第67話「ナナが初めて走った」
---
土曜日、ナナが遅刻した。
一分遅刻だった。
息を切らせて入ってきた。「間に合わなかった!」と言った。
「おはようございます」とソウが言った。
「止めなかった! 本当に止めなかった!」
「おはようございます」
「でも間に合わなかった!」
「一分です。大丈夫です」
「大丈夫じゃない、遅刻は遅刻だよ」
「そうですね」
「でも」とナナが荷物を置きながら言った。「止めなかった。ちゃんと走って来た」
「えらいですね」
「えらいじゃなくて普通のことなんだけど」
でもナナは少しだけ胸を張っていた。ソウはそれを見ながら、「よかった」と思った。
田所店長が「ナナ、遅刻だ」と言った。
「すみません」
「次から気をつけろ」
「はい」
「ちゃんと走ってきたか」
「はい」
「そうか」と店長は言って、レジに戻った。
ナナがソウに「店長、なんで分かるんだろ」と小声で言った。
「汗かいてるから分かると思います」
「でも走ってきたって言い当てた」
「ナナさんはいつも止めてたから、汗かいてることが珍しいんじゃないですか」
「……そうか、バレてたんだ」
「バレてたと思います」
「でも何も言わなかった」
「言わなかったですね」
ナナが「店長って、ほんとにいい人だな」と言った。
午前中の接客は忙しかった。
土曜日の午前はいつもそうだ。プラン変更、機種変更、修理受け取り、端末の設定方法の問い合わせ。ソウとナナがカウンターをはしごした。
昼前、少し落ち着いた時間に、ナナがソウに話しかけた。
「昨日の夜、ちょっと考えてたんだけど」
「何を」
「封印のこと」
「どんなことを考えましたか」
「自分は今の自分でいたい、って思った」
「今の自分というのは」
「時間を止められる自分。能力がある自分。でも——」
ナナが少し間を置いた。
「でも昨日、止めなかったじゃないですか」
「うん」
「止めなくても、ナナさんはナナさんだったと思います」
「一分遅刻したけど」
「一分遅刻したナナさんでした」
「同じなの?」
「同じだと思います」
ナナがしばらく考えた。
「……封印しても、ナナはナナなのかな」
「俺はそう思います」
「俺って言わないでよ、女子に」
「すみません。俺はそう思います」
「それ直ってない」
「直せないんですが」
ナナが笑った。
昼休憩、テレビが速報を出した。
〈岩手県沿岸部で、今朝から一部の港で船の係留ロープが原因不明で切れる事故が相次いでいる。強風などの気象条件はなく、原因は不明。船体への被害は報告されていない〉
係留ロープが切れる。
ソウはその速報を見ながら、「境界の乱れ」というレイの言葉を思い出した。ロープも一種の境界だ。物と物をつなぐ接続が切れる。それが副作用として出てきているとしたら。
「レイさん」
「はい」
「係留ロープの話、どう見ますか」
「境界の乱れが、物理的な接続に影響している可能性があります。ロープが切れるというのは、物質の境界が解けていることの表れかもしれない」
「人への被害は?」
「今日はなかったそうです。でも、進行すれば」
「そうですね」
ソウはメモに「岩手、係留ロープ切断」と書いた。
夕方、テルがソウに「ソウ、じゃんけんしようか」と言った。
「今ですか」
「うん」
ソウは手を出した。テルがグーを出した。ソウがパーを出した。ソウが勝った。
「また勝ってしまいましたが」
「だよな」とテルは言って、自分の手を見た。「まだずれてる」
「操作はしてないですよね」
「してない。でも確率がずれたまま直ってない」
「副作用が残ってるんですね」
「多分」
テルが少し考えて、「俺さ、一回じゃんけんで負けたいんだよ」と言った。
「言ってましたね」
「六十三日あるんだろ」
「あります」
「一回くらい、自然に負けられると思う?」
「確率のことなので分かりませんが」とソウは言って、「でも今、副作用が残ってるとしても、少しずつ直っていく可能性はあると思います」
「直っていく根拠は」
「使うのを止めれば、いつかは」
「いつかは、か」
「急ぎたいですか」
「急ぎたい、というか——」
テルが少し間を置いた。
「一回負けてから、封印を考えたいかもしれない」
「そうですか」
「負けたことのない俺が封印を考えるのと、一回負けた俺が考えるのじゃ、違う気がして」
ソウはその言葉を少し考えた。「なんとなく分かる気がします」
「なるようになる、とは思う。でも、一回くらい普通の確率で負けてみてから、なるようになりたい」
「六十三日、あります」とソウが言った。
「そうだな」
閉店後の帰り道。
ナナが自転車で隣に来た。
「今日、一分遅刻した」
「しましたね」
「でも、気持ちよかった。止めないで走ったの、すごく久しぶりだったから」
「久しぶりですか」
「一年以上ぶりかもしれない。本当に全力で走ったのが」
「どうでしたか」
「足が痛い」
「そうですか」
「でも気持ちよかった」
ナナが少し笑った。「明日も止めないで走ってみようと思う」
「何分遅刻するつもりですか」
「今度は間に合わせる。ちゃんと早く家を出る」
「えらいですね」
「えらいじゃなくて普通のことなんだけど」
「今日は普通のことができたので、えらいと思います」
ナナが「じゃあ素直にありがとう」と言って、先に行った。
ソウは夜空を見た。
星が少し、増えた気がした。
気のせいかもしれない。でも、気のせいにしなかった。




