第54話「248回」
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月曜日の朝、ナナが出勤してきた。
「ソウ、ちょっといい?」
開店前のフロアで端末を並べ直していたソウは手を止めた。ナナが手帳を持っている。
「何ですか」
「昨日の夜、数えてみたんだけど」
「何を」
「時間を止めた回数」
ソウはしばらく黙った。「数えたんですか」
「数えた。去年から今年の九月まで。全部記録してたわけじゃないけど、覚えてる限り全部書き出して」
ナナが手帳を開いた。細かい字でびっしり書いてある。
「二百四十八回」
「……多い」
「多いよね。びっくりした。自分でも」
「どんなことで使ってたんですか、主に」
「遅刻。あとはお客さんが怖かったとき。荷物が重かったとき。雨が降ってきたとき。ぜんぜん違う話してるときに好きなアーティストの曲が流れてきて聞きたかったとき」
「最後のやつは」
「止めた三分の間、一人でずっと聞いてた。その間みんな固まってるし、申し訳なかったな」
「気づいてなかったです」
「だよね」とナナは言って、手帳を閉じた。「ソウは何回か分かる? 俺たちが使った回数の合計」
「分かりません」
「カイに聞いたら三百回くらいって言ってた。テルは数えてないって言ってたけど、信号とじゃんけんだけでも相当いくと思う。レイさんとミオさんは多分もっと」
「全員合わせたら……」
「多分、千回は超えてると思う」
ソウはその数字をメモに書いた。「千回以上」。
「重いですね」とソウが言った。
「重い」とナナも言った。「でも、ちゃんと数字にしてみたら少し楽になった気がする。ふわっとした罪悪感より、数字の方が考えやすい」
「ナナさんらしい」
「そう?」
「そうだと思います」
午前中、ソウはカイにも聞いた。
「重力を使った回数、本当に三百ぐらいですか」
「数えたわけじゃないけど、それくらいだと思う」
「どんなことで使ってましたか」
「荷物。主に荷物。あとは……鏡の角度を変えるとき」
「鏡の角度」
「俺の席から見えにくいとき、重力でちょっと傾けてた」
「……何センチくらい傾けてたんですか」
「一センチとか二センチとか。ほぼ誤差」
「誤差で重力使うんですね」
「誤差だから使えた」
「その誤差が世界のどこかの重力定数をずらしていたとしたら」
「……言うな」
「言いません」
カイがため息をついた。「鏡の角度くらい手で直せばよかった」
「今からでも手で直してください」
「直してる。もう二週間、全部手で直してる」
「えらい」
「えらいじゃなくて普通のことなんだろ」
「そうですね」
カイが「お前にそれ言われると思わなかった」と言った。ソウは「ナナさんから学びました」と答えた。
昼休憩、ソウがメモを開いた。
ナナの二百四十八回という数字が、頭から離れない。二百四十八回の時間停止。半径五メートル、最長三分。トータルで何分止まっていたのか。その間、世界のどこかで時計が狂い続けていた。
「ソウくん、どうしたの」
ナナが横から覗き込んできた。
「計算してました。ナナさんが時間を平均一分停止させたとして、二百四十八回で二百四十八分。四時間以上」
「……四時間以上、世界を止めてたのか」
「トータルで考えると」
「それってすごいね、ある意味」
「ある意味はそうですね」
「でも副作用を考えると全然すごくない」
「全然すごくないですね」
ナナがため息をついた。「時計が狂った地域の人たち、ごめんなさいって思う」
「ごめんなさいって言える場所があればいいですね」
「ないよね、そんな場所」
「ないですね」
しばらく沈黙があった。
「でも」とナナが言った。「もう使わないようにしてる。それは言える」
「そうですね」
「使わなくても、ぎりぎりで来られてる。昨日も一昨日も。習慣になってきた」
「偉い」
「えらいじゃなくて普通のことなんだけど」とナナは言って、また笑った。
夕方の接客が一段落したとき、バックヤードのテレビが速報を出した。
〈東京都内の一部地区で、昨日から今日にかけて時計の針が約三分ズレたと報告した住民が複数。原因については調査中。機器の誤作動の可能性が高いとみられるが、ズレた時計が特定の方向に集中していることから、当局は引き続き調査を行う〉
ソウはテレビを見た。
三分。
ナナが「あっ」と小さく声を上げた。
「ナナさん」
「……三分って、私の最大停止時間と同じだ」
「そうですね」
「でも使ってない。最近ずっと使ってない」
「分かってます」
「でもそれが出てる」
「蓄積だと思います。ミオさんが言ってた川の話——上流を止めても、水は流れ続ける」
ナナはしばらくその速報を見ていた。
「……本当に三分だ」
「本当に三分です」
ナナが「なんかリアルだ」と言った。声が少し小さかった。
ソウはメモに「三分、東京の時計」と書いた。ナナの二百四十八回という数字の、少し下に。
閉店後、ソウは一人でフロアを掃除した。
全員が帰った後、モップをかけながら考えていた。
二百四十八回。三百回。千回以上。四時間以上。六十パーセント。
全部、数字になると重かった。ナナは「数字の方が考えやすい」と言った。確かにそうかもしれない。でも重い。
ただ、一つだけ確かなことがある。
みんなが、ちゃんと数えていた。
向き合っていた。
ソウはメモを閉じた。スマホをポケットに入れて、モップを続けた。
窓の外では、今日も普通に車が走っていた。人が歩いていた。信号が変わっていた。
世界は六十パーセントしか残っていないかもしれないが、今夜はまだちゃんとそこにある。




