第78話「日常に戻る」
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翌日は、いつも通りだった。
ナナが一分遅刻した。「間に合わなかった!」と言いながら入ってきた。汗をかいていた。
「おはようございます」とソウが言った。
「止めなかった!」
「えらいですね」
「えらいじゃなくて普通のことなんだけど」
昨日のことなど何もなかったかのような朝だった。ただ——ナナが荷物を置くとき、一瞬だけ、静かな目をした。
カイが開店前の在庫確認をしていた。棚の上に手を伸ばして、少し重そうなダンボールを持ち上げた。
「重力、使いましたか」とソウが聞いた。
「少しだけ」とカイが答えた。「昨日のことを考えると、使っていいのか分からなくなってきました」
「……少しだけならいいと思います」
「基準が難しいですね」
「そうですね」
カイが「少しという言葉の定義が、昨日から変わった気がします」とつぶやいた。
テルがコーヒーを飲みながら「何か調べてたか?」とソウに聞いてきた。
「昨日のことをです」
「何が分かった」
「まだ何も。でも、調べないよりは」
「まあ」とテルが言った。「なるようになる」
今日の「なるようになる」には、少しだけ粘りが戻っていた。諦めでも、開き直りでもなく——これから何かがあるかもしれないと思っているような声だった。
午後、レイが在庫室に入った。
しばらくして、ソウが在庫確認のために同じ部屋に入った。
そのとき——どさっ、と音がした。
ソウが振り返ると、床にレイの制服がきれいに折り畳まれるように落ちていた。
「……レイさん」
「はい」と、壁の向こうから声が聞こえた。
「なんでですか」
「棚の裏に商品が落ちていたので」
「そのために服を……」
「仕様なので」
ソウは目をつぶった。今日は頭が特に働かなかった。
しばらくして、壁の向こうからずぶっという音がして、レイが戻ってきた。拾ってきた商品を持ちながら、服を着直しながら、完全に平静だった。
「……あの」とソウが言った。
「何ですか」
「昨日のことを考えて、頭が混乱してる」
「ソウさんが混乱しているときも、在庫は棚の裏に落ちます」
「それは分かってますが」
「現実は続きます」と、レイが言った。「それは、悪いことではないと思います」
ソウは少し考えて、「そうですね」と言った。
昼のテレビが速報を出した。
〈関東・東海の一部で、コンパスが一時的に誤動作する現象が相次いでいる。磁場への影響が懸念されるが、原因は不明〉
磁場まで影響が出ている。
ソウはメモに「関東・東海、コンパス誤動作——磁場変動?」と書いた。気温、気圧、そして今度は磁場。副作用が積み重なっている。
夕方、ミオが「昨日の続きを、また話せますか」とソウに言った。
「いつでも」
「少しずつ話します。一度にまとめてではなくて」
「それでいいです」
「ありがとうございます」
ミオが少し間を置いた。
「ソウさんに頼みたいことは——今は言えないかもしれないけど、答えが出たら言います」
「待ちます」
「急かさないでいてくれてありがとうございます」
「急かしたくないので」
閉店後、全員が帰った。
ソウは一人、休憩室に残った。
スマホを開いた。
何を調べればいいか、最初は分からなかった。でも、昨日ミオが言ったことを順番に思い出した。
世界は安定化できる。方法は「消えること」。でもミオは「頼みたいことがある」と言った。消えることが唯一の方法なら——別の方法があるかもしれない。
ソウが検索した。
「世界の安定性」「ホログラフィック宇宙」「消えない方法」
出てくるのは学術論文と、SF小説のレビューと、哲学のブログだった。
どれも答えではなかった。
でも——ある論文の中に、一つだけ、引っかかる言葉があった。
「観察者の持続が、量子系の崩壊を遅延させる」
ソウはその文を、三回読んだ。
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