第20話「それって、普通じゃないですよね」
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翌朝、ソウは出勤途中ずっと昨日のことを考えていた。
正確に言うと、考えないようにしようとして、できなかった。
レイが壁に消えた瞬間のことを。
服が床に落ちる音を。
自分が必死に視線を逸らしながら、それでも網膜の端にちらついた長い黒髪と白い影のことを。
(気のせいか)
気のせいではない。絶対にない。
スマートフォンを取り出してイヤホンをつけ、音楽を流した。ちょうどラジオのニュース速報が割り込んできた。
「――昨夜、北海道・洞爺湖の湖底から大規模な音響が観測され、湖面が一時的に約八十センチ上昇しました。原因は不明で、専門家は――」
「……なんか変じゃない?」
ソウはつぶやき、スキップボタンを押した。音楽が再開された。
考えるのはやめた。少なくとも店に着くまでは。
開店十分前。
バックヤードで制服に着替えながら、ソウは改めて昨日を整理しようとした。
レイは壁をすり抜けた。それは知っていた。能力のことは、ぼんやりと。だってこの店にいると、そういうことが普通に起きる。ナナは時間を止めるし、カイはものを浮かせるし、テルは自販機でいつでも当たりを引く。ミオは弁当を複製する。
全員なんか変だと思っていた。ずっと。でも「なんか変な人たち」と「人間じゃないかもしれない人たち」の間には、ちょっとした溝がある。
昨日、ソウはその溝に足を踏み外した。
「おはよー」
バックヤードの扉が開いて、ナナが転がり込んできた。
「ナナ、普通に扉から入ってきた」
「? 扉ですけど」
「いや、なんでもない」
ナナは首をかしげながらロッカーを開けた。茶色の髪をポニーテールに結い直しながら、鏡越しにソウを見る。
「神崎くん、なんか顔色悪くないですか」
「そう?」
「昨日何かありました?」
「……いや」
「そうですか」
ナナはあっさり引き下がった。追及しないところがナナのいいところだ、とソウは思う。それ以上突っ込まれたら正直に答えてしまいそうだった自分に少し気づいていた。
十時の開店と同時に、レイが入ってきた。
今日も完璧なスーツ姿だった。髪はきちんとまとめられ、バッジはまっすぐで、表情は昨日と同じように静かで涼しかった。昨日の夕方に壁をすり抜けた人間とは、どう見ても一致しない。
レイはソウの顔を見て、わずかに目を細めた。
「神崎くん」
「は、はい」
「昨日は失礼しました」
「え」
「施錠された扉を使えなかったため、別のルートを選択しました。ご不便をおかけしました」
「ご不便とかじゃないですよ」
ソウの声が少し裏返った。レイは相変わらず表情を変えない。
「見てしまいましたか」
「……えーと」
「見てしまいましたね」
「……すみません」
「謝る必要はありません。能力の発動条件の問題です。私が謝るべき事案です」
「いや、でも——」
「ご覧になった内容については」
レイは一瞬だけ間を置いた。
「特に意識しないでください。これが私の仕様なので」
「…………」
「神崎くん」
「は、はい」
「口が開いています」
「あ、すみません」
閉じた。
レイはそれで終わりにするように、カウンターの端末を立ち上げ始めた。ソウはしばらく自分の顔が赤くなっているのを自覚しながら、深呼吸した。
(……まあ、そういう仕様なんだ。うん)
納得するしかなかった。この店ではそういうことにしておかないとやっていけない。
午前中はそれなりに客が来た。
機種変更の夫婦、ゲームアプリの課金について相談したい中学生(保護者同伴)、プランを変えたいけど何がいいかわからないという四十代の男性。ソウはいつも通り対応した。仕事をしていると、余計なことを考えずに済む。
昼前になって、カイが颯爽と入ってきた。
「おはようございます」
「遅い」
ソウがぼそっと言うと、カイは手を振った。
「ギリギリセーフ」
「一分過ぎてる」
「いや、でも実質的には——」
「実質的には遅刻です」と、レイがカウンター越しに告げた。
カイは黙った。反論の余地がないらしい。
着替えを終えたカイがフロアに出てきたとき、バックヤードのテレビで昼のニュースが流れ始めた。
「――続きまして、千葉県内の複数の公園で今朝から「ボールが地面に落ちない」という現象が相次いで報告されています。映像をご覧ください。こちら、投げたボールが途中で止まり、そのまま宙に浮いた状態を維持しているのが確認できます。専門家によりますと――」
ソウは画面を見た。
本当に、ボールが浮いていた。子どもが投げたボールが、空中でふわっと止まっている。
「……なんか変じゃない?」
「あー」とカイが言った。「ちょっと昨日、駐車場で練習してたわ」
「練習?」
「重力のコントロール。最近ちょっと調子が悪くて。なんか半径がずれる」
「それ、千葉まで飛んでるじゃないですか」
「あ、そんなに?」
カイは悪びれる様子もなく画面を見た。
「まあ、そのうち直るよ。重力って戻るから」
「戻るの?」
「大体は」
「大体は、の三文字がめちゃくちゃ怖いんですけど」
カイは笑った。ソウはため息をついた。
昼休憩になると、ミオが弁当を配り始めた。
今日は鶏の照り焼きだった。白いご飯の上に、つやつやしたタレのかかった鶏肉が乗っていて、隅に小さなほうれん草のおひたしとたまご焼きが並んでいる。
「ミオさん、毎日作ってるんですか」
「複製だよ」とミオは笑う。「でも元のは作ってるから、まあ作ってるかな」
「元の、を作るのにどのくらいかかるんですか」
「一時間くらい」
「それはもう作ってますよ」
ミオは楽しそうに笑った。
全員でバックヤードのテーブルを囲んだ。ナナがお茶を入れ、テルがどこからかお菓子を出してきた。
「テル、それどこから出した」
「自販機」
「弁当あるのに自販機?」
「お菓子は別腹」
テルはポテトチップスの袋を開けながら、目を細めた。まだ眠そうだった。この人がきちんと起きていたのをソウはほとんど見たことがない。
しばらく食事が続いた。誰も大きなことは話さなかった。バイト中に変なことがあった話とか、今日の客が面白かった話とか、そのくらいのことをぽつぽつと話す。ソウはこの時間が結構好きだった。
好きだと気づいたのは最近だった。
ひと段落して、ソウは箸を置いた。
「一個聞いていいですか」
「どうぞ」とミオが言った。
「みなさん、この世界のことをどう思ってるんですか」
しばらく沈黙した。
「この世界?」とナナが首をかしげた。
「なんか、ミオさんの話を聞いてて。人が住み始めるより前からここにいたって言ってたじゃないですか。で、レイさんも昨日、それぞれ時間の長さがあるって言ってた。みんな、ここに来る前は何をしてたのかな、と思って」
ミオが少し笑った。
「急にまじめな話」
「すみません。なんか気になって」
「いいよ」とミオは言った。「聞いてくれたほうがうれしい」
テーブルの上に静けさが広がった。テルがポテトチップスを一枚口に入れて、じっとしていた。
「みんな、それぞれ違うと思う」とミオが続けた。「私は、ずっとここにいた。何かをしようとしてここにいたわけじゃなくて、ここがあったから、いた。気がついたらいた、って感じ」
「気がついたら、って」
「うん。気がついたら、ここに形があって、人が来て、何かを積み上げ始めて。それを見てた」
ソウはうまく言葉が出なかった。
レイが静かに口を開いた。
「私は、設計図を読もうとしてここにいます」
「設計図?」
「この世界の。仕組みを知りたい」
「なんのために?」
「知りたいから、としか言いようがありません」
それだけ言って、レイはまた黙った。
カイが腕を組んだ。
「俺は、人間が面白いから来た。なんか、すごいなって思って。重力も時間も全部わかんないのに、それでも積み上げてく。なんかカッコいいじゃないですか」
「カイさんがそういうこと言うのは意外ですね」
「俺だって言いますよ」カイは少し照れた顔をした。「チャラく見えても」
「チャラいですよ、ふだんは」
「それはそう」
ナナがぱっと手を挙げた。
「私は、普通に生きたくて来ました。普通に友達できて、普通に働いて、普通に毎日ごはん食べて。それがしたかった」
「ナナさんらしい」
「ほめてますか?」
「ほめてます」
ナナは嬉しそうにした。
テルは最後まで黙っていたが、ポテトチップスを一枚食べ終わって、ぼそっと言った。
「別に理由はないよ。なんとなく、ここにいる」
「なんとなく?」
「なるようになるから。どこにいても」
「それ、能力とセットじゃないですか」
「たぶん」
テルは目を細めた。眠そうだが、どこか満足そうに見えた。
ソウはしばらく考えた。
「じゃあ、俺のことはどう見えてるんですか。みなさんから」
誰も答えなかった。
答えないというより、考えているようだった。
ミオが先に言った。
「面白いと思ってる」
「面白い?」
「うん。何もないのに、ちゃんと気づくから。変だって思う。でも流せる。それって結構すごいと思う」
「すごくはないですよ」
「そうかな」
ミオはやわらかく笑った。目の端にすごく古い何かが宿っているのをソウは感じた。年齢が読めない笑い方だった。
レイが言った。
「神崎くんは、ここにいていい人だと思っています」
「え」
「ここにいていい、というのは、つまり」
レイはわずかに言いよどんだ。それがめずらしくて、ソウは思わず顔を向けた。
「こちら側にいても、問題ないということです」
「……こちら側?」
「ええ」
それ以上は言わなかった。
ソウはそれが何を意味するのか、うまく掴めなかった。でも、悪い意味ではないとは思った。
「ありがとうございます、たぶん」
「どういたしまして、たぶん」
レイの口元がほんのわずかに動いた。笑ったのかどうかわからないくらいの動き方だった。
午後は穏やかだった。
客が三組来て、全員問題なく対応できた。ナナは一組目の女性客と話しているとき、うっかり時間を止めかけて、自分で気づいて止めた。止める前に止めた、ということをソウは気配で察したが、何も言わなかった。言っても仕方がない。
テルはカウンターで書類仕事をしながら途中で寝ていた。
カイは鏡を見て髪を直していた。一回でいいからその時間を仕事に使ってほしいとソウは思ったが、言わなかった。これも言っても仕方がない。
夕方になって、店内の掃除をしていると、バックヤードのテレビでまたニュースが流れた。
「――先ほど入ったニュースです。長野県松本市の時計台で、時計の針が昨日から止まったままになっているとの報告が市民から相次いでいます。市の担当者は修理を試みていますが、原因は特定できていないと述べています。なお、同様の現象は今月だけで全国で四件確認されており――」
ソウはモップを止めた。
今月だけで、四件。
「……なんか変じゃない?」
誰も聞いていなかった。
ソウはまたモップを動かした。
気のせいではないかもしれない、という考えが頭の中でちらついた。でも今日はもう、それをきちんと考えるには疲れていた。
閉店作業が終わって、全員が着替えて外に出た。
夜の空気は少し冷たかった。ナナが「さむっ」と言って、カイが「これくらいで寒いの?」と言って、テルはすでに半分眠そうに歩いていた。ミオが「明日は少し暖かいって言ってたよ」と言って、レイは何も言わずに歩いていた。
ソウは少し後ろを歩きながら、全員の背中を見た。
変な人たちだ、とソウは思った。
変な人たちだけど、面白い。
ミオが振り返った。
「神崎くん、何か考えてる?」
「いや」とソウは言った。「なんか、楽しいなと思って」
ミオは笑った。目の端に、また古い何かが宿っていた。
「よかった」
それだけ言って、ミオは前を向いた。
ソウはしばらくそのまま歩き続けた。夜空は澄んでいて、星が見えた。いくつか、というのは数えなかった。
ただ、なんとなく。
いつもより少ないような気が、した。
(次の日、テルは自販機の前で三秒考えた後、ボタンを押した。当たりが出た。テルは「まあそうだよな」と言って、ジュースを二本持ってバックヤードに戻った。なぜ二本出たのかは、誰も確認しなかった。)




