第51話「バックヤードの六人」
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日曜日の朝は、なぜかいつも静かな時間帯がある。
十時開店の三十分前、ソウが店に着くと、シャッターはまだ半分しか上がっていなかった。田所店長が「お、早いな」と言いながらシャッターを引き上げた。店長の首にタオルが巻いてある。汗かきなのに、夏以外でもタオルを持ち歩いている。
「おはようございます」
「昨日はよく眠れたか」
「まあ……」
「まあ、ね」と店長は言った。顔を見なかった。「顔に出てるから聞いた」
ソウは何も言わなかった。
電気をつけて、POPの角度を直して、端末の埃を布で拭いた。普通の開店前の作業。でも昨日からずっと頭の中に残っているメモのリストが、何かをするたびに浮かんでくる。
富士山。島。地面。時計。星。境界線。
それとレイが昨日途中で止まった言葉。「それでも分かることを言いに来ている」。その続きが、まだ出ていない。
ナナが来たのは開店五分前だった。
「間に合った!」
ドアを開けながらナナが言う。髪が少し乱れている。走ってきたんだろう。
「今日は走ったんですか」とソウが聞くと、ナナはちょっと口をとがらせた。
「走った。ちゃんと走った。時間止めてない」
「偉い」
「えらいじゃなくて、普通のことなんだけど」とナナは言って、荷物をロッカーに押し込んだ。「でもさ、ソウ、聞いていい? ふつうに走ったら、ほんとにギリギリなんだよね、毎回。なんで止めてたときも毎回ギリギリだったんだろ」
「謎ですね」
「スキルが不完全なのかな」
「能力のバグを能力で直そうとしないでください」
ナナが「あー」と言って笑った。「たしかに」
カイが来たのは開店の一分後だった。
「ちょうどいい時間だろ」
「一分遅刻ですよ」
「誤差誤差」とカイは言って鏡の前に立った。前髪を直している。カイは開店後しばらく身だしなみを確認する習慣がある。本人は「プロ意識」と言っているが、ソウには単純にナルシストだと思っている。
「カイさん」
「なに」
「今日の昼休憩、全員集まれますよね」
カイが鏡越しにソウを見た。
「ミオから連絡来てた。ソウが何か話すって」
「そうです」
「……まあ、いるよ」
カイは前髪を一本だけ直して、「ちゃんと重力使わないで直した」と小声で言った。誰にでもなく言っていた。
テルは開店前からいた。
シャッターが完全に上がる前に入ってきて、入口付近の展示用の椅子に腰を下ろして目を閉じていた。
「いつ来たんですか」
「さあ」とテルは言った。
「さあ、って」
「気づいたらいた」
ソウはとりあえず「おはようございます」と言った。テルが「おはよ」と返した。目は閉じたままだ。
昨日、テルがじゃんけんで負けた。「確率が少しずれてるかもしれない」と静かに言った。その後のテルはいつも通りに見えたが、「なるようになる」と言う回数が昨日の後半から減った。
気のせいかもしれない。でも今は気のせいにしたくなかった。
レイは開店と同時に来た。
スーツ、長髪、いつもの完璧な出立ち。昨日から引き続き、目の下がうっすらと翳っている。
「おはようございます」
「おはようございます」
「眠れましたか」
レイが少し間を置いた。
「……四時間弱です」
「昨日の三時間よりは増えた」
「はい」
「レイさん」
「何ですか」
「今日の昼休憩、俺から話があります」
レイが止まった。
「私も話しておきたいことがあります」と言って、端末の確認に向かった。
〈速報:北海道・道東の一部地域で昨夜から今朝にかけ、気温計が通常よりも一定の幅で高い数値を示す現象。気象庁は自然要因を調査中〉
午前十時十五分、バックヤードのテレビが速報テロップを流した。
ソウはそれをちらりと見て、スマホのメモを開いた。「気温計」と打ち込んで、閉じた。
テルが昨日「確率が少しずれてる」と言った。気温が一定の幅で高い状態が続くのは、平均への回帰という統計的な仕組みがどこかで狂い始めたということかもしれない。確信はない。でも今日は気のせいにしたくなかった。
午前中は平均的な客数だった。
ナナが案内の途中で「あっ」と言って固まりかけ、ソウが代わりに引き取って説明を続けた。
「助かった」と後でナナが言った。
「何止まりかけたんですか」
「ちょっと混んできたから、止めたら楽だなって思って」
「止めると余計困りますよ」
「分かってるんだけど」とナナは頬をかいた。「身体が覚えてるんだよね。ちょっとやばいと思ったら止まりそうになる。反射みたいな感じ」
ソウはそれを聞いて、少し考えた。
「一年以上、使ってきたんですよね」
「うん。気づいたときからずっと」
「急に使えなくなったら、しんどいですよね」
ナナは何も言わなかった。
少し間があって、「うん」と小さく返ってきた。
十一時の休憩。
ミオが「行ってきます」と田所店長に声をかけた。六人がバックヤードに揃うのに三分かかった。ナナが接客の引き継ぎに時間がかかって最後に入ってきた。
ミオが前日から用意していたコーヒーを六つ並べた。温め直してある。カイが取った。テルが取った。ナナが「ぬるくない?」と言いながら取った。
「ちょうどいい温度ですよ」とミオが言った。
「そう?」とナナが飲んで、「たしかに」と言った。
誰も座らなかった。
コーヒーカップを持った六人が机の周りに立って、少しの間、誰も話さなかった。田所店長がレジを打つ音が、ドア越しに聞こえる。
ソウがカップをテーブルに置いた。
「俺が呼んだので、俺から話します」
場の空気が変わった。カイがカップを口から離した。テルが目を細めた。ナナが背筋を伸ばした。
「昨日の夜から今朝にかけて、ニュースのリストを作りました」
ソウはスマホのメモをテーブルに置いた。
「富士山の縮小。島の消失。東京の記憶がない住民。精密機器の誤作動。地盤の浮上。時計のズレ。今朝の気温計の異常。全部ここ半年以内で、全部原因不明。みんなの能力を使った日付と、ほとんど一致してます」
「……知ってた」とカイが言った。
「俺も」とテルが続けた。
「私も」とレイが言った。
「うん」とナナが小さく頷いた。
ミオは何も言わなかったが、目を伏せた。
「知ってると思ってました」とソウは言った。「俺が知らなかっただけで。頭では聞いてたけど、繋がってなかった。昨日の老人の話を聞いて、朝になってやっとぜんぶつながった気がして」
バックヤードが静かになった。
「怒ってるとか、責めてるとかじゃないです。ただ、俺がちゃんと分かったって、みんなに言いたかった」
「……揃えたかったんだね」とミオが言った。
「はい。それと——」
ソウは全員を見た。
「みんなが、俺に言えてないことって、あります?」
誰も答えなかった。でもそれは「ない」という沈黙ではなかった。
テルが口を開きかけた。ナナが視線を動かした。カイが何か考えている顔をした。
レイが静かに言った。
「私は、数字を知っています」
全員がレイを見た。
「あの老人が知っているのと同じ種類の数字だと思います。どこで手に入れたかは正確には説明が難しいのですが、今日ここで話そうと昨日から決めていました」
「数字って」とテルが言いかけた。
「どういう数字だ」とカイが続けた。
「やばいやつ?」とナナが聞いた。
レイが口を開いた。
「少し待ってください」
ソウが反射的に壁の方を向いた。
パサッ、という音がした。
ドサッ、という音がした。
スーツのジャケットだ、という認識がソウの脳内を高速で走り抜けた。続いてシャツ。スカート。バックヤードの床に、整然と畳まれていく布の気配。
「——レイさん! 今、大事な話の途中じゃないですか!!」
「承知しています」
完全に平静な声だった。
「承知してるなら——!」
「確認したいことがあって」
「今じゃないといけませんか!」
「話し合いの流れで気になってしまったので」
「気になっても!!」
「これが私の仕様なので」
「知ってます! 知ってますけど! タイミングというものが——!」
ナナが「ソウくん、耳赤い」と言った。カイが「まあ落ち着けって」と笑いをこらえていた。テルが「なるようになる」と呟いた。
ずぶっ、という音がした。物質が物質の中に沈んでいく、普通はあり得ない音。レイが壁に入っていく音だった。
壁の向こうから声が聞こえた。
「境界の抵抗が、先月より薄くなっています。壁に入るときの感触が明確に変わりました」
「それを今確認しなくていいです!!」
「先ほどの話を聞いて、直接確かめた方が正確だと思いまして」
「俺の心拍数より正確なデータが必要でしたか!!」
ずぶっ、と音がして、今度は逆方向に戻ってくる気配がした。
バサバサ、という音がした。スペアの服を広げている音だ。
「着替え完了です」
振り返ると、レイはいつも通りの制服姿だった。完璧に着ている。三十秒前に何があったのか想像もできない佇まいで、全員を見渡している。
「……で、数字の話ですが」
「続けますか、そのまま」
「問題ありません」
「俺の問題を聞いてください」
テルが「なるようになる」と言い、カイが「お前ほんとに毎回」と言い、ナナが「ソウくん、まだ赤い」と言った。ミオが静かに笑っていた。
レイがコーヒーカップを両手で持った。
「先ほど確認できたことを含めて話します」
全員が静まり返った。
「境界の抵抗が先月の七割程度になっています。感覚的な数値ですが、ここ数ヶ月で明確に落ちてきている。物質がそれぞれの境界を保とうとする力が、弱まっているということです」
「……副作用の蓄積か」とカイが言った。
「蓄積だけではなく、速度の問題です」
レイがソウを見た。
「老人が言っていたはずです。速度が変わってきている、と」
「はい」
「私が感じていることと同じです。このペースで進むと、どこかで境界そのものが——」
レイがそこで止まった。
「なくなる?」とナナが小さく言った。
「現時点では仮説ですが、はい」
バックヤードが静かになった。コーヒーメーカーのランプが赤い。外から微かに車の音がする。
「レイさんはそれを、いつから知ってたんですか」
「感覚としてはここ二ヶ月ほど。どう伝えれば正確かを考えていました。そして——」
間があった。
「ソウが聞いてくれる気がしていたので、待っていました」
ソウは何も言えなかった。
カイが「聞くって何だよ」と言い、ナナが「でもソウならね」と言い、テルが「まあ」と言いかけて止まった。
ミオが「もう少し続けましょう」と立ち上がりかけた。
そのとき、バックヤードのドアが三回ノックされた。
田所店長の、遠慮のない叩き方だった。
「ちょっといいか。来客だ」




