第18話「ミオさん、いつからここにいるんですか」
木曜日の開店直後、バックヤードはまだ人の少ない時間だった。
ソウが制服のネームプレートをつけながらロッカーの前に立っていると、隣でカイが鏡に向かって髪を整えていた。手ぐしで前髪を上げては戻し、上げては戻している。
「それ、朝からずっとやってる?」
ソウが聞くと、カイは振り向かずに答えた。
「大事なことだから」
「そう」
ソウはネームプレートを一回クリップして、とりあえずそれ以上突っ込むのをやめた。カイのナルシズムはもう驚かない。驚いていたら体がもたない。
棚の下段、昨日ミオが回収した複製容器の場所を確認する。何もなかった。きれいになくなっていた。ミオは毎日律儀に全部回収している。二十四時間以内に。
昨日の会話がまだ頭の端に引っかかっていた。
放置すれば周囲に穴が開く。
穴。どんな穴なのか、ソウはちゃんと聞けなかった。ミオが「大丈夫、今まで失敗したことないから」と笑ったので、そこで止まってしまった。
…なんか変じゃない?という感覚は確かにあったが、「なんか変」というフレーズは最近使いすぎて擦り切れてきている気がする。
開店から三十分で、ソウはカウンターに立っていた。
木曜午前は比較的静かだ。主婦層と、定年後らしいおじさんが二、三人来る程度。ソウは暇な時間に端末の展示品を磨いている。
バックヤードのドアが静かに開いて、ミオが出てきた。
いつも通りの柔らかい動作で、いつも通りの落ち着いた顔をしている。エプロンの胸ポケットにタオルを一枚挟んで、カウンター内を整えながら奥の棚へ向かっていく。
「ミオさん、おはようございます」
「おはよう、ソウくん」
短い挨拶。それだけ。
ソウはしばらく端末を磨きながら、ミオの背中を見ていた。
カイが昨日言ったことを思い出す。
ミオはいつからここにいるのか。
ソウは問いかけを投げたまま、カイが答えなかった理由を考えていた。知らなかったのか。それとも、聞いてはいけないと思っていたのか。
どちらにしても、誰も答えを持っていなかった。
午前十時半。客足が一時止まり、店内に空白ができた。
ミオが棚の整理を終えてカウンターに戻ってきたタイミングで、ソウは何気なく口を開いた。
「ミオさん、ここって何年目ですか」
聞いてから、少し後悔した。直接すぎたかもしれない。
しかしミオは特に表情を変えず、指先で端末の充電ケーブルを整えながら答えた。
「ずっとかな」
「ずっと」
「うん、ずっと」
ミオは微笑んだ。穏やかで、少し古い笑顔だった。
「店長が来る前から?」
「そうかも」
「それって何年前——」
「ソウくんはね」
ミオがソウの方を向いた。
「よく気になるでしょう。色々と」
その問いかけには少し重みがあった。責めているわけではない。ただ、何かを確認しているような、静かな目だった。
「まあ、そうですね。でも大体『気のせいか』で終わるので」
「それでいいと思う」ミオはまた前を向いた。「今は」
今は、という言葉の温度をソウはうまく掴めなかった。「今は気のせいでいい」という意味か、「今はそれ以上聞かなくていい」という意味か。
どちらにも取れた。
レジカウンターの奥のテレビが音を立てた。
——本日の気象情報の前に、国土地理院からの発表です。富士山山頂部の高さが改めて計測され、前回の数値より約二メートル低下していることが確認されました。専門家はこの変動について——
「富士山また?」
ソウがつぶやくと、ミオは画面を見たまま静かに「そう」と言った。
表情は変わらなかった。
昼過ぎにナナが出勤してきた。
駆け込んでくるように自動ドアが開いて、ナナが走り込んできた。ネームプレートをポケットに入れたまま、息を切らせながらタイムカードに向かっている。
「間に合った!」
「三十秒遅い」
ソウがタイムカードを確認しながら言うと、ナナは「えっ」と声を上げた。
「絶対止めた! 絶対止めたのに!」
「三十秒遅刻です」
「なんで!」
ソウには理由の察しがついていたが、「時間を止めたからといって自分は正確に三十秒分遅れる」という構造を説明できる語彙をソウは持っていないので、何も言わなかった。
ナナはバックヤードに駆け込んで、すぐに制服で出てきた。タオルを首に巻きながらカウンター内に滑り込んでくる。
「ソウさん! 今日何人来ました?」
「四人」
「今のシフト誰ですか」
「俺とミオさんとあなた」
「カイは?」
「十五時から」
ナナはそれを聞いて少し安堵した顔をした。カイがいない間は落ち着いて動けると思っているらしい。ソウも同感ではある。
「ミオさんはどこですか」
「バックヤード」
「お弁当ですか?」
「多分」
ナナは「ありがとうございます!」と言いながら既にカウンターを出ていた。速い。
昼の休憩でバックヤードに戻ると、ミオがテーブルに三人分の弁当を並べているところだった。
今日はそれほど多くない。白いごはん、卵焼き、きんぴらごぼう、小さなウインナーが三本。シンプルだった。
「ソウくん、早いね」
「客が途切れたので」
「そう。じゃあ食べて」
ナナはもう既に箸を持っていた。ソウも向かいの椅子に座る。
「うまいですね、これ」
きんぴらごぼうをひとつまみして言うと、ミオは「そう?」と少し嬉しそうにした。
しばらく三人で黙って食べた。バックヤードは静かで、テレビの音だけが低く鳴っている。
ナナが何かを思い出したように顔を上げた。
「ミオさんって、昔からご飯作るの好きなんですか?」
「昔?」
「ずっと作ってたんですか?って」
ミオはしばらく箸を止めて、考えるような目をした。
「好きとか嫌いとか、そういうのと少し違うかな」
「どういうことですか」
「必要だから作る、に近い」
ナナは「へえ」と言いながら卵焼きを口に入れた。きっとその言葉の重さに気づいていない。
ソウは気づいた。でも黙っていた。
必要だから作る。
誰かが食べなければいけないから。誰かが補給しなければいけないから。そういう動機で、毎日弁当を複製して、二十四時間以内に容器を回収して、また翌日もやり直す。
ミオがここに「ずっと」いる理由と、おそらく同じ重さを持っていた。
「ミオさん」
ソウは自分でも予期せず声が出た。
「なんですか」
「いつからここにいるんですか。本当に」
ミオは箸を置いた。
ゆっくりと、ソウを見た。先ほどよりも少し違う目だった。怒っているわけでも困っているわけでもない。ただ、ちゃんと答えようとしているときの顔、に見えた。
「覚えてる一番古いのは」
少し間があった。
「この店の建物ができる前から、かな」
ナナが箸を止めた。
「え」
「この辺が空き地だったのは知ってる。その前はよく覚えてない。でも」
ミオは弁当箱の蓋に視線を落とした。
「みんながいたから、いたんだと思う」
「みんな」がどのみんなを指しているのか、ソウは聞けなかった。
今ここにいる「みんな」なのか。もっと前の「みんな」なのか。
バックヤードのテレビから声が流れてきた。
——北海道十勝地方で、昨夜から本日朝にかけて住民の一部が「昨日の記憶がない」と訴えるケースが相次いでいます。専門家はこれを集団的な記憶障害として調査を開始しており——
ソウがテレビを見ると、ミオもテレビを見ていた。
「気になる?」とミオが聞いた。
「少し」
「そう」
それだけだった。
午後、レイが出勤してきた。
今日のレイはいつも通りだった。スーツ姿、長髪、完璧に整った出で立ち。カウンター内に入るなり端末の展示品の位置を数センチ直し始めている。
「神崎くん、この端末の角度、昨日と変わっています」
「棚を拭いたので」
「そうですか」
レイは三センチ戻した。
ソウはその横顔を見ながら、昼休みのミオの話を思い出していた。
ミオが「ずっと」いるなら、レイは?ナナは?カイは?テルは?
全員に聞いて回ってもいいが、なんとなく今は聞かない方がいい気もしていた。ミオが「今は、気のせいでいい」と言ったとき、それはソウに向けた言葉だけではなく、むしろ自分自身への言葉だったんじゃないかという気がしていた。
カイが出勤してきたのは十五時ちょうどだった。
「お疲れ」
「遅刻してないじゃないですか」と言ったのはナナだ。驚いている。
「当たり前だろ」カイは胸を張った。「俺は時間にルーズじゃない」
「じゃあなんで先週十分遅れたんですか」
「重力のせい」
「重力は言い訳にならないです」
「俺には重力が従うから、そういうことじゃない」
「意味わかんない」
ソウはその掛け合いを聞きながら、なんとなく安心した。いつも通りだ。ミオの話を聞いた午後でも、ここはこうやってカイとナナが言い合っている。
普通の日常がある。
それがなんとなく、助かる気がした。
夕方、客の切れ目にカウンターがひと息ついた。
ソウはレイの隣で立って、端末の設定マニュアルを読んでいた。レイは台帳を確認している。
「レイさん」
ソウは少し迷ってから、口を開いた。
「昼にミオさんに色々聞いたんですけど」
「聞いたんですか」
「この建物ができる前からいるって言ってました」
レイは台帳から目を離さなかった。ページをめくる手が一瞬だけ止まったが、また動いた。
「そうですか」
「レイさんはどうなんですか」
「私は」
短い間があった。
「ミオさんほど古くはないです」
「それは聞いてないですけど」
レイは台帳を閉じた。ソウを見た。
「神崎くんはよく聞きますね」
「気になるので」
「そういう人が一人いると、助かります」
そう言って、レイはまた台帳を開いた。
それ以上は何も言わなかった。ソウも聞かなかった。
「助かります」という言葉が、なぜかずっと頭に残った。
閉店三十分前、ソウがフロアを掃除していると、バックヤードから低い音がした。
衣擦れの音と、どさっという布の落ちる音。
ソウは掃除機を止めた。
沈黙。
壁から、レイの声がした。
「神崎くん、少し待ってください」
ソウは掃除機のコードを持ったまま固まった。
わかっていた。あの音の順番はわかっていた。「少し待ってください」の意味もわかっていた。
それでも頭が一瞬真っ白になった。
壁の向こうでかすかに足音がした。それが壁の向こうを通り抜けて——ずぶっという感触を想像してソウはそれ以上考えるのをやめた——それからフロアの反対側で壁からレイが出てきた。
首から上だけ壁から出た状態で、レイはソウに言った。
「昨日から給湯室の扉が開かないんです。ドアノブが壊れていて」
「それは」
「業者を呼ぶ前に私が中に入って確認した方が早いので」
「そうですね」
ソウは視線をフロアの床に落としていた。できる限り自然に、普通の声で答えていたが、耳が赤くなっているのは自分でわかった。
「確認しました」
「はい」
「ドアノブの内側のネジが外れているだけです。工具があれば直せます」
「工具は倉庫に——」
「神崎くん」
「はい」
「ご覧になりましたか」
ソウは答えなかった。
レイは平静な声で続けた。
「反射的に目に入った場合は仕様ですので、気になさらなくていいです」
「気にしてないです」
「そうですか」
「気にしてないです」
二回言ったのは完全な失敗だった。
レイは壁から完全に出てきて、スペアの服に素早く着替えた。ソウは掃除機のコードをしっかり握ったまま天井を見ていた。
「工具、取ってきます」
レイが言ったので、ソウはすごく自然に「お願いします」と答えた。
人生で一番自然に聞こえない「お願いします」だったかもしれない。
閉店後、ソウが鍵を戸締まりしている間に、バックヤードからミオが出てきた。
手提げ袋を持って、今日の複製容器を全部回収したと言っていた。
「お疲れ様」
「お疲れ様でした」
ミオは少し立ち止まって、ソウを見た。
「今日はよく考えてたね」
「顔に出てましたか」
「うん」
ミオは微笑んだ。
「考えてもいいけど、ご飯はちゃんと食べてね」
「食べました」
「明日も持ってくるから」
それだけ言って、ミオは出口に向かった。
ソウはその背中を見送りながら、「建物ができる前から」という言葉を思い出していた。
どれくらい前だろう。十年か。二十年か。それとももっと。
ミオがここにいる理由は「みんながいたから」だった。
そのみんなが今もここにいる。それがミオにとっての「いる理由」になっているなら——ミオはこれからも、みんながいる限りここにいるつもりなのかもしれない。
…なんか変じゃない?
変だ。絶対変だ。
でも今日もご飯はうまかったし、レイさんの件は考えるほど混乱するので考えないことにした。
自動ドアが閉まる。外は少し暗くなっていた。
ポケットのスマートフォンに通知が入っていた。ニュースアプリの速報だ。
【速報】ペルー沖・イスラ・ロボス消滅確認。衛星写真で島の輪郭が消失。国際地質調査機関が調査開始。
ソウは一秒見て、アプリを閉じた。
…気のせいか。
いや、気のせいじゃない気がするけど、今日は疲れたから帰ることにした。




