第22話「弁当が、消えた」
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テレビの音が、バックヤードに届いていた。
「――北海道・帯広市周辺で確認されていた時計の遅れについて、専門家は『原因は調査中』と述べており――」
ソウはその声を半分だけ耳に入れながら、棚の補充作業を続けていた。スマートフォンのケースを一列に並べて、品番シールを確認して、また並べる。単純作業は頭を空にするのに向いているはずなのに、今日はなぜかうまくいかなかった。
昨日の話が、頭のどこかにひっかかっている。
ミオが千年以上ここにいた、という話。レイが百年、カイが十年、テルが三年、ナナが一年。
ソウは二十歳だ。この店でバイトを始めてから、まだ四か月しか経っていない。
「……気のせいか」
気のせいにしてもちょっと重い話だったな、とソウは思った。
「神崎くん」
声がして振り向くと、ミオがエプロンの紐を結びながら入ってきた。
朱雀ミオ。見た目は三十代のきれいな女性で、でも実際には千年以上この場所にいるらしい存在。昨日そう聞いてから、ソウは彼女のことを見るたびに少しだけ目線の置き場に困っている。
「補充、手伝いましょうか」
「あ、大丈夫です。もうほぼ終わってて」
「そうですか」ミオは頷いて、バッグからタッパーを取り出した。「今日はミートボールにしました。昨日のメンバーから、甘辛いものが食べたいってリクエストがあったので」
「誰からですか」
「カイくんです」
「あいつ、ダイエット中じゃなかったっけ」
「言ってましたね」ミオはふわっと笑った。「でも食べたいって言うから」
そういうところだ、とソウは思った。断れない。断らない。千年分の「断れなかった記憶」が積み重なって、この人は今ここにいるのかもしれない。
「ミオさん」
「はい」
「昨日の話、もう少し聞いていいですか」
ミオは少しだけ間を置いた。それから、タッパーをカウンターに置いた。
「何を、聞きたいですか」
「千年、ずっとここにいたじゃないですか。その間、なんかしんどくなかったんですか」
ミオは首を傾けた。「しんどい」
「退屈とか、孤独とか」
「……どうでしょう」ミオは天井のあたりを見て、ゆっくり考えた。「退屈、というのは、時間が余っている感じですよね。私はあまり時間が余ったことがなくて」
「何してたんですか、千年」
「見ていました。人が集まって、離れて、また集まる。同じことが繰り返されるようで、少しずつ違う。それを見るだけで、なんというか――」
ミオは言葉を探した。
「足りていた、という感じ、かな」
ソウは黙った。「足りていた」という言葉が、予想と少しずれていた。幸せ、でも、満たされていた、でも、楽しかった、でもなく、「足りていた」。
そのずれが、なんとなくリアルだった。
開店は十時だった。
九時五十九分に、バタバタと足音がして、ナナが飛び込んできた。
「間に合った!」
「一秒遅い」とソウは言った。
「えっ」ナナは時計を見て、引きつった顔をした。「あれ、また?」
「また」
「でも時間止めて走ってきたんですよ!?全力で!なんで毎回!」
「俺に聞くな」
日向ナナ。十八歳。時間を停止できるのに、毎回ギリギリかそれ以下で到着する女。なぜそうなるのかは今も解明されていない。本人も謎らしい。
「あの、店長には」
「まだ気づいてないっぽい」
「やったあ」ナナは胸を撫で下ろして、エプロンを手に取った。「じゃあセーフ」
「定義が違う」
ナナはくるくると動きながらエプロンを結んで、ショップフロアの方へ出ていった。ソウはその背中を見送って、「なんか変じゃない?」と小声でつぶやいた。
時間を止めても間に合わないって、普通に考えたら、おかしい。
でも「おかしい」で止まると仕事にならないので、ソウはケースの補充の続きをした。
午前中は比較的穏やかだった。
機種変更の相談が二件、プランの見直しが一件、「画面が割れた」と持ってきた客が一件。最後の客は画面がひびだらけで、でも「全然使えてますよ」と満足そうに言っていた。ソウは「修理をおすすめします」と三回言って、三回とも「いや大丈夫」で返された。四回目は諦めた。
昼前に、カイが来た。
「神崎、ミートボールって聞いた?」
「聞いた。お前がリクエストしたんだろ」
「そう!ダイエット中だから甘辛いもの食べてエネルギー補給しないとな」
「ロジックがおかしい」
御堂カイ。二十二歳。重力を局所的に操作できるが、自分の体重だけはどうにもならない。ナルシストで口が達者で、でも細かいところで妙に正直だ。
「今日、重力の練習してきたんだよね」とカイはカウンターに肘をついた。「公園で落ち葉を浮かせる練習」
「公園で」
「誰もいない時間帯だって。朝の五時」
「え、何時に起きてるんですか」
「四時半」カイは平然と言った。「だって練習したかったから」
ソウは少し意外に思った。チャラくて口先ばかりに見えて、この人はちゃんと努力している。なぜ落ち葉を浮かせたいのかはよくわからないけど。
「うまくいったんですか」
「まあまあ。葉っぱはいい感じに浮いた。でもなんか、途中で地面がぶわって盛り上がったんだよね」
「……は?」
「土が、こう、球みたいになって。三秒くらいで戻ったけど」
「それニュースになってないですか」
「なってないなってない」
ソウは少し考えて、「気のせいか」とつぶやいた。でも今回はあまり気のせいな感じがしなかった。
昼休憩はバックヤードだった。
ミオがタッパーを開けると、ミートボールの甘辛い匂いがふわっと広がった。カイが「やったー」と小さく言って、ナナが「いい匂い」と顔をほころばせた。霧島テルは壁際の椅子でうとうとしていたが、匂いで目を覚ました。
「ご飯」
「そう、ご飯」とミオが応えた。
テルはのろのろと椅子から立って、箸を受け取った。霧島テル。見た目十六歳で、性別がよくわからなくて、確率を操作できる。でも操作できるのは「本当にどうでもいいこと」だけ。本人はそれを特に気にしていない。
五人で昼を食べた。ソウはミートボールを一口食べて、「うまい」と言った。
「甘辛って難しいんですよ」とミオが言った。「甘すぎると子供っぽくなって、辛すぎると大人すぎて」
「ちょうどいいです」
「よかった」
カイが「俺のリクエスト通りじゃん」と嬉しそうに言って、ナナが「カイさんのリクエストじゃなくてミオさんの腕ですよ」と真顔で訂正した。カイは「それはそうだけど」と口をとがらせた。
テルが自販機の缶コーヒーを当たりで引いて、「ほら」と言った。誰も驚かなかった。
穏やかだった。
そこに、レイが入ってきた。
氷室レイ。見た目二十五歳で長身で、スーツがいつも似合っていて、全員の中で最も有能なバイトスタッフで。物質をすり抜けられる。ただし全裸でないと発動しない。
「お疲れ様です」
「レイさんも食べますか」とミオがタッパーを差し出した。
「いただきます」レイは箸を取って、静かに座った。
五人が六人になって、バックヤードが少しだけ狭くなった。
ソウはそれを悪くないな、と思った。
問題が起きたのは、十四時過ぎだった。
ソウがフロアで客の対応をしていたとき、バックヤードからナナの声がした。
「ええっ」
妙な声だったので、対応が一段落したタイミングでソウは引っ込んだ。
バックヤードでは、ナナとミオが棚の前に立っていた。
「どうしたんですか」
「ミオさんの弁当箱が」とナナが言った。「消えてる」
「え」
棚の隅に置いてあったはずのタッパーが、なくなっていた。
「放置したんですか」とソウはミオを見た。
「いいえ」ミオは首を振った。「今日は念入りに確認したんです。蓋もちゃんと閉めて、ここに置いたはずで」
「でも消えてる」
「消えてる」
沈黙した。
「あの、ミオさん」とソウは言った。「複製したタッパー、二十四時間で消えるって言ってましたよね」
「はい」
「じゃあ……」
「でも今日作ったのは複製じゃないんです」ミオは静かに言った。「本物のタッパーで持ってきたんですよ」
「本物が消えた?」
「……消えた」
ソウとナナは顔を見合わせた。
「それ、なんか変じゃない?」
「変ですね」とミオは言った。表情が少しだけ硬かった。「本物は、消えないはずなので」
テルを呼んで、カイを呼んで、レイも含めて全員バックヤードに集まった。
「本物のタッパーが消えた」とソウが説明した。
カイは腕を組んだ。「本物って、どのくらい本物?」
「ホームセンターで買った」とミオが答えた。「複製ではないです」
「確率的に考えると」とテルがゆっくり言った。「本物の物体が突然消える確率は」
「ゼロ」とレイが静かに言った。
「ゼロ」
沈黙した。
「でも消えた」
また沈黙した。
ソウはテレビを見た。バックヤードの壁際のテレビは、午後のニュースを流していた。
「――先週の富士山の高さ減少に続き、本日、岩手県沿岸部に新たな空白地帯が確認されました。幅およそ二十メートル、長さ百メートルの範囲で、地面の組成が通常とは異なる状態になっているとのことで、専門家は――」
ソウはそのニュースを聞いて、それから棚の空白を見て、それからミオの顔を見た。
ミオは、ニュースを見ていた。
何かを考えているような、あるいは何かを数えているような顔だった。
「ミオさん」
「はい」
「今のニュース、見てた?」
「見ていました」
「関係あります?」
ミオは少しだけ間を置いた。
「……わからない」と彼女は言った。「でも、増えてきていると思っています。こういうことが」
「こういうことって」
「何かが、消えること」
レイがわずかに眉を動かした。カイが「え、なに、怖いな」と言った。ナナが「どういうこと?」と首を傾けた。テルは缶コーヒーを飲んだ。
ソウは「消えること」という言葉を、頭の中で転がした。
タッパーが消えた。富士山が低くなった。島が消えた。岩手の空白地帯。帯広の時計の遅れ。
全部バラバラのニュースで、全部別々の話で、でも全部「何かがなくなる話」だった。
「……なんか変じゃない?」
それはほとんど独り言だったが、今回ばかりは誰も「気のせいだろ」と言わなかった。
午後の営業は続いた。
クレームが一件。充電ケーブルの交換が二件。新規契約が一件。ソウはいつも通り説明して、いつも通り案内して、いつも通り笑った。
でも何かが、今日はどこかちがった。
うまく言えない。さっきミオが言った「増えてきていると思っています」という言葉が、頭から離れなかった。千年ここにいる人間が「増えてきている」と言う。それは、かなり長い時間をかけて観測した結果として言っている。
百年ここにいるレイも、黙って何かを考えていた。
閉店前、ソウはレイと二人でフロアの片づけをした。
「レイさん」
「はい」
「ミオさんが言ってたこと、心当たりあります?」
レイはポップスタンドを折りたたみながら、少し間を置いた。
「少し、あります」
「どんな」
「うまく説明できないのですが」レイはスタンドを棚に戻した。「この世界には、本来あるはずのものが、いくつかあって。それが最近、減っている気がします」
「本来あるはずのもの、って」
「たとえば」レイは少し考えた。「一定であるはずのものが、一定でなくなっている、という感じで」
ソウには半分しかわからなかったが、半分はわかった。
「富士山とか」
「そうかもしれません」
「島とか」
「そうかもしれません」
「タッパーとか」
「……それは少し違うかもしれませんが」
「でも同じ方向の話?」
レイは答えなかった。答えない、ということが答えだった。
ソウは窓の外を見た。夕方の街が、いつもと同じように動いていた。車が走って、人が歩いて、信号が変わる。何も変わっていないように見えた。
でも何かが、少しずつ、消えているかもしれない。
「……気のせいか」
今日は、そう言ってもあまり気のせいな気がしなかった。
閉店後、バックヤードでミオがタッパーの件を店長に話そうとしていた。
「いや、弁当箱なら私が補償しますよ」と田所店長は言った。「どこで買ったんですか」
「いえ、そういうことじゃないんです」とミオは困ったように言った。
「紛失ですよね、つまり」
「紛失、かどうか」
「まあバックヤードに鍵かけてないのが悪いんですよ。気をつけないとな」
店長はそれ以上深く考えなかった。田所マサルはNPCで、世界が変な方向に動いていても「最近なんか変だな」くらいの認識で済ませられる人だった。それは強さとも言えるし、見えていないとも言えた。
ソウは着替えながら、ミオの顔を見た。
ミオはもう何も言っていなかった。ただ静かに、荷物をまとめていた。
千年ここにいる人は、何を考えているんだろう。
消えていくものを、何個まで数えたことがあるんだろう。
「ミオさん、お疲れ様でした」
「お疲れ様でした」とミオは言った。笑顔だった。「明日は鶏肉にしようかな」
「楽しみにしてます」
ミオはふわりと笑って、先に出ていった。
ソウはしばらくそこに立って、棚の隅の、タッパーがあったはずの空白を見た。
何もなかった。
本当に、何もなかった。
帰り道、スマートフォンにニュースの通知が来た。
「岩手の空白地帯、範囲が拡大。原因は依然不明」
ソウはそれを見て、少し立ち止まった。
空白が、広がっている。
「……なんか変じゃない?」
今度は小声ではなかった。
でも通りには誰もいなかったので、その言葉は夕暮れの空気に溶けて、消えた。
次の日、ミオは鶏肉の弁当を持ってきた。本物のタッパーで、ちゃんとそこにあった。ソウはほっとした。でも帰りがけに、テレビで「四国沖に新たな空白地帯」というニュースが流れた。




