第21話「それぞれの、始まりの話」
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「聞いてくれたほうが、うれしい」
ミオのその言葉が、バックヤードの空気にしばらく浮いていた。
神崎ソウは手の中の箸を持ち直して、それからなんとなく弁当箱の蓋のふちをなぞった。こういうとき、どう返せばいいか分からない。「聞かせてください」と言えば急かしているみたいだし、黙っていれば話は終わる。
朱雀ミオは穏やかに笑っていた。怒ってもいない、困ってもいない。ただ、静かに待っている。
御堂カイが麦茶のコップを置いた。
「で、ミオ先輩はいつから『ここ』にいるんですか。具体的に」
「カイ、急かすな」
「急かしてない、気になってるだけ」
「同じだろそれ」
ソウが咎めると、カイは「うるさい」と肩をすくめた。二十二歳のわりに、こういうときだけ高校生みたいな顔をする。
ミオはコップを両手で持って、少し考えてから口を開いた。
「どのくらいって言われても、数字では答えにくくて」
「それって、数えてないんですか」
「数えてたんだけど、途中で飽きた」
ソウはうまく反応できなかった。飽きた、という言葉の重さが、なんか普通じゃない。
「千年以上は前だと思う。単位で言えば」
「…」
カイが麦茶を噴きそうになった。
「千年!?」
「しーっ」
ソウが慌てて制すると、カイは口を押さえて咳をした。
ミオは動じていない。「そんなに驚く?」と首を傾けた。
「驚くでしょ、普通に」とソウは言った。「千年って、鎌倉幕府とかそのくらいの話じゃないですか」
「あー、あった。あの頃は今みたいな建物ないから、ここらへんは田んぼだった」
「田んぼ!?」
カイがまた声を上げた。ソウは頭を抱えた。
そのとき、扉が開いた。
氷室レイが書類を持って入ってきた。紺色のジャケットにタイトスカート、長い黒髪を後ろで束ねた、バイト先で一番見た目のいい先輩。いつも通りの顔をしている。
「午後の分の在庫リストです。確認してもらえますか」
ミオがひょいと受け取る。
「レイちゃんも来て、座って。今ミオの昔話してたところ」
「千年前の話をしていたんですか」
レイはそれだけ言って、ソウの隣に腰を下ろした。驚きゼロ、声のトーン変化ゼロ。
「レイは知ってたんですか、ミオさんが千年以上いるって」
「おおよそは」
「おおよそ、って」
「正確な数字を聞いても使い道がないので」
レイはそう言いながら、荷物の中から小さなタッパーを取り出した。昼食だ。蓋を開けると、玄米と鶏の照り焼きが入っていた。律儀に自分で作ってくるんだな、とソウは思った。
「それで、続きは?」とカイが身を乗り出す。「ミオ先輩、千年前の話」
「そんなに聞きたい?」
「聞きたいです!」
ミオは少し考えてから、「じゃあ順番に」と言った。
「最初は、ここに何もなかった。本当に何もない。草と土と空だけ。私はそこにいた。なんで、って聞かれると答えられないんだけど」
「気がついたら、いた感じ?」
ミオはソウを見た。「うん、そういう感じ。気がついたらここにいて、なんか面白そうだな、と思って見ていた」
「面白そう、って」
「人間が増えてくのが。家が建って、道ができて、どんどんうるさくなっていって」
ミオは少し笑った。「うるさい場所、好きなんだよね」
ソウは弁当箱の中の残りを食べながら、それを聞いていた。千年。この人は千年、ここで人を見ていた。それが怖いとか、異常だとか、そういう感覚よりも先に——なんか、さびしい話だと思った。
「レイさんは?」
思わず、聞いていた。
レイが箸を止めた。
「私のことですか」
「どのくらいいるんですか、この世界に」
レイはしばらく何も言わなかった。ソウは失敗したかもしれない、と感じた。踏み込みすぎたか。
でもレイは、怒ってはいなかった。
「ミオさんよりは短い。百年くらい、だと思います」
「百年」
「おおよそ、ですけど」
百年でおおよそ、という感覚が、ソウにはまだうまく掴めない。
「最初にいた場所は、ここじゃなかった」とレイは続けた。「建物の配置が変わったので、移動してきました」
「建物の配置が変わる前から、ってことは、この土地に百年いるってことですか」
「そうなります」
「…なんか変じゃない?」
言ってから、ソウは首を振った。「変っていうか、すごいな、って意味で。百年ここにいて、なんで携帯ショップでバイトしてるんですか」
「人間社会の契約システムを研究しています」
「前もそれ言ってましたよね」
「嘘じゃないですよ」
レイは淡々と言った。「契約は、この世界の基本構造と似ているんです。約束があって、交換があって、その代わりに何かが続く。面白いと思って」
「…そういう目線で見てたんですね、この仕事」
「神崎さんは?」
「俺は生活費のためですよ、普通に」
「それも立派な契約ですよ」
レイは小さく、本当に小さく、口の端を上げた。笑った、と言っていいかどうかギリギリのラインだったが、ソウにはそう見えた。
カイが「俺の話も聞きます?」と割り込んできた。
「聞きたくないです」
ソウが即答すると、カイは「なんで!」と声を上げた。
「うそうそ、聞く聞く」
「信用できないな〜」
「カイはいつからいるんですか」
「俺は十年くらいですかね」
「十年か」
「ミオ先輩に比べたらひよっこだ」
カイはケラケラ笑った。「最初は東京の別の場所にいたんですけど、そこ再開発されちゃって。ぷらぷらしてたらここに来た感じです」
「ぷらぷら、って」
「重力おかしくなると、自分の重力も操作できるんで、ある程度は飛べるんですよ」
「飛べるの!?」
「ただし上空二百メートルが限界」
「十分すごいでしょそれ」
カイは「まあな」と満足そうな顔をした。このナルシストが、このときだけは無邪気に笑っていた。
「テルは?」とソウはさらに聞いた。
「テルちゃんは、えーとね」とミオが代わりに答えた。「たぶん三年くらい。あんまり過去の話しないから、細かくは知らないけど」
「三年、か」
「なんか眠くて、気がついたらここにいた、みたいに言ってたよ」
「それがテルっぽい」
ソウはそう言ってから、手元の弁当箱が空になっていることに気づいた。気づいたらなくなってた、というやつだ。うまかった。
「ナナちゃんは一年くらいかな」とミオが続けた。「まだうまく使えてないことがあるから、うちではいちばん新しい」
「ナナが一番若いのか」
「年齢じゃなくて、経験値の話ね」
ソウはそれを聞いて、ぼんやりと全員の顔を思い浮かべた。ミオの千年、レイの百年、カイの十年、テルの三年、ナナの一年。自分は——二十歳。それも、この土地に住んで二年くらい。
「俺、全然若いですね」
「ソウくんは人間の時間軸だから、比べるもんじゃないよ」
ミオはそう言ったが、ソウはなんとなく、自分だけが別の定規を持っているような感覚を覚えた。
午後、バックヤードのテレビをつけたままにしていたら、ニュースが流れた。
「——昨夜から今朝にかけて、北海道の一部地域で住民が時計の時刻に関して混乱する事態が続いています。同一地区の住民が互いに異なる時刻を示す時計を持っており、原因は電波障害と見られていますが——」
カイが「またか」と呟いた。
ソウは一瞬、画面を見た。北海道の街の映像が映って、インタビューを受けた女性が「朝七時のはずなのに、夫の時計は六時を指していて」と話していた。
「気のせいか」
ソウは呟いて、書類に視線を戻した。
そのとき、バックヤードの扉が勢いよく開いた。
「——間に合った!」
日向ナナが転がり込んできた。ポニーテールが盛大に乱れている。息を切らしているし、頬が赤い。
「ナナ、シフト開始五分前だぞ」
「五分もある!」
「五分しかない、って言えよ」
ナナは腰に手を当てて息を整えた。「今日は時間余裕持って出たのに、電車が——」
「止まった?」
「時刻表がおかしくて。乗ったら、車内の時計が途中で五分戻ってて」
ソウとカイが顔を見合わせた。
テレビは、まだ北海道のニュースを映していた。
「時計がおかしい、か」
ソウが呟くと、ナナが「え、なに」と首を傾けた。
「なんでもない。早く着替えな、ホントに五分しかないから」
「はーい!」
ナナは元気よく返事をして、着替えのために奥へ消えた。その背中を見送りながら、ソウはさっきのニュースをもう一度思い出した。
電波障害。
そうだろうな、と思う。そうなんだろう。だって他に説明がない。
「…なんか変じゃない?」
声に出たのは、自分でも気づかないくらい小さかった。
カイが聞こえたのか聞こえていないのか、「ミルクティー買ってくる」と言って出ていった。ミオはもう洗い物をしていた。レイは在庫リストに目を通していた。
ソウも、書類の続きに取り掛かった。
夕方、閉店一時間前。
客がちょうど途切れたタイミングで、レイがカウンターの端に来た。
「さっきのことですが」
「さっきの?」
「昼の話。聞いてくれてありがとうございました」
ソウは少し驚いた。レイが礼を言うのは珍しくはないが、こういう言い方は初めてだった。
「いや、俺が聞きたかっただけなんで」
「それでも」
レイは少し間を置いた。
「神崎さんは、怖くなかったんですか」
「何が」
「私たちが——普通じゃないと知って」
ソウは考えた。怖い、という感覚があったかどうか。壁をすり抜けた瞬間は——怖いというより、頭が真っ白になって、別の意味で大変だった。千年前から存在するミオも、最初は驚いたけど。
「怖くはなかったです」
「なぜ?」
「なんかみなさん、変なだけで、悪くないんで」
レイは少し黙った。
「変なだけ、というのは」
「褒め言葉のつもりです。なんか変だけど、悪意はないじゃないですか、みなさん」
「……そうかもしれませんね」
珍しい返答だった。レイが「そうかもしれない」と言う場面をこれまであまり見たことがなかった。いつも「そうです」か「違います」かで、だいたい断言していた。
「あの」
ソウが続けた。
「昨日の件は、俺のほうこそすみませんでした。その、目のやり場が——」
「気にしないでください」
「でも——」
「これが私の仕様なので」
レイは静かに言った。「神崎さんが謝る必要はありません。見せてしまったのはこちらです」
「それは……うん、でも、こっちの心臓にもちょっと」
「心臓?」
「なんでもないです!」
ソウが早口で打ち切ると、レイはわずかに目を細めた。さっきと同じ、笑っているのかどうかギリギリのやつだ。
「スペアの服は今日も五セット持っています」
「持ち歩いてるんですね毎回」
「万が一のために」
「万が一って、何が起きると思ってるんですか」
「この建物は壁が多いので」
「いやそうだけど」
ソウは頭を掻いた。
そのとき入り口の自動扉が開いて、テルがふわっと入ってきた。
「おつかれー」
「テル、今日は早いな」
「なんか眠れなくて来た」
「眠れなくて来る場所がバイト先なの?」
「まあ、なるようになる」
テルはロッカーに向かいながら、カウンターの前を通り過ぎた。
「あ、自販機の当たり今日三回出た」
「それ報告するな」
テルはにっこり笑って奥へ消えた。
ソウはカウンターに肘をついた。
レイはもう書類に視線を戻していた。ミオはバックヤードにいる。カイは試用展示の機種を磨いている。ナナは奥でお客さんの手続きの対応をしている。
——いつも通りの、夕方。
テレビは音を小さくしてあって、ニュースが流れているのが見える。字幕に「北海道・時計のずれ続報、住民の混乱さらに拡大」と出た。
ソウはそれを一秒見て、視線を外した。
「まあ、なるようになるか」
テルの言葉を借りて、呟いた。
自動扉が開いて、最後の客が入ってきた。閉店まで、あと五十分。
ミオが複製した弁当の容器を、施錠したまえに丁寧に袋に戻すのを、帰り際にソウは見た。
「いつも回収してるんですね」
「うん。ほっとくといけないから」
「二十四時間で消えるって、最初に言ってましたよね」
「そう」
ミオは袋の口を縛った。「消えるとき、周りに小さな穴が開く。それが広がると——まあ、あんまりよくない」
「よくないって、どういう」
「説明が難しいんだけど」とミオは少し考えてから言った。「この世界、思ったより丁寧に作られてるから。変なことしたら、ちゃんとひずみが出る」
ソウは聞いた。「ミオさん、それを千年前から知ってたんですか」
「途中から気づいた」
「途中って」
「ちょっとずつ見えてくるものがあって。でも、ぜんぶはまだ分かってない」
ミオは笑った。「ぜんぶ分かってたら、もっと賢そうにしてる」
ソウは「賢そうにしてますよ、十分」と言った。
ミオは「やだ、うれしい」と笑って、また穏やかな顔に戻った。
外は暗くなっていた。駐車場の照明が白く点いている。
「ねえソウくん」
「はい」
「これからも、話を聞いてくれる?」
ソウは少し考えた。
「聞きますよ」
即答した。
「たぶん、ちょっと重くなるかもしれないけど」
「重いのは普通の友達でもそうなんで」
ミオは一瞬、驚いた顔をした。
それから、ゆっくり、今日一番やわらかい顔で笑った。
「友達、か」
「違いますか」
「違わない。ありがとう、ソウくん」
店の灯りが消えて、鍵を閉めた。
風が少し冷たかった。ソウは自転車を押しながら、今日初めて聞いた話を頭の中で並べてみた。千年。百年。十年。三年。一年。
それぞれの時間が、この小さな携帯ショップに集まっていた。
なんか変、と思う。思うけど——悪くない。
自転車を漕いで、ソウはいつもの道を帰った。
次の日、テレビではまた別のニュースが流れるだろう。どこかの山が低くなっているか、どこかの島が消えているか、どこかの時計がずれているか。
ソウはたぶん、また「気のせいか」と思う。
でも、少しずつ、何かが積み重なっていた。




