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アップデートしてください。〜うちのバイト先、なんか変な人しかいないんですけど〜  作者: ハル
このバイト先、なんか変じゃない?

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18/66

第18話「ミオさん、いつからここにいるんですか」

木曜日の開店直後、バックヤードはまだ人の少ない時間だった。


 ソウが制服のネームプレートをつけながらロッカーの前に立っていると、隣でカイが鏡に向かって髪を整えていた。手ぐしで前髪を上げては戻し、上げては戻している。


「それ、朝からずっとやってる?」


 ソウが聞くと、カイは振り向かずに答えた。


「大事なことだから」


「そう」


 ソウはネームプレートを一回クリップして、とりあえずそれ以上突っ込むのをやめた。カイのナルシズムはもう驚かない。驚いていたら体がもたない。


 棚の下段、昨日ミオが回収した複製容器の場所を確認する。何もなかった。きれいになくなっていた。ミオは毎日律儀に全部回収している。二十四時間以内に。


 昨日の会話がまだ頭の端に引っかかっていた。


 放置すれば周囲に穴が開く。


 穴。どんな穴なのか、ソウはちゃんと聞けなかった。ミオが「大丈夫、今まで失敗したことないから」と笑ったので、そこで止まってしまった。


 …なんか変じゃない?という感覚は確かにあったが、「なんか変」というフレーズは最近使いすぎて擦り切れてきている気がする。



 



 開店から三十分で、ソウはカウンターに立っていた。


 木曜午前は比較的静かだ。主婦層と、定年後らしいおじさんが二、三人来る程度。ソウは暇な時間に端末の展示品を磨いている。


 バックヤードのドアが静かに開いて、ミオが出てきた。


 いつも通りの柔らかい動作で、いつも通りの落ち着いた顔をしている。エプロンの胸ポケットにタオルを一枚挟んで、カウンター内を整えながら奥の棚へ向かっていく。


「ミオさん、おはようございます」


「おはよう、ソウくん」


 短い挨拶。それだけ。


 ソウはしばらく端末を磨きながら、ミオの背中を見ていた。


 カイが昨日言ったことを思い出す。


 ミオはいつからここにいるのか。


 ソウは問いかけを投げたまま、カイが答えなかった理由を考えていた。知らなかったのか。それとも、聞いてはいけないと思っていたのか。


 どちらにしても、誰も答えを持っていなかった。



 



 午前十時半。客足が一時止まり、店内に空白ができた。


 ミオが棚の整理を終えてカウンターに戻ってきたタイミングで、ソウは何気なく口を開いた。


「ミオさん、ここって何年目ですか」


 聞いてから、少し後悔した。直接すぎたかもしれない。


 しかしミオは特に表情を変えず、指先で端末の充電ケーブルを整えながら答えた。


「ずっとかな」


「ずっと」


「うん、ずっと」


 ミオは微笑んだ。穏やかで、少し古い笑顔だった。


「店長が来る前から?」


「そうかも」


「それって何年前——」


「ソウくんはね」


 ミオがソウの方を向いた。


「よく気になるでしょう。色々と」


 その問いかけには少し重みがあった。責めているわけではない。ただ、何かを確認しているような、静かな目だった。


「まあ、そうですね。でも大体『気のせいか』で終わるので」


「それでいいと思う」ミオはまた前を向いた。「今は」


 今は、という言葉の温度をソウはうまく掴めなかった。「今は気のせいでいい」という意味か、「今はそれ以上聞かなくていい」という意味か。


 どちらにも取れた。


 レジカウンターの奥のテレビが音を立てた。


 ——本日の気象情報の前に、国土地理院からの発表です。富士山山頂部の高さが改めて計測され、前回の数値より約二メートル低下していることが確認されました。専門家はこの変動について——


「富士山また?」


 ソウがつぶやくと、ミオは画面を見たまま静かに「そう」と言った。


 表情は変わらなかった。



 



 昼過ぎにナナが出勤してきた。


 駆け込んでくるように自動ドアが開いて、ナナが走り込んできた。ネームプレートをポケットに入れたまま、息を切らせながらタイムカードに向かっている。


「間に合った!」


「三十秒遅い」


 ソウがタイムカードを確認しながら言うと、ナナは「えっ」と声を上げた。


「絶対止めた! 絶対止めたのに!」


「三十秒遅刻です」


「なんで!」


 ソウには理由の察しがついていたが、「時間を止めたからといって自分は正確に三十秒分遅れる」という構造を説明できる語彙をソウは持っていないので、何も言わなかった。


 ナナはバックヤードに駆け込んで、すぐに制服で出てきた。タオルを首に巻きながらカウンター内に滑り込んでくる。


「ソウさん! 今日何人来ました?」


「四人」


「今のシフト誰ですか」


「俺とミオさんとあなた」


「カイは?」


「十五時から」


 ナナはそれを聞いて少し安堵した顔をした。カイがいない間は落ち着いて動けると思っているらしい。ソウも同感ではある。


「ミオさんはどこですか」


「バックヤード」


「お弁当ですか?」


「多分」


 ナナは「ありがとうございます!」と言いながら既にカウンターを出ていた。速い。



 



 昼の休憩でバックヤードに戻ると、ミオがテーブルに三人分の弁当を並べているところだった。


 今日はそれほど多くない。白いごはん、卵焼き、きんぴらごぼう、小さなウインナーが三本。シンプルだった。


「ソウくん、早いね」


「客が途切れたので」


「そう。じゃあ食べて」


 ナナはもう既に箸を持っていた。ソウも向かいの椅子に座る。


「うまいですね、これ」


 きんぴらごぼうをひとつまみして言うと、ミオは「そう?」と少し嬉しそうにした。


 しばらく三人で黙って食べた。バックヤードは静かで、テレビの音だけが低く鳴っている。


 ナナが何かを思い出したように顔を上げた。


「ミオさんって、昔からご飯作るの好きなんですか?」


「昔?」


「ずっと作ってたんですか?って」


 ミオはしばらく箸を止めて、考えるような目をした。


「好きとか嫌いとか、そういうのと少し違うかな」


「どういうことですか」


「必要だから作る、に近い」


 ナナは「へえ」と言いながら卵焼きを口に入れた。きっとその言葉の重さに気づいていない。


 ソウは気づいた。でも黙っていた。


 必要だから作る。


 誰かが食べなければいけないから。誰かが補給しなければいけないから。そういう動機で、毎日弁当を複製して、二十四時間以内に容器を回収して、また翌日もやり直す。


 ミオがここに「ずっと」いる理由と、おそらく同じ重さを持っていた。


「ミオさん」


 ソウは自分でも予期せず声が出た。


「なんですか」


「いつからここにいるんですか。本当に」


 ミオは箸を置いた。


 ゆっくりと、ソウを見た。先ほどよりも少し違う目だった。怒っているわけでも困っているわけでもない。ただ、ちゃんと答えようとしているときの顔、に見えた。


「覚えてる一番古いのは」


 少し間があった。


「この店の建物ができる前から、かな」


 ナナが箸を止めた。


「え」


「この辺が空き地だったのは知ってる。その前はよく覚えてない。でも」


 ミオは弁当箱の蓋に視線を落とした。


「みんながいたから、いたんだと思う」


 「みんな」がどのみんなを指しているのか、ソウは聞けなかった。


 今ここにいる「みんな」なのか。もっと前の「みんな」なのか。


 バックヤードのテレビから声が流れてきた。


 ——北海道十勝地方で、昨夜から本日朝にかけて住民の一部が「昨日の記憶がない」と訴えるケースが相次いでいます。専門家はこれを集団的な記憶障害として調査を開始しており——


 ソウがテレビを見ると、ミオもテレビを見ていた。


 「気になる?」とミオが聞いた。


「少し」


「そう」


 それだけだった。



 



 午後、レイが出勤してきた。


 今日のレイはいつも通りだった。スーツ姿、長髪、完璧に整った出で立ち。カウンター内に入るなり端末の展示品の位置を数センチ直し始めている。


「神崎くん、この端末の角度、昨日と変わっています」


「棚を拭いたので」


「そうですか」


 レイは三センチ戻した。


 ソウはその横顔を見ながら、昼休みのミオの話を思い出していた。


 ミオが「ずっと」いるなら、レイは?ナナは?カイは?テルは?


 全員に聞いて回ってもいいが、なんとなく今は聞かない方がいい気もしていた。ミオが「今は、気のせいでいい」と言ったとき、それはソウに向けた言葉だけではなく、むしろ自分自身への言葉だったんじゃないかという気がしていた。


 カイが出勤してきたのは十五時ちょうどだった。


「お疲れ」


「遅刻してないじゃないですか」と言ったのはナナだ。驚いている。


「当たり前だろ」カイは胸を張った。「俺は時間にルーズじゃない」


「じゃあなんで先週十分遅れたんですか」


「重力のせい」


「重力は言い訳にならないです」


「俺には重力が従うから、そういうことじゃない」


「意味わかんない」


 ソウはその掛け合いを聞きながら、なんとなく安心した。いつも通りだ。ミオの話を聞いた午後でも、ここはこうやってカイとナナが言い合っている。


 普通の日常がある。


 それがなんとなく、助かる気がした。



 



 夕方、客の切れ目にカウンターがひと息ついた。


 ソウはレイの隣で立って、端末の設定マニュアルを読んでいた。レイは台帳を確認している。


「レイさん」


 ソウは少し迷ってから、口を開いた。


「昼にミオさんに色々聞いたんですけど」


「聞いたんですか」


「この建物ができる前からいるって言ってました」


 レイは台帳から目を離さなかった。ページをめくる手が一瞬だけ止まったが、また動いた。


「そうですか」


「レイさんはどうなんですか」


「私は」


 短い間があった。


「ミオさんほど古くはないです」


「それは聞いてないですけど」


 レイは台帳を閉じた。ソウを見た。


「神崎くんはよく聞きますね」


「気になるので」


「そういう人が一人いると、助かります」


 そう言って、レイはまた台帳を開いた。


 それ以上は何も言わなかった。ソウも聞かなかった。


 「助かります」という言葉が、なぜかずっと頭に残った。



 



 閉店三十分前、ソウがフロアを掃除していると、バックヤードから低い音がした。


 衣擦れの音と、どさっという布の落ちる音。


 ソウは掃除機を止めた。


 沈黙。


 壁から、レイの声がした。


「神崎くん、少し待ってください」


 ソウは掃除機のコードを持ったまま固まった。


 わかっていた。あの音の順番はわかっていた。「少し待ってください」の意味もわかっていた。


 それでも頭が一瞬真っ白になった。


 壁の向こうでかすかに足音がした。それが壁の向こうを通り抜けて——ずぶっという感触を想像してソウはそれ以上考えるのをやめた——それからフロアの反対側で壁からレイが出てきた。


 首から上だけ壁から出た状態で、レイはソウに言った。


「昨日から給湯室の扉が開かないんです。ドアノブが壊れていて」


「それは」


「業者を呼ぶ前に私が中に入って確認した方が早いので」


「そうですね」


 ソウは視線をフロアの床に落としていた。できる限り自然に、普通の声で答えていたが、耳が赤くなっているのは自分でわかった。


「確認しました」


「はい」


「ドアノブの内側のネジが外れているだけです。工具があれば直せます」


「工具は倉庫に——」


「神崎くん」


「はい」


「ご覧になりましたか」


 ソウは答えなかった。


 レイは平静な声で続けた。


「反射的に目に入った場合は仕様ですので、気になさらなくていいです」


「気にしてないです」


「そうですか」


「気にしてないです」


 二回言ったのは完全な失敗だった。


 レイは壁から完全に出てきて、スペアの服に素早く着替えた。ソウは掃除機のコードをしっかり握ったまま天井を見ていた。


「工具、取ってきます」


 レイが言ったので、ソウはすごく自然に「お願いします」と答えた。


 人生で一番自然に聞こえない「お願いします」だったかもしれない。



 



 閉店後、ソウが鍵を戸締まりしている間に、バックヤードからミオが出てきた。


 手提げ袋を持って、今日の複製容器を全部回収したと言っていた。


「お疲れ様」


「お疲れ様でした」


 ミオは少し立ち止まって、ソウを見た。


「今日はよく考えてたね」


「顔に出てましたか」


「うん」


 ミオは微笑んだ。


「考えてもいいけど、ご飯はちゃんと食べてね」


「食べました」


「明日も持ってくるから」


 それだけ言って、ミオは出口に向かった。


 ソウはその背中を見送りながら、「建物ができる前から」という言葉を思い出していた。


 どれくらい前だろう。十年か。二十年か。それとももっと。


 ミオがここにいる理由は「みんながいたから」だった。


 そのみんなが今もここにいる。それがミオにとっての「いる理由」になっているなら——ミオはこれからも、みんながいる限りここにいるつもりなのかもしれない。


 …なんか変じゃない?


 変だ。絶対変だ。


 でも今日もご飯はうまかったし、レイさんの件は考えるほど混乱するので考えないことにした。


 自動ドアが閉まる。外は少し暗くなっていた。


 ポケットのスマートフォンに通知が入っていた。ニュースアプリの速報だ。


 【速報】ペルー沖・イスラ・ロボス消滅確認。衛星写真で島の輪郭が消失。国際地質調査機関が調査開始。


 ソウは一秒見て、アプリを閉じた。


 …気のせいか。


 いや、気のせいじゃない気がするけど、今日は疲れたから帰ることにした。

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