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アップデートしてください。〜うちのバイト先、なんか変な人しかいないんですけど〜  作者: ハル
このバイト先、なんか変じゃない?

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50/70

第50話「なんか最近、ニュースが変じゃない?」

---


土曜日の朝、老人はきっかり十時に来た。


引き戸を押して入ってくる姿を、ソウはカウンターの奥から見ていた。ステッキをつかず、白いシャツ、灰色のズボン。いつもと同じ格好。いつもと同じ歩幅。


「おはようございます」


「ああ」と老人は頷いた。


短い。でも昨日、話しかけてきたときと同じ温度だった。ソウは「少々お待ちください」と言い置いてから、バックヤードの扉をノックした。


「ミオさん、来ました」


扉の向こうで短い沈黙があった。


「……うん」


ミオの声は静かだった。いつもより少しだけ、間があった気がした。



 



ショールームの端、窓際のソファに老人を案内する。今日は客が少ない。十時開店直後の土曜日にしては、空いている。ソウはそれが何となく気になったが、口には出さなかった。


「先日の続きを聞かせていただいてもいいですか」


ソウが向かいに腰を下ろすと、老人はすでにソウを見ていた。目が静かだった。池の底みたいな静けさ。


「何を聞きたい」


「昨日、境界線がおかしいとおっしゃってました」


「言った」


「何の境界線ですか」


老人は少し考えるように、窓の外へ目を向けた。外では木が風に揺れている。ごく普通の光景。ごく普通の土曜日の朝。


「お前さんには見えているか」


「…何がですか」


「輪郭」


ソウは黙った。


見えていた。昨日から、ずっと。建物の角がわずかにぼやけて見える。空と屋根の境目が、くっきりしていない。ガラスの向こうの景色が、フィルムをひと枚かぶせたみたいな感触を持っている。


「……見えてるような、気はします」


「そうか」


老人は頷いた。ソウを責めない。そういう老人だった。


「今日は一つだけ教えてやろう」


「一つだけ?」


「一度に多く知ることが、よいことだとは限らん」


ソウはその言葉を飲み込むのに少し時間がかかった。


「じゃあ、その一つを」


老人はゆっくりと口を開いた。


「この世界は、ずっとここにあったわけじゃない」


「……」


「始まりがあった。だから終わりがある。問題はその速度だ」


「速度、が」


「本来なら、ずっと先の話だった。だが今は、そうじゃない」


老人はそこで止まった。ソウは続きを待った。続きは来なかった。


「……それだけですか」


「今日はな」


ソウは思わず苦笑した。「少ないですね」


「十分だ」と老人は言った。「それだけで、お前さんは今日一日、考え続ける」



 



老人が帰ったあと、ソウはしばらくカウンターに肘をついていた。


「始まりがあった。だから終わりがある」


頭の中で、老人の声が繰り返される。携帯電話のアップデート案内みたいな口調で、ただそれだけを言った。


「ソウ」


声がして振り向くと、レイが立っていた。


今日のレイはいつもよりわずかに顔色が悪い。それでもスーツはきっちりしている。髪もきちんとまとめてある。でも目の下がうっすらと翳っていた。


「老人と話した?」


「はい。ちょっとだけ」


「何を」


「……終わりの速度、が変わってきてるって」


レイは無表情のまま頷いた。驚かなかった。もう驚く段階を超えているのかもしれない。


「分かることを言ってくれる人ではないですね、あの方は」


「ミオさんも昔会ったって言ってましたし、やっぱり何かを知ってるんだと思います」


「……私も、そう思います」


レイは視線を窓の外に向けた。老人が出ていった方向。木が揺れている。ソウはレイの横顔を少し見てから、正面を向いた。


「レイさん、今日シフト短くしてもらいましたよね」


「ええ。ミオが調整してくれました」


「無理しないでください」


レイは少し間を置いた。


「……ご心配をおかけしています」


「心配というか」


「という顔をしています、神崎さんは」


ソウは何も言えなかった。正確すぎる。



 



昼前、テレビが騒ぎ始めた。


バックヤードに置いてある小さなテレビが、時々ニュース速報を出す。ソウがそれを見たのは、在庫の端末を並べ替えている最中だった。


〈速報:東北沿岸部で深夜から未明にかけ、地盤が断続的に浮上する現象。住民への影響は現時点で報告なし〉


ソウは手を止めた。


「……また変なやつ出た」


端末を一台、棚に置く。


テレビはそのままニュースに切り替わった。アナウンサーが淡々と原因不明、専門家も困惑、国土地理院が調査中、と読み上げている。画面の端に映った海岸線は、確かに少し盛り上がっているように見えた。地面が波打つように、でも一瞬だけ。


「……なんか変じゃない?」


独り言だった。


でも今日は、独り言のままにしておく気になれなかった。


昨日の。一昨日の。先週の。先々週のニュース。頭の中で、映像が繋がり始める。


富士山の標高が三メートル減った。ペルー沖の島が消えた。東京の一角で「昨日の記憶がない」住民が続出した。北海道の精密機器が誤作動した。畑が浮き上がった。砂浜が消えた。星が薄くなった。


ぜんぶ、バラバラだと思っていた。


ぜんぶ、「気のせいか」で流していた。


「ソウ」


ナナが扉から顔を出した。丸い目で、少し眉を寄せている。


「どしたの? ぼーっとしてる」


「…ちょっと考えてた」


「何を?」


ソウはテレビを見た。もうニュースは終わって、次の話題に移っている。


「なんか最近、ニュースが変じゃない?」


言葉にしてみると、不思議と軽くなかった。自分が思っていたよりも重く、口から出てきた。


ナナは一瞬、固まった。


「……変、って」


「富士山が縮んだり、島が消えたり、地面が浮いたり。関係ないニュースだと思って流してたんだけど」


ナナが目を動かした。壁を見て、床を見て、またソウを見た。


「それって、さ」


「うん」


「……ぜんぶ、私たちのせいかもしれない、って話」


「そう、みんな知ってたんだろうけど」


ソウは棚の端末を一台手に取った。画面が反射して、天井の蛍光灯が映っている。


「俺、ちゃんと分かってなかったと思う。頭では聞いてたんだけど、なんか今日、急に繋がった感じがして」


ナナは黙っていた。しばらく経ってから、「うん」と小さく言った。


「ずっとここにあったニュースだったんだよね」とナナが言った。「私たちが来る前からこの世界で起きてたわけじゃなくて、私たちが来てから増えてって」


「気づいてたの?」


「……うすうすは。でも言ったらどうすればいいか分からなくて」


ソウは端末を戻した。


「ミオさんに話そう」と言った。「みんなに話そう。たぶん、みんなすでに知ってることだろうけど」


「うん」


「でも俺が、ちゃんと分かったって話をしたい」


ナナはふっと力を抜いたような顔をした。笑ったとも違う。でも何かが緩んだ顔だった。


「ソウが言うなら、みんなも聞く気になると思う」


「なんで俺が言うのに限定されるんだよ」


「だって、ソウが一番普通だから」


「……褒めてないよねそれ」


「褒めてるよ」とナナは真顔で言った。「普通って、一番難しいんだよ、たぶん」



 



昼休憩、六人がバックヤードに集まった。


ミオが弁当を配る。今日のはシャケおにぎりと卵焼きだった。複製品。夕方には消える。でも今の時間には確かに存在している。ソウはそれを受け取りながら、少し不思議な気持ちになった。


「ミオさん」


「うん?」


「さっき、ニュースを見てたら、繋がって見えてきて」


カイが顔を上げた。テルが目を開けた。レイはすでにソウを見ていた。


「俺、今まで全部流してたんですけど」


ソウはおにぎりをテーブルに置いた。


「富士山のやつ、島のやつ、地面が浮いたやつ、ぜんぶ今日初めて一本に繋がった気がしました。みんなのせいだって、頭では知ってたつもりなのに、全然分かってなかった」


誰も何も言わなかった。


「怒ってるとかじゃなくて」とソウは続けた。「ただ、ちゃんと分かったって言いたかった」


カイが口を開いた。「……俺も、まだ全部は分かってない気がする」


「俺も」とテルが言った。珍しく、ぼんやりした顔をしていた。


ミオは自分の弁当の蓋を閉じた。「ソウが気づいてくれると、ちゃんと次のことを考えられる気がする」と言った。「なんでだろうね」


「ナナも同じこと言ってた」


「そう?」とミオは少し笑った。「正直でいてくれてありがとう」


レイが口を開いた。珍しく、少し時間をかけてから。


「私も今日、ソウから老人の話を聞いて、少し整理がついた気がしました」


「整理?」


「終わりの速度が変わってきている、という話。分かることを言ってくれる人ではない、と言いましたが」


レイはシャケおにぎりを手に取った。


「それでも、分かることを言いに来ている。それが少し——」


少し、と言って止まった。


「……安心しました」とレイは言った。


ソウは驚かなかった。でも、レイが「安心」という言葉を使ったのは初めて聞いた気がした。



 



午後の接客をこなしながら、ソウはずっと考えていた。


老人の言葉。ニュースの映像。レイの翳った目の下。ナナの「普通って一番難しい」という言葉。


繋がったように見えたものが、今は別のかたちで広がっている。川が合流するみたいに。


閉店一時間前、テレビがまた速報を出した。


〈東京都内の一部地区で、昨日から今日にかけ、時計の針が約三分ズレたと報告した住民が複数。原因については調査中〉


ソウはその速報文字を見た。


三分。


ナナが今朝、遅刻しそうになって止まりかけたと昨日言っていた。


「……気のせいか」


でも今日は気のせいにならなかった。


ソウはカウンターの下で、スマホのメモを開いた。今まで流し続けてきたニュースを、一つ一つ書き始めた。日付は曖昧だ。でも書き留めておかないと、また流してしまいそうな気がした。


富士山。島。地面。時計。星。境界線。


リストを眺めると、それはまだ短かった。


でも始まりがあった。



 



閉店後、みんなで掃除をしていると、テルが自販機の前で立ち止まった。


「ソウ、じゃんけんしようか」


「……なんで急に」


「なんとなく」


いつもと同じやりとり。ソウはため息をついて手を出した。


テルはグーを出した。ソウはパーを出した。ソウの勝ちだった。


「……あれ」


テルは自分の手を見た。


「おかしいな」


「テル、負けたの?」


「……うん」


テルは自分の手を見たまま、少し考えるような顔をした。


「確率が」とテルは静かに言った。「少し、ずれてるかもしれない」


ソウは何も言えなかった。


テルが「まあ、なるようになる」と言ったが、今日はいつもよりわずかに低い声だった。



 



帰り道、ソウは一人だった。


夜空を見上げると、星が少ない。季節のせいかもしれない。雲のせいかもしれない。


でもソウは、それが気のせいだとは思わなかった。


「なんか最近、ニュースが変じゃない?」


今日初めて、声に出した言葉。


ずっと知っていて、ずっと流していた言葉。


流さなくなったのが今日だった。


理由は分からない。老人の話かもしれない。テルが負けたからかもしれない。レイが「安心した」と言ったからかもしれない。


どれでもあって、どれでもない気がした。


ただ、今日は口に出してみた。


それだけのことが、なぜか少し重かった。


ソウはスマホのメモを開いて、最後に一行だけ書いた。


「速度が変わってきている」


閉じた。歩いた。


星が一つ、見えなくなっていた。

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