第65話「一致してた」
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金曜日の昼、テツジンが来た。
「ゼロになったら、何が起きるんですか」
ソウが座るなり聞いた。テツジンが少し目を細めた。
「急ですね」
「ナナさんが聞きたがっていたので」
バックヤードのドアが少し開いた。ナナが顔を出していた。ソウが「来てください」と言うと、ナナが椅子を引いてテツジンの隣に座った。
「聞いていいですか」とナナが言った。
「どうぞ」
「ゼロになったら、世界はどうなりますか」
テツジンが少し間を置いた。
「物質の境界が消えます」
「消える、というのは」
「壁と空気の区別がなくなります。水と地面の区別がなくなります。光と空間の区別がなくなる」
「……それって、崩壊ですか」
「崩壊という言葉が正確かどうかは分かりません。でも、現在の形では存在できなくなります」
「人は、NPCは」
「情報パターンとして存在はしていますが、現在のような形では——」
「死ぬということですか」
テツジンが「死ぬ、という概念が、その状態に当てはまるかどうかが分からない」と言った。
「分かりやすく教えてください」
「今のような形では、存在できなくなります。それ以上は正確には言えません」
ナナが「アップデートは?」と聞いた。
「アップデートたちは——情報のパターンとして、境界がなくなった世界でも存在は続けると思います。ただし、今のような形でではありません」
「形が変わる、ということ?」
「能力がなくなる。この世界での自己認識が変わる。NPCとして再構成される可能性があります」
「NPCとして、というのは」
「今の記憶を持たない、普通の住民として」
「消えるんじゃなくて、忘れるということですか」
「そう言えるかもしれません」
ナナが少し間を置いた。「……それって、消えることと同じですか」
「あなたが、今のあなたとして存在しなくなることは確かです」
ナナが「そっか」と言った。声が小さかった。
「でも」とテツジンが言った。
「でも?」とソウが聞いた。
「ゼロにならなければ、そうはならないかもしれない」
「ならない方法はあるんですか」
「一つ、試したことのない方法があります」
ソウとナナが同時にテツジンを見た。
「能力を封印することです」
「封印」
「自分の意志で、永久に手放すことを宣言する。そうすることで、その能力に由来する世界への負荷が完全に切れる。副作用の自律的な進行も止まる可能性があります」
「使わないだけでは足りないんですか」
「使わなくても、能力が存在している限り、世界とのつながりは残っています。完全に封印することで、そのつながり自体を切れるかもしれない」
「一人が封印したら、どのくらい変わりますか」
「計算上は、安定性が十〜二十ポイント回復する可能性があります。全員が封印すれば、理論上は九十パーセント台に戻せる」
「全員が封印すれば、世界は元に戻る」
「元に戻る、という表現が正確かどうかは分かりませんが、安定する可能性が高い」
ナナが「封印したら、能力はどうなるんですか」と聞いた。
「二度と使えなくなります」
「ずっと」
「永久に」
ソウは少し間を置いた。
「アップデートとして存在しなくなる、ということですか」
「能力がなければ、アップデートとしての特性がなくなります。ただし記憶はあります」
「記憶はある」
「はい。消えるのではなく、普通の住民に近い状態になります」
「さっきと話が違いますね」とナナが言った。「さっきは『今の記憶を持たないNPCとして再構成される可能性』と言っていた」
「ゼロになった場合の話と、封印した場合の話が違います」とテツジンが言った。「ゼロになれば、記憶も保証できない。封印すれば、記憶は残る」
「つまり」とナナが言った。「封印すれば、みんなのことを覚えたまま普通の人になれる」
「可能性としては、そうです」
「封印する方法は何ですか」とソウが聞いた。
「自分の意志で宣言することです。強制はできない。本人が心から手放すと決めなければ、封印は成立しません」
「それだけですか」
「それだけです。能力が能力である所以は、世界との接続にあります。接続を自分で断つと決めた瞬間に、切れる」
「試したことはないんですか」
「私が知る限り、これまでアップデートで封印を選んだ例はありません」
「なぜですか」
「誰も教えてあげられなかったから、かもしれません」
テツジンが立ち上がった。
「これ以上は、今日は話せません。みんなで考えてみてください」
「また来ますか」
「来ます」
テツジンが帰った後、ナナがソウを見た。
「ソウ」
「はい」
「みんなに言う?」
「言います」
「封印って言葉、怖くない?」
「怖いです」
「私は……どうしたらいいか分からない」
「今すぐ決めなくていいと思います」
「でも六十三日」
「六十三日の間、考えればいいと思います」
ナナが少し間を置いた。「ソウって、いつも落ち着いてるよね」
「落ち着いてないですよ」
「でも怖い顔しない」
「怖い顔してたら、みんながもっと怖くなりそうで」
「……それって、意識してやってるの?」
「無意識です。気づいたらそうなってました」
ナナが「そっか」と言って、手帳を開いた。
「記録しておく。今日のこと」
「お願いします」とソウが言った。
ナナが書き始めた。手帳のページに、今日の日付と「封印、という言葉を初めて聞いた日」と書いた。




