第55話「テルだけは大丈夫」
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火曜日の昼、テルが自販機の前に立っていた。
バックヤードの横の廊下。旧型の自販機が一台。従業員用のスペースだから客からは見えない。
テルはしばらく自販機を見ていた。
「テルさん」
ソウが声をかけると、テルが振り返った。
「ソウ」
「どうしました」
「なんか飲もうと思って」
「コーヒーでいいですか」
「まあ」
ソウが小銭を入れてボタンを押すと、コーヒーが落ちてきた。テルに渡した。
「テルさん」
「なに」
「最近、確率操作は使ってますか」
テルがコーヒーを開けた。
「使ってない」
「使えない、ではなくて」
「使えるけど使ってない」
「どうしてですか」
「気分」
テルは廊下の椅子に腰を下ろした。コーヒーを一口飲んで、「俺のは大丈夫だと思ってたんだよ」と言った。
「大丈夫、というのは」
「確率だろ。重力とか時間とかに比べたら、俺の能力なんて影響が少ないんじゃないかって思ってた。じゃんけんに勝つとか、自販機の当たりを引くとか、そのくらいのことで世界が崩れるわけないって」
「でも」
「でも副作用の表がある」とテルは静かに言った。「コインが百回連続で表になる村。交差点の信号が永遠に青になる現象。俺の能力の副作用として、ちゃんとニュースになってる」
「気づいてたんですか」
「最近、ちゃんと調べた」
ソウはテルの隣に座った。
「テルさんの副作用のニュース、俺は正直あまり確認できてなかったです」
「コインのニュースは三ヶ月前に出た。信号のやつは先月。小さいニュースだから見落としやすい」
「テルさんが見つけたんですか」
「暇だから」
テルがコーヒーを飲んだ。
「俺だけは大丈夫、って思ってたのが、一番まずかったかもしれない」
「でも今は止めてる」
「止めてる」
「それはいいことだと思います」
「じゃんけんで負けた。確率がずれてるって感じた。それで止めた」
「確率がずれた、というのはどういう感触ですか」
テルが少し考えた。
「なんとなく分かってた感じが、なくなった。操作しなくても大体の確率が見えてた気がするんだけど、その感覚が薄くなった」
「能力が落ちてるということですか」
「能力が落ちてるか、世界の確率が変になってるかのどっちかだと思う」
ソウはそれを聞いて、少し黙った。「世界の確率が変になってる、というのはどういう意味ですか」
「確率って、普通は統計的な規則性があるだろ。コインを百回投げたら大体五十対五十になる。でも俺が副作用を出し続けて、どこかの地域でコインが百回連続表になったなら——その地域の確率論は普通じゃなくなってる。俺が操作しなくても、すでに変な状態になってる」
「副作用が副作用を生んでるということですか」
「かもしれない。分からないけど」
テルがコーヒーの残りを飲み干した。
「なるようになる、とは思う。でも最近はそれが少しうまく言えない」
「うまく言えない?」
「なるようになる、ってなんか投げやりだなって思い始めた」
ソウは驚いて、テルを見た。
「テルさんがそれを言うと思わなかった」
「俺も思わなかった」
午後の接客を終えてバックヤードに戻ると、ミオが端末の整理をしていた。
「ミオさん」とソウが声をかけた。
「うん?」
「テルさんが少し変わってきてる気がします」
「変わってきてる、というのは」
「なるようになる、がうまく言えないと言ってました」
ミオは端末を置いた。
「それは……いいことかもしれないね」
「いいこと、ですか」
「諦めじゃなくなってきてるんだと思う。テルはずっと、なるようになるって言いながら、どこか遠いところから見てた。でも最近は、自分のこととして考え始めてる気がする」
「なるようになる、が言えなくなる方がいいということですか」
「その言葉が嘘になったとき、初めて本当のことが言えるから」
ソウはそれを聞いて、少し考えた。「ミオさんは長くみんなを見てきたんですね」
「長く」
「テルさんについても」
「テルは、能力を持ってから一番変わってない子だった。それが最近、変わり始めてる」とミオは静かに言った。「ソウが来てから変わったと思う」
「俺は何もしてないですよ」
「一緒にいる、というのはそれだけで何かをしてることになる」
閉店間際、テレビがまた動いた。
〈静岡県内の複数地点で、今月に入ってじゃんけんの統計的なデータに通常では説明のつかない偏りが生じているとして、ゲームセンター運営会社が問い合わせを複数受けているとのこと。原因は不明〉
ソウはその速報文字を読んで、隣にいたテルを見た。
テルが自分の右手を見ていた。
「テルさん」
「……じゃんけんの統計データに偏り、か」
「最近は使ってないですよね」
「うん」
「でも出てる」
「うん」
「大丈夫ですか」
テルはしばらく右手を見ていた。それから「コインで試してみていい?」と言った。
「何を試すんですか」
「確率がまだずれてるか」
ソウはポケットから十円玉を出してテルに渡した。テルが三回投げた。
一回目、表。二回目、表。三回目、表。
「……まあ」とテルが言った。「なるようになる」
今度は声のトーンが少し違った気がした。
投げやりでもなく、諦めでもなく、ただ事実を確認しているような、静かな声だった。




