部の住民が『昨日の夕方以降の記憶がない』と訴えており、市の保健センターに問い合わせが——」
ソウは手を止めた。
記憶がない。昨日の夕方以降。
一部の住民が。
…なんか変じゃない?
テレビのリポーターは「専門家によると心理的な要因も考えられ」と続けた。ソウはしばらく画面を見ていたが、「気のせいか」と思って手を動かした。
……
退勤後、ソウとナナが一緒に店を出た。
夜の空気は少し冷えていた。
「今日の角煮、おいしかったですね」
「ほんとに」
「ミオさんって料理うまいですよね。複製なのに」
「複製だから、じゃないですか。本物と同じだから」
「……そうか、そうですね」
ナナは少し考えてから「でもそれって変ですね」と言った。
「どこが」
「だって、本物と全く同じものって、もう本物じゃないですか。なのに24時間で消える」
「……」
「複製って、本物と何が違うんだろ」
ソウにはわからなかった。
ナナはそれ以上掘り下げなかった。「まあいっか」と言って、コンビニの袋をもう一方の手に持ち直した。
「あ、そういえば」
「何」
「ミオさんの弁当箱、一個足りなかったんですよ。帰り際にミオさんが探してて」
「誰かが持って帰ったんですか」
「カイさんが間違えてカバンに入れてたみたいで、ミオさんが大慌てで取り戻してた」
ソウは、さっきバックヤードでミオが言っていた言葉を思い出した。
消える場所に気をつけないと。誰かのカバンの中で消えたら、穴が開く。
「ちゃんと回収できたんですか」
「できてた。カイさんがカバンの口を開けたら、ミオさんがすごい顔で覗き込んでて」
「すごい顔」
「普段のミオさんからは想像できない顔。そんなに焦るんだって」
ソウは少し考えた。
ミオは何があっても動じないように見える。弁当を配るのも、複製するのも、いつでも余裕のある顔でやっている。でも、消える場所を管理することだけは焦る。
誰かのカバンの中で消えたら困るから。
それは穴が開くから困るのか。それとも、カバンの持ち主に傷がつくのが嫌だから困るのか。
ソウにはどちらかわからなかったが、どちらでも同じことかもしれないと思った。
「じゃあお疲れ様でした」
ナナが角を曲がった。走るように早足だったのは、終電の時間を気にしているからだった。
ソウは一人になった。
駅までの道を歩きながら、今日の出来事を頭の中で整理した。突っ張り棒が一本増えた。タッパーが24時間で消える。牛が鳴かない。新潟で記憶がなくなった人がいる。
バラバラな情報が並んでいる。
繋がってはいない。たぶん。
…気のせいか。
ソウはポケットに手を入れて、少し速足になった。
夜風の中、どこかで何かが消えているとしても、今夜の角煮はうまかった。それだけは確かだった。
翌朝、ソウが出勤すると、レイがカウンターの前で腕を組んで立っていた。
「おはようございます」
「おはようございます。ソウさん、少し早いですね」
「五分早いだけです」
「習慣がつきましたね」
レイは視線を窓の外に向けていた。外は曇りで、空の色が白と灰色の中間だった。
ソウはユニフォームに着替えながら「何か見てるんですか」と聞いた。
「空」
「何かありますか」
「……少し、気になることがあります」
レイは窓から目を離さなかった。
ソウはその横顔を見た。
いつもと同じ顔だった。でも、どこかいつもと違う何かが、その顔の中にあった。何が違うのか、うまく言葉にできなかった。
「何が気になるんですか」
「——少し待ってください」
そう言ってからレイは口を閉じた。
もうすぐナナが来る時間だった。




