第70話「最初から知っていた」
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火曜日の朝、ミオはいつも通りに出勤してきた。
「おはようございます」と言って、ロッカーにかばんを置いて、エプロンをつけた。接客は丁寧で、受け答えも普通だった。
でもソウは、何かが違うと思った。
うまく言えなかった。ただ、時々——ほんの一瞬だけ——ミオが遠くを見るような目をしていた。窓の外ではなく、もっと遠く、ここではないどこかを見ている目だった。
昼休憩に、カイが「なんか考え込んでる感じがしますね、ミオさん」と言った。
「そうかな」とミオが言った。
「昨日いろいろ話したから、頭の中が整理中なんじゃないですか」とナナが続けた。
「卵焼きも練習中だしな」とテルが言った。「忙しいな、ミオさん」
「崩れる練習と、考える練習を同時にしてます」
「器用だ」
「下手な分野が二つに増えただけです」
一同が笑った。ミオも笑った。
笑い終わったあと、ミオの目がまた少し遠くなった。ソウだけがそれを見ていた。
昼のテレビが速報を流した。
〈北海道に続き、青森・秋田の観測点でも気温と気圧の連動変動が確認された。専門家からは「通常の気象現象では説明が困難」との見解も出ている〉
「三日で三県」とテルが言った。
「そうですね」とソウが答えた。
「まあ、なるようになる」
今日の「なるようになる」は、少し声が小さかった。
ソウはメモに「青森・秋田、気温・気圧連動——範囲拡大」と書いた。北海道の記録の下に並べると、東北全体に向かっていくような絵になった。
午後の接客が一段落した頃、ミオがソウの横に立った。
「ソウさん」
「はい」
「昨日話したこと——みんな、ちゃんと聞いてましたか」
「聞いてました」
「重くなかったですか」
「重かったですよ」とソウは正直に言った。「でも聞けてよかったと思います」
ミオが少し間を置いた。
「本当は、もっと早く話すべきでした」
「早く、というのは」
「ずっと一人で抱えてきたことが、たくさんあります。封印のことだけじゃなくて。この世界のことや、みんなのことや——」
ミオが一度、言葉を止めた。
「ソウさんのことも」
「俺のことも」
「うん」
ソウはその先を聞こうとして——止めた。ミオが何かを選んで言おうとしていると感じたから。
「今日はここまでにします」とミオが先に言った。「言葉の準備が、まだできていないから」
「準備が必要なことなんですか」
「千年かけて知ったことを、どう言えばいいかを——今、考えています」
ソウは何も言えなかった。
千年、という言葉の重さが、返事を塞いだ。
「ミオさんと話しましたか」と、レイがそっとソウに聞いてきた。
「少し」
「封印のことですか」
「準備をしているそうです」
レイが少し間を置いた。「ミオさんは、私より先に決まっているんですね」
「完全には決まっていないようですが、方向性としては」
「そうですか」
「レイさんはまだ考えているんですよね」
「考えています。でも——ミオさんが先に向かっているなら、私も真剣に向き合わないといけない気がします」
「レイさんのペースで考えてください」
「ペースって何ですか」
「焦らずに、ということです」
「残り六十二日で、焦らずに、というのは矛盾していませんか」
「……矛盾してるかもしれないですね」
レイが「仕様なので」と言って、接客に戻った。
夕方、閉店一時間前。
ミオが「少し早く上がらせてもらえますか」と田所店長に声をかけた。
「具合悪いか」
「いいえ。一人で考えたいことがあって」
「そうか。行っていいぞ」
余計なことは何も言わなかった。ミオが「ありがとうございます」と頭を下げた。ソウのそばを通るとき、小声で「また明日」と言った。
「また明日」とソウが返した。
ミオが店を出た。
ソウは五分ほど待ってから、「少し外に出てきます」と言って店を出た。
店から歩いて二分のところに、小さな公園があった。
ブランコが二つ、砂場が一つ、ベンチが一つだけの公園だった。夕暮れが近くて、空は橙と青の中間みたいな色をしていた。
ミオは公園の真ん中に立っていた。
ベンチには座らずに、ただ上を見ていた。
空を見ていた。
ソウは公園の入り口で立ち止まった。声をかけていいのか分からなかった。ミオが気づいているのか、いないのか、それも分からなかった。
ミオの口が、小さく動いた。
声は聞こえなかった。
でも唇の動きで、ソウには分かった気がした。
「ごめんなさい」
誰もいない公園で、ミオが空に向かって繰り返していた。
何度も、何度も。
誰かに——何かに——謝っていた。
ソウは入り口から動けなかった。声をかけることができなかった。
ミオが誰に謝っているのか。
なぜ空に向かって謝っているのか。
ソウには、分からなかった。




