第19話「ずっと、というのはどのくらいですか」
ミオは笑っていた。
それがソウには少し怖かった。
「この建物ができる前から、ですか」
ソウは自分の声が思ったより平坦に出たと思った。動揺を押し込めたのか、それとも動揺するほどの余力がもう残っていなかったのかは、よくわからない。
「そう」
ミオはタッパーの蓋を閉めながら、何でもないことのように頷いた。エプロンの紐が、蛍光灯の下で白く光っていた。
「……建物ができる前から、って」
「うん」
「この場所が携帯ショップになる前から?」
「そのもっと前から、かな」
カイが口の中の米を完全に飲み込み損ねたような顔をしていた。テルは膝の上で丸まったまま、目を細めていた。起きているのか眠っているのか、いつもわからない。
「どのくらい前ですか」
ソウは聞いた。聞いてどうするというわけでもなかったが、聞かずに終われなかった。
「どのくらい……」ミオは少し考えるような間を作った。「あなたたちの感覚だと、かなり長い気がするかもしれないね」
「かなり長い、というのは」
「ここに人が住み始めるよりも前、とだけ言っておこうか」
ソウはそれをしばらく咀嚼した。
咀嚼し終わっても、意味がよくわからなかった。
「……なんか変じゃない?」
「何が」カイが眉を寄せた。
「いや、だって。人が住み始めるより前って、そんな昔から何してたんですか、ミオさん」
「見てた」
一言だった。
「見てた、というのは」
「見てた、は見てた、だよ」ミオはにっこりした。「最初から、ここは面白い場所だったから」
カイが「面白い」という言葉を口の中で繰り返した。テルが「まあ、なるようになる」と寝言のように言った。
ソウはもう一口、弁当の残りを口に入れた。角煮が、びっくりするくらいうまかった。
昼休憩が終わると、ナナが走って戻ってきた。
「間に合った!」
時計を見ると、十三時一秒だった。
「……一秒遅刻してる」
「え、嘘。また?」ナナは本気で驚いていた。「絶対間に合ったと思ったのに。おかしいな、今日も止めたのに」
「時間止めて全力疾走して毎回一秒遅れるの、そろそろ物理的に説明してほしいんだけど」
「私にもわからない」
ナナは首を傾げながらエプロンをつけた。傾げた角度が、小型犬に似ていた。
ソウは「まあいいか」で流した。いつものことだった。
午後一番、来店したのは四十代くらいの女性で、髪をきっちりまとめ、名刺入れを小脇に抱えていた。仕事の合間に抜けてきた、という雰囲気がにじみ出ていた。
「機種変更をしたいんですが、データの引き継ぎって全部できますか」
ソウはカウンターに案内しながら、「ほとんどのものは対応できます」と答えた。
「ほとんど、というのは」
「アプリによっては個別に移行が必要なものもあります。あと、一部のゲームデータは対象外になる場合があって」
「ゲームはしないので大丈夫です」女性はきっぱりした口調で言った。「写真と、連絡先と、あとLINEが入ればそれで」
「でしたら問題ないと思います」
女性はホッと肩から力を抜いた。「よかった。写真だけはどうしても残したくて」
「大事なものがあるんですか」
「子供が去年生まれたんです」女性は少し照れたように言った。「それだけ消えたら困る、って思って」
「それは確かに」
ソウは手続きの説明を始めながら、データ移行の待ち時間が少し発生することを伝えた。女性は「構いません」と言って、椅子に座った。
待ち時間の間、テレビのニュースが静かに流れていた。
「先月に続き、今月もヒマラヤ山脈の標高データに誤差が生じていることが確認されました。国際地理情報機構は測定の再確認を行っているとしていますが——」
「あの」
女性がソウに声をかけた。
「最近、なんかニュースが変じゃないですか。山の高さが変わるとか、島が消えるとか」
「……ですね」ソウは言った。「なんか変だな、とは思ってます」
「気候変動のせいですかね」
「どうでしょう」
ソウは、気候変動というよりもっと別の何かな気がする、と思いながら、「気のせいか」と自分で自分に言い聞かせた。
データ移行が完了し、女性が帰ったあと、ソウはカウンターを拭きながらバックヤードをちらりと見た。
レイがデスクで何かの書類を処理していた。
姿勢がいい。いつ見ても、背筋が定規で引いたようにまっすぐだ。ソウはそれを見るたびに、人間ってこんなに綺麗に座れるものだったっけ、と思う。
「ミオさんのこと、知ってますか」
声をかけると、レイは書類から目を上げた。
「何を」
「ずっとここにいるって言ってました。建物ができる前から」
レイは少し間を置いた。
「知っています」
「驚かないんですか」
「驚く理由がないので」
ソウはカウンターから身を乗り出した。「なんで驚かないのか、そっちの方が変じゃないですか」
「私たちは皆、それぞれの時間の長さがあります」レイは静かに言った。「ミオさんが長いというのは、そういうことです」
「そういうことって」
「……少し待ってください」
レイが立ち上がった。
ソウは条件反射で「あ、やばい」と思った。思ったけど、動けなかった。なぜかというと、バックヤードへの入口の扉を開けようとしたレイが、そのまま扉を開けずに、壁の方へ向かって歩き始めたからだ。
「え、ちょっ」
どさっ。
レイのスーツが、音を立てて床に落ちた。一瞬後に、シャツが。続いてスラックスが。
ソウは完全に固まった。
視線をどこに向けていいかわからなかった。天井を見た。蛍光灯が目に刺さった。床を見ようとして、服が見えた。壁を見ようとして、壁の前にレイが立っている方向が視界に入りそうになって、また天井に戻った。
「そこを今ご覧になりましたか」
壁の向こうから、声が聞こえた。
「見てない! 絶対見てない! 天井見てた!」
「…………」
「ていうか聞きたいことがあるなら普通に扉から出てきてほしかったんですけど! なんで急に!」
「扉は施錠されています。合鍵を持っていないので、今は壁の方が効率的でした」
「それ一度も解決策として選ばないでほしいタイプの効率なんですけど!」
レイが壁の外に出てきた。バックヤードとカウンターの間の壁から、するりと、本当に何でもないようにずぶっと出てきた。
完全に真っ白な状態で。
「……目ぇ伏せてください、早く」
「伏せています。目を閉じているので見えていません」
「それ見えてないんじゃなくて閉じてるだけ! 根本的に同じ状況です!」
「少し待ってください」
ガサガサ、と音がした。レイが何かを広げている気配がした。
「着替えましたか」
「まだです」
「……まだなんですか」
「スペアが取り出しにくい位置にありました。今出しました。少し待ってください」
ソウはその「少し待ってください」を、今の状況で言える人間が地球にどれだけいるかを考えた。たぶん、レイ以外にはいない。
「……着替え終わりました」
「絶対ですか」
「絶対です」
ソウはゆっくり目を開けた。
レイが完璧なスーツ姿で立っていた。髪もきちんとしていた。どこから調達したのかわからないが、スペアはどう見ても同じスーツで、もはや無限にストックがあるとしか思えない。
「さっきの続きですが」
レイは何事もなかったように言った。
「…………は?」
「ミオさんについてでしょう」
ソウはしばらくその言葉を受け取れなかった。受け取れるようになるまで、だいたい五秒かかった。
「……続きって、今の状況で続きって言えますか」
「言えます。私の仕様なので」
「仕様って」
「これが私の仕様です」
レイはそう言って、カウンターの椅子に座った。
ソウも気力を振り絞って椅子に座った。
「ミオさんが長くここにいることは」レイは言った。「私も知っています。正確にどのくらいかは、私にもわからない」
「同じアップデート……ていうか、同じ変な人たちなのに、わからないんですか」
「私たちは同じではありません。存在の在り方が、それぞれ違う」
レイは手を膝の上で組んだ。
「ミオさんは、私たちの中でも最初の方です。どのくらい最初かというと、この世界が今の形に近くなった頃から、というくらい」
「今の形に近くなった頃」
「そうです」
ソウはそれを頭の中で転がした。
今の形に近くなった頃。ヒマラヤの標高が変わり、島が消え、山が低くなっていく世界が「今の形」だとするなら、ミオが見てきた頃の世界は、もっと違う形だったのか。
「ミオさんは何かを知っていますか」
ソウは思い切って聞いた。
「私たちが知らないことを」
レイは一瞬だけ、何かを考えるように目を細めた。
「……おそらく」
「何を知ってるんですか」
「それは」
レイが言いかけたとき、カランカランと入口のドアが開いた。
テルが戻ってきた。二本、缶コーヒーを持っていた。
「あ、二人いた。ラッキー、丁度いい」テルは缶を一本ずつ差し出した。「自販機で当たり引いたから」
「また当てたんですか」
「まあ」テルはにへらと笑った。「なるようになる」
それ以上でも以下でもない答えだった。
ソウは缶コーヒーを受け取りながら、レイを見た。レイは何も言わなかった。
閉店間際、ソウは在庫チェックのついでに店の裏の資材置き場に回った。
ミオが段ボールを片付けていた。
「手伝います」
「ありがとう」
二人で黙って箱を積みながら、ソウはさっき聞きそびれた続きのことを考えていた。
「ミオさん」
「うん」
「何か、知ってることがあるんですか。レイさんが、たぶんそうだって」
ミオは手を止めなかった。段ボールを積みながら、少し間を置いてから言った。
「知ってることと、知らないことがある」
「知ってることは、何ですか」
「あなたたちがここにいる理由」
ソウは次の箱を持つ手を止めた。
「あなたたち、というのは」
「私を含めた、変な人たち全員」ミオはゆっくり言った。「なんでここにいるかは、ちゃんとわかってる」
「なんでいるんですか」
ミオはそこで初めて手を止めた。
振り返った。笑っていた。いつものあの笑顔で。でも今日は少しだけ、その笑顔の奥に何かがあるような気がした。ソウには名前をつけられなかった。
「それを話すには」ミオはゆっくり言った。「もう少し先まで、一緒にいてもらわないといけないね」
「もう少し先というのは、どのくらいですか」
「そんなに遠くないよ」
ミオはそう言って、また段ボールを積み始めた。
ソウはしばらくそこに立っていた。
夜の資材置き場は少し冷えていた。遠くから、車の音が聞こえた。
……なんか変じゃない、とソウは思った。
全部が、なんか変だった。レイも、ミオも、カイも、ナナも、テルも。全員がそれぞれに変で、でも毎日ここにいて、弁当を食べて、缶コーヒーを飲んで、普通に仕事をしていた。
変なのか、普通なのか、もうよくわかりません、という気持ちだった。
「ソウくん」
ミオが言った。
「うん」
「手、動かして」
「あ、すみません」
ソウは段ボールを持ち上げた。
その夜、家に帰ってソウがテレビをつけると、ニュースが流れていた。
「ヒマラヤ山脈の主要な峰において、今月だけで計三つのピークで標高の著しい低下が観測されました。また北大西洋において、過去の地図に記録されていた岩礁が消滅していることが確認され——」
ソウはリモコンのチャンネルを変えた。
変えてから、少し考えた。
また変えて、ニュースに戻した。
「——専門家は『これまでに例を見ない現象』として調査を続けるとしています」
そのまま、しばらく画面を見ていた。
……なんか変じゃない?
気のせいか。
気のせいじゃないかもしれない。
でも今日のところは、ミオの弁当がうまかったことだけを覚えておくことにした。




