第53話「カイ、お前がか」
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カイの手が止まったのは、一瞬だけだった。
「……行ってない」
「そうですか」
「行ってない。なんで」
「ニュースで重力計の誤作動が出て」
カイがゆっくりとPOPの方を向いた。テレビは見ていない。POPを貼る手が、またゆっくりと動き始めた。
「……関係ない」
「そうですか」
「関係ない」
ソウは何も続けなかった。カイは黙って仕事を続けた。
でも、手が少し雑になっていた。
閉店後。
田所店長が「お先に」と言って帰った。ドアが閉まる音がして、六人が自然とバックヤードに集まった。
「じゃあ、昼の続きを」とソウが言った。
全員が頷いた。レイがコーヒーを温め直した。
ソウはカイを見た。「まず一個だけ確認させてください」
「……なんだよ」
「福岡の重力計の件、本当に関係ないですか」
カイは腕を組んだ。しばらく黙っていた。
「……三週間前に、一回使った」
「福岡で?」
「違う。ここ近くの駐車場で。重い荷物を軽くしたくて」
「駐車場で」
「友達の引っ越し手伝ってた。バレそうになって、つい」
「……福岡と距離が離れてるのに、誤作動が出たんですか」
「副作用は使った場所に出るとは限らないらしい」とミオが静かに言った。「重力の歪みは伝播します。使った場所から離れた地点で、たまたま精密機器が反応することがある」
「じゃあ、三週間前の俺のせいかもしれないってことか」
「かもしれません」
カイが天井を見た。
「最悪だな」
「怒ってるとか責めてるとかじゃないですよ」とソウが言った。「友達の引っ越しを手伝ってた。それだけのことです」
「……でも結果として」
「友達の荷物が軽くなって、福岡の重力計が狂った。どっちも本当のことです」
カイはしばらく黙っていた。
「お前、フォローが雑だな」
「事実しか言ってないので」
「それがフォローが雑って言うんだよ」
ナナが小さく笑った。テルも笑った。カイも、少しだけ口の端が上がった。
「それで、レイさんの話を聞かせてください」とソウが言った。「昼に続きを止められてしまったので」
「あれは私が悪かった」とレイが言った。
「珍しい」とカイが言った。
「自覚はあります」
「自覚があって毎回やるんですね」とソウが言った。
「タイミングを制御するのが難しい場合があります」
「難しいとは思ってないでしょう」
「……少し思っています」
「少しですか」
「少しは」
ナナが「ソウくん攻めてる」と言った。テルが「なるようになる」と言った。ミオが笑った。
レイが全員を見た。
「改めて話します。私が言う『数字』というのは、この世界の安定性の数値です」
「どこから手に入れたんですか」とナナが聞いた。
「説明が難しいのですが——私が壁に触れるとき、境界の状態が直接感覚として入ってきます。その感覚を長期間積み重ねて、数値として換算したものです」
「感覚を数字にした、ということ?」
「正確ではありませんが、はい。現在の安定性は、私の感覚では六十パーセント程度です」
バックヤードが静かになった。
「半年前は?」とソウが聞いた。
「八十五パーセント前後だったと思います」
「半年で二十五ポイント落ちた」
「はい」
「このペースで進むと」
「単純計算では、一年以内にゼロになります。ただし、速度は一定ではありません。下がるほど加速する可能性があります」
誰も口を開かなかった。
カイが腕を組んだ。ナナが自分のカップを見た。テルが目を閉じた。
「……ミオさん、これをご存知でしたか」とソウが聞いた。
「数値は知りませんでした」とミオは言った。「でも、同じことは感じていました」
「ミオさんが感じていた速度感と、レイさんの数値は一致しますか」
ミオがレイを見た。レイがミオを見た。
「……だいたい、合っています」とミオが言った。
「じゃあ、おじいさんが言っていた『本来より早く終わりが近づいている』というのも」
「同じことを指しているはずです」
ソウはメモを開いた。昨日から書き続けているリスト。その一番下に「安定性:六十% 半年で二十五ポイント低下」と追記した。
「次に何を考えるべきか、みんなの意見を聞かせてください」とソウが言った。
全員がソウを見た。
「能力を使わない、だけでは止まらない可能性がある。じゃあどうするか。俺には分からないですが、みんなはどう思いますか」
沈黙が、今度は少し違う種類の沈黙だった。
何かを考えている沈黙だった。
しばらくして、テルが口を開いた。
「おじいさんに聞けばいいんじゃないか」
「それは俺も思ってる」とソウが言った。「ただ、あの人はいつ来るか分からない」
「来たときに、まとめて聞けばいい」
「今日みたいに途中で帰られると困りますが」
「まあ」とテルは言って、「なるようになる」と続けた。
今日は声のトーンが少し違った。諦めではなく、どこか落ち着いた音がした。
「私も同じ意見です」とレイが言った。「あの老人は、聞けば答えてくれる可能性が高い。今日の来客がそうであったように」
「店長みたいな感じで知ってましたみたいになったら怖いですけど」
「怖い、というのは」
「あの老人も『実は給料日に早く来るの気になってました』みたいな結論だったら」
「……それはないと思います」
「ないといいんですけど」
ナナが「ソウくん、疲れてる?」と聞いた。
「疲れてはないですが、ちょっとネガティブになってるかもしれないです」
「ちゃんと眠れてる?」
「眠れてます」
「じゃあ大丈夫だ」とナナは言って、残ったコーヒーを飲み干した。
帰り際、カイがソウの隣で自転車の鍵を取り出しながら言った。
「今日、重力使わないで帰る」
「それはいつも通りでいいんじゃないですか」
「いや、決意として言っておきたかった」
「そうですか」
「お前、もうちょっと感心してくれてもいいんじゃないか」
「カイさんが重力を使わないで荷物を持てるのは普通のことなので」
「でも今日は気持ちが違う」
「気持ちは大事ですね」
「そうだろ」
カイは自転車に乗った。ちゃんと地面に足をついて漕いでいた。ソウはその背中を見ながら、「友達の引っ越しを手伝っていただけなのに」という昼間の言葉を思い出した。
ただ、それだけのことだった。
でも世界が六十パーセントしか残っていなかった。
ソウはスマホのメモを開いた。リストの最後にもう一行だけ足した。
「カイは友達の引っ越しを手伝っていた」
閉じた。
夜空に、今日も星が一つ、見つからなかった。




