第73話「ホログラム」
---
しばらく、誰も何も言わなかった。
波の音が戻ってきた。風が吹いた。
「……描いた絵」とナナが繰り返した。
「はい」とミオが言った。
「比喩ですか」
「比喩ではないです」
ナナがソウを見た。ソウは海を見たまま、何も言わなかった。
「少し説明してもいいですか」とミオが続けた。「難しくなるかもしれませんが」
「できるだけ分かりやすくお願いします」とカイが言った。
「私も千年かけて少しずつ理解したものを、今日まとめて話します。おかしいと思ったら聞いてください」
ミオが海を向いたまま話し始めた。
「私たちが見ている世界——この空も、この海も、この砂も——全部、情報として記録されたものです。本物のように見えますが、本当は絵に近い。映画のスクリーンに映っている映像に近い」
「映像というのは、どういう意味ですか」とレイが聞いた。
「物理学の話になりますが——ブラックホールという天体があります。物が落ちていくと、二度と出てこられない場所です。でも昔、ある学者が気づいたことがあります。ブラックホールの中に落ちた情報は、消えるわけではなくて、表面に記録される、と」
「表面に記録される」
「そうです。内部の三次元の情報が、表面の二次元に記録されている。この宇宙も同じだ、という考え方があります。私たちが立っているこの場所は、もっと遠い場所に存在する情報の——投影、なんです」
全員が黙った。
テルが「……どういうこと?」と言った。
「この世界は、ホログラムのようなものです」とミオが言った。「本物に見えるけれど、本物の情報は別の場所にある」
「えっ」とカイが言った。「じゃあ俺の体重も嘘なんですか」
「……そういう方向で理解していただいても」
「いや、嘘じゃないですか。毎日量ってたのに」
「情報としては本物ですよ。投影されている体重も、記録されている体重と同じ数値です」
「でも実態がないんですよね」
「あなたが感じる体重には実態があります。ただ、その実態がどこに保存されているか、という話で——」
「俺の体重の保存先は別にあるんですか」
「そういう言い方もできます」
カイが「……体重管理の概念が変わる」と言った。
「お前の関心がそこなのか」とテルが言った。
「重力を扱う者としては気になります」
「じゃあ私が時間を止めてたのも」とナナが言った。「投影の中の時間を止めてたってこと?」
「そうです」とミオが言った。
「本物の時間は止まってないの?」
「本物の時間——情報が記録されている場所の時間——は、止まりません。ただ、こちら側の時間を止めることはできる」
「こちら側だけ止まってるのか……」とナナが少し遠い目をした。「なんか、ゲームみたい」
「そうですね。近い感覚だと思います」
「そのゲームを、誰かが作ったってこと?」
「それについては——まだ分かっていません。自然に発生したのかもしれないし、誰かが設計したのかもしれない」
「まあ」とテルが言った。「そういうことなら、納得はできる」
「テルさんが一番あっさりしてますね」とナナが言った。
「今まで確率が操作できてたのが、なんか変だと思ってたんだよ。こっちが投影なら、数値を書き換えることができてもおかしくない」
「それは……わりと正確な理解です」とミオが言った。
「じゃあ俺がやってたのは、プログラムのバグ使いみたいなもんか」
「バグ、というのは一つの言い方として正しいです」
「まあ、なるようになる」とテルが言って、海を見た。今日の「なるようになる」は、どこか落ち着いていた。
「ミオさん」とレイが言った。
「はい」
「千年前から、この世界がそういうものだと知っていたんですか」
「知っていました。生まれた頃から、何となく分かっていました。分かっていて、でも誰にも言えなかった」
「なぜ言えなかったんですか」
「信じてもらえないと思っていたから。それと——」
ミオが少し間を置いた。
「この世界が投影だと知っていても、生きていることは本物だから。知らせることで何かを変えたかったわけじゃなかった。ただ、今は——変えなければいけないかもしれないと思っています」
「変える、というのは封印のことですか」
「それも含まれます。でも、もっと大事なことがあります」
ソウは、ずっと黙って聞いていた。
海を見ながら、ミオの言葉を一つずつ受け取っていた。おかしいとは思わなかった。信じられないとも思わなかった。
ただ——一つだけ、聞かなければいけないことがあった。
「ミオさん」とソウが言った。
「はい」
「俺たちが、この世界に生まれてきた意味は何ですか」
ミオが少し間を置いた。
「それも、話したかったことです」
波が来た。
「あなたたちは——」とミオが言った。
「——この世界が自然発生した『問い』に対する答えとして、生まれました」
---




