第58話「仮想宇宙論」
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金曜日の朝、レイが出勤してきた。
スーツ、長髪、スペアの服の袋。いつも通りだった。でも昨日よりも、目の下の翳りが少し薄い。
「おはようございます」
「おはようございます」とソウが返した。「昨日より顔色がいいですね」
「少し眠れました」
「何時間ですか」
「六時間です」
「久しぶりに六時間台ですね」
「はい」
それだけ言って、レイはフロアに向かった。
昼休憩、テルが「古本屋の話をしてくれ」と言った。
「何を聞きたいんですか」
「どんな本を読んでたのか」
ソウがレイを見た。レイが少し考えて、「ホログラフィック宇宙論というのがあります」と言った。
「知ってる」とナナが言った。「ブラックホールの表面に情報が記録されてる、みたいな話だよね」
「よく知ってますね」
「理科が好きだったから。でもよく分からなかった」
「私もよく分からない部分がたくさんあります。でも、一番大事な部分は理解しています」
「一番大事な部分って」とカイが聞いた。
「この宇宙は、情報で構成されているかもしれないということです」
全員が少し静かになった。
「情報、というのは」とソウが言った。
「物理的な実体よりも、その物が『何であるか』という情報の方が本質的だという考え方です。たとえば——」
レイが少し考えた。
「このコーヒーカップは、カップとして存在しているように見えますが、実際には『カップである』という情報のパターンが成立しているだけかもしれない」
「……それって、この世界が虚構だということですか」とナナが聞いた。
「虚構ではありません。情報は本物です。ただ、私たちが思っているような意味での『物質』が存在するのかどうか、という問いです」
「俺たちはそのパターンの一部、ということか」とカイが言った。
「ええ。私たちが感じる現実は、情報のパターンが作り出したものかもしれない」
「……それを知って、レイさんはどう思いましたか」とソウが聞いた。
レイが少し間を置いた。
「最初は怖かったです。でも読み続けているうちに、それが分かったからといって何も変わらないと思いました」
「何も変わらない?」
「このコーヒーカップが情報であっても、コーヒーは飲めます。この店が情報であっても、接客はできます。みんなが情報のパターンであっても、一緒にいることはできます」
バックヤードが静かになった。
「……じゃあ」とナナが言った。「私たちの感情も情報のパターン?」
「そうかもしれません」
「でも本物だよね」
「本物だと思います」とレイは言った。「情報であることと、本物であることは、矛盾しないと思います」
ナナが「なるほど」と言った。カイが腕を組んで「哲学だな」と言った。テルが「まあ」と言って止まった。
「一つ聞いてもいいですか」とミオが言った。
「はい」
「レイさんは——私たちが何なのか、自分なりの答えを持っていますか」
レイが少し間を置いた。
「持っています。ただ、正確かどうかは分かりません」
「聞かせてもらえますか」
「……私たちはおそらく、この世界の情報パターンの中に、本来存在しないはずの情報として混入した存在だと思っています」
「バグ、ということ」とカイが言った。
「バグかどうかは分かりません。ただ、この世界のルールから外れた情報として存在している。それが私の理解です」
「それが世界を不安定にしているということですか」
「正確には分かりません。でも、外れた情報が蓄積することで、全体のパターンが乱れる——それは考えられます」
「じゃあ私たちが消えれば、乱れが収まる?」とナナが言った。
バックヤードが静かになった。
レイは答えなかった。
答えることができなかった、のかもしれない。
「……分かりません」とレイはしばらくして言った。「ただ、そういう可能性があることを、考えておかなければならないとは思っています」
午後の接客の途中、テレビが速報を出した。
〈長野県北部で、昨日から今日にかけて空気の密度が局所的に変化する現象が観測されたと、気象研究所が発表。人体への影響はないが、光の屈折が通常と異なる箇所が複数確認されており、原因を調査中〉
空気の密度。
光の屈折。
ソウはテレビを見ながら、レイの「物質の境界が不安定になっている」という言葉を思い出した。
境界が薄くなると、空気と何かの区別がつかなくなる。だから密度が変わる。だから光が曲がる。
……気のせいか。
いや、気のせいにしたくなかった。
「レイさん」
「はい」
「長野で空気の密度が変わってます」
レイが速報を見た。
「……境界の乱れが空気にも出ています」
「これもレイさんの能力の副作用ですか」
「可能性があります」
「使ってないのに」
「はい」
ソウはメモを開いた。「長野、空気の密度と光の屈折」と書いた。
「これはどういうことですか。使っていないのに副作用が出続けているとすると」
「もう、自律的に動いているんだと思います」とレイは静かに言った。「私が何もしなくても、すでに始まっている」
その言葉が、バックヤードに静かに落ちた。
ソウはしばらく、メモを閉じることができなかった。




