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アップデートしてください。〜うちのバイト先、なんか変な人しかいないんですけど〜  作者: ハル
糸が繋がる

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第59話「メモ」

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 土曜日の朝。


 ソウが古本屋に行ったのは開店前だった。


 レイに借りた本を返しに行く、という名目だったが、本当は昨日のレイの言葉が気になって、もう一度あの棚を見てみたかった。


 「もう自律的に動いている」。


 その言葉が、昨日の夜からずっと頭の中にあった。



 



 古本屋は開いていた。


 入口のベルが鳴った。ソウは奥の物理学の棚に向かった。昨日レイが立っていた棚だ。


 ホログラフィック宇宙論。量子力学。ブラックホールと情報理論。


 ソウは棚の本を一冊ずつ確認した。読めるかどうかは別として、何が書いてあるか大まかに確認したかった。


 棚の奥に手を伸ばしたとき、何かが落ちた。


 本と棚板の隙間に挟まっていた紙が、床に落ちた。


 拾い上げた。


 一枚の紙だった。ちぎれた紙に、細い文字で書いてある。


「閾値まで残り87日」


 字が綺麗だった。


 見覚えがある字だ、と思って、ソウは止まった。


 レイの字だ。



 



 店に戻ると、レイはすでに出勤していた。


 ソウはメモを持ってレイのそばに行った。


「これ、レイさんの字ですか」


 レイが紙を見た。一瞬、目が止まった。


「……そうです」


「古本屋の棚に挟まっていました」


「落としていたとは気づきませんでした」


「閾値まで残り87日、というのは何ですか」


 レイが少し間を置いた。


「……私が計算した数字です」


「何の数字ですか」


「安定性がゼロになるまでの日数の、一つの試算です」


「87日」


「それを書いた時点での試算なので、現在はもっと短くなっています」


 ソウはその紙を見た。小さな文字が、細くきっちりと書かれている。


「いつ書いたんですか」


「三週間ほど前です」


「三週間前に、すでに計算していた」


「はい」


「それを、誰にも言わなかった」


「……言えませんでした」


 ソウは少し間を置いた。


「今は何日ですか」


「今の試算では——」とレイは言って、止まった。「もう少し待ってください。今日の安定性を確認してから、正確な数字を出します」


「今日も確認できるんですか」


「壁に触れれば分かります」


「じゃあ」


「少し待ってください」



 



 レイが「少し待ってください」と言ったとき、ソウは反射的に壁の方を向いた。


 今日はパサッという音がなかった。


 ソウが振り返ると、レイはそのままの格好で目を閉じていた。壁に片手を添えている。指先だけが、わずかに壁の表面に触れていた。


「……触れるだけで分かるんですか」


「今は、これで十分です」


 三十秒ほど経った。レイが目を開けた。


「現在の安定性は五十八パーセントです」


「昨日より下がりましたか」


「昨日と比べると、〇・三ポイントほど」


「一日〇・三ポイントずつ下がるとすると」


「百九十三日で、ゼロになります」


「三週間前の87日より伸びた」


「加速度が、少し落ちているようです。みんなが能力を使うのを止めたことで、速度が落ちた可能性があります」


 ソウはその数字をメモした。「五十八パーセント、一日〇・三ポイント低下、現ペースで百九十三日」。


「でも、止まってはいない」


「はい」


「使わなくなっても、下がり続けている」


「はい」



 



 田所店長が「ソウ、客だぞ」と声をかけてきた。


「はい、今行きます」


 ソウは紙を折って、ポケットに入れた。


「レイさん」


「はい」


「この計算を続けていましたか」


「ええ」


「これからも続けてください。一日〇・三ポイントが〇・四になったり、〇・二になったりすれば、何かが変わっているということです」


「分かりました」


「あと、次に何か気づいたら、一人で古本屋の棚に挟まないでください」


 レイが少し間を置いた。


「……善処します」


「善処ではなく、絶対に言ってください」


「……分かりました」


 ソウはフロアに出た。


 ポケットの中のメモが、薄く折りたたまれて入っている。


 「閾値まで残り87日」。


 三週間前に一人で計算して、一人で持っていた。


 それを、今日は二人で持っている。


 数字は変わっていない。でも、少しだけ重さが違う気がした。



 



 昼過ぎ、謎のおじいさんが来た。


 いつも通りの格好で、いつも通りの歩幅で、ソウが声をかける前に「今日は少し話しましょう」と言った。


 ソウは田所店長に目配せして、おじいさんの向かいに座った。


「前回、83日と言いましたね」


「はい。覚えてます」


「今は、いくつだと思いますか」


 ソウはポケットのメモを触った。


「百九十三日です」


 おじいさんが目を細めた。


「調べましたか」


「調べました」


「誰が」


「レイさんが計算していました。三週間前から」


「そうですか」


「おじいさんの83日と一致しませんね」


「私の数字は別の算出方法です」とおじいさんは言った。「どちらが正しいとは言えない」


「どちらを信じればいいですか」


「どちらも信じればいい」


「両方信じろということですか」


「数字は一つの見方です。本当のことは、数字の外にあることが多い」


 ソウは少し考えた。「おじいさんは、俺たちに何をしてほしいんですか」


 おじいさんが少し間を置いた。


「何も」


「何もですか」


「私は観測しているだけです。あなたたちが何をするかは、あなたたちが決めることです」


「でも来てくれている」


「来たくなるから来ている」


「それは」


「答えを教えるために来ているわけではないので、がっかりさせてしまうかもしれませんが」


「がっかりはしてないですよ」とソウは言った。「来てくれるだけで、少し分かることがある気がしているので」


 おじいさんが笑った。温かい笑い方だった。


「また来ます」と言って、立ち上がった。


「おじいさん」


「何ですか」


「名前を聞いてもいいですか」


 おじいさんは少し考えた。


「テツジン、と呼んでください」


「テツジン、というのは本名ですか」


「今日から本名です」


 ソウはそれ以上聞かなかった。おじいさん——テツジンが店を出ていくのを見送った。


 ポケットの中のメモが、まだ入っていた。

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