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アップデートしてください。〜うちのバイト先、なんか変な人しかいないんですけど〜  作者: ハル
糸が繋がる

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第57話「レイが消えた」

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 木曜日、レイが来なかった。


 開店してから十分が過ぎた。十五分が過ぎた。連絡もない。


 田所店長が「レイさん、今日は?」と聞いた。ソウは「確認してみます」と答えて、メッセージを送った。


 既読がつかない。


「ミオさん」


「うん」


「連絡取れますか」


「試してみます」


 ミオも試した。既読がつかない。カイも試した。ナナも試した。テルは「まあ来るんじゃないか」と言ったが、その声にはいつものような確信がなかった。


 三十分が過ぎた。


「ソウ」とミオが言った。「探しに行ってきてもらえますか」


「レイさんの家、知ってますか」


「住所は知らないけど、よく行く場所は知ってる。古本屋と、あとは駅から二本目の路地の端の公園」


「分かりました。店長に言ってきます」



 



 田所店長は「行ってこい」と言った。「半日シフトでいい。見つかったら連絡しろ」


 ソウは自転車に乗った。


 古本屋は駅の近くにある。土地勘があるから、十分かからずに着いた。


 入口を開けると、ベルが鳴った。古くて静かな店だった。文庫本の棚が並んでいる。入口から見て奥の棚の前に、背の高い人影があった。


 スーツを着ている。


 長髪が背中に落ちている。


 本棚の前に立って、文庫本を一冊手に取り、ページをめくっている。


「レイさん」


 人影が振り返った。


 氷室レイだった。



 



 レイは少しだけ目を細めた。「なぜここが分かりましたか」


「ミオさんが教えてくれました」


「そうですか」


「心配しました。連絡が取れなかったので」


「すみません。少し考えたいことがあって」


「考えたいこと」


「ここに来ると、少し落ち着くので」


 ソウはレイの隣に立った。棚には物理学の本が並んでいた。ホログラフィック宇宙論。量子力学入門。ブラックホールと情報理論。


「全部読んだんですか」とソウが聞いた。


「何度も読んでいます」


「これを読んで何を考えてるんですか」


「自分が何なのかを考えていました」とレイは言った。「私は物質を透過できる。でも、物質とは何か。境界とは何か。この世界の構造を理解しようとして、ずっと読んでいます」


「答えは出ましたか」


「部分的には」


「部分的に、というのは」


「この世界が情報で構成されているとするなら、私の能力は情報の境界を無効化する機能だと理解しています。でも、なぜそういう機能が私に備わっているのかは、分かりません」


 ソウは棚の本を一冊取った。ホログラフィック宇宙論の入門書。パラパラとめくる。


「レイさんは、自分がアップデートだということを、いつから知ってたんですか」


 レイが少し間を置いた。


「能力に気づいたのは随分前です。でも自分が何なのかを言語化できたのは——ここに来て、この棚の本を全部読んでからです」


「この本棚が教えてくれた」


「ええ」


「それで今日も来た」


「今日は——少し怖くなって来ました」


 ソウはレイを見た。


「怖い?」


「昨日、安定性の数字を話しました。六十パーセント。加速している。一年以内にゼロになるかもしれない」


「はい」


「その数字を話してから、少し怖くなりました」


「数字を話したことが怖かったんですか」


「数字を話すまでは、自分の中だけにあった感覚でした。話したら、現実になった気がして」


 ソウは本を棚に戻した。


「レイさん」


「はい」


「今日、店を出てきたのは、レイさんが怖いと思ったことを俺に知らせたかったからかもしれないと思いました」


 レイが少し目を見開いた。


「……なぜそう思いましたか」


「ミオさんから公園の場所も聞いてたんですけど、古本屋に来たら一発で見つかったので。いなかったとしたら違う話ですが」


 レイは少し間を置いた。


「……そういう理由を、自分では考えていませんでした」


「そうですか」


「でも、否定できません」


 ソウはそれを聞いて、「じゃあ店に戻りましょう」と言った。「全員、心配してます」


「すみませんでした」


「大丈夫です。ただ次は連絡をください。既読をつけるだけでもいいので」


「分かりました」


 レイが本棚を最後に一度見た。それから「行きます」と言って、歩き出した。



 



 店に戻ると、ナナが「よかった!」と言って出迎えた。カイが「心配した」と言った。テルが「来ると思ってた」と言った。ミオが「ありがとう」とソウに言った。


 レイが「ご心配をおかけしました」と全員に頭を下げた。


「どこにいたんですか」とナナが聞いた。


「古本屋です」


「古本屋」


「少し落ち着きたくて」


「それなら連絡してよ」


「すみませんでした」


「心配したんだから」


 ナナが言い続けるので、カイが「ナナ、もういいだろ」と言った。ナナが「よくない」と言った。レイが「次は連絡します」と言った。ナナが「約束だよ」と言った。


 田所店長が「見つかったか」と顔を出した。「よかった。レジ頼む」


 全員がフロアに散っていった。



 



 夕方、ソウとレイが隣のカウンターで接客をしていた。


 客が帰った後、レイがソウに「古本屋で見つけてくれてありがとうございました」と小声で言った。


「大丈夫でしたか」


「……怖くなくなりました。少し」


「怖いのがなくなったわけじゃなくて、少し」


「はい。六十パーセントという数字は変わっていません。でも、言えたことで少し楽になりました」


「それはよかったです」


「ソウは、怖くないですか」とレイが聞いた。


「怖いですよ」


「でも動揺しない」


「動揺はしてます。ただ、動揺したまま動けばいいかなと思って」


 レイが少し間を置いた。


「……そういう考え方もあるんですね」


「逆に、動揺しないと怖いときに気づけないので」


 次の客が入ってきた。レイが「いらっしゃいませ」と立ち上がった。いつも通りの完璧な姿勢で。


 ソウもカウンターに向かいながら、今日の古本屋の棚を思い出した。


 レイが何度も読んでいるという、物理学の本。自分が何なのかを知ろうとして、ずっと読み続けている。


 その棚の前に立っていたレイの背中が、何だか少し小さく見えた気がした。

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