第50話「なんか最近、ニュースが変じゃない?」
---
土曜日の朝、老人はきっかり十時に来た。
引き戸を押して入ってくる姿を、ソウはカウンターの奥から見ていた。ステッキをつかず、白いシャツ、灰色のズボン。いつもと同じ格好。いつもと同じ歩幅。
「おはようございます」
「ああ」と老人は頷いた。
短い。でも昨日、話しかけてきたときと同じ温度だった。ソウは「少々お待ちください」と言い置いてから、バックヤードの扉をノックした。
「ミオさん、来ました」
扉の向こうで短い沈黙があった。
「……うん」
ミオの声は静かだった。いつもより少しだけ、間があった気がした。
ショールームの端、窓際のソファに老人を案内する。今日は客が少ない。十時開店直後の土曜日にしては、空いている。ソウはそれが何となく気になったが、口には出さなかった。
「先日の続きを聞かせていただいてもいいですか」
ソウが向かいに腰を下ろすと、老人はすでにソウを見ていた。目が静かだった。池の底みたいな静けさ。
「何を聞きたい」
「昨日、境界線がおかしいとおっしゃってました」
「言った」
「何の境界線ですか」
老人は少し考えるように、窓の外へ目を向けた。外では木が風に揺れている。ごく普通の光景。ごく普通の土曜日の朝。
「お前さんには見えているか」
「…何がですか」
「輪郭」
ソウは黙った。
見えていた。昨日から、ずっと。建物の角がわずかにぼやけて見える。空と屋根の境目が、くっきりしていない。ガラスの向こうの景色が、フィルムをひと枚かぶせたみたいな感触を持っている。
「……見えてるような、気はします」
「そうか」
老人は頷いた。ソウを責めない。そういう老人だった。
「今日は一つだけ教えてやろう」
「一つだけ?」
「一度に多く知ることが、よいことだとは限らん」
ソウはその言葉を飲み込むのに少し時間がかかった。
「じゃあ、その一つを」
老人はゆっくりと口を開いた。
「この世界は、ずっとここにあったわけじゃない」
「……」
「始まりがあった。だから終わりがある。問題はその速度だ」
「速度、が」
「本来なら、ずっと先の話だった。だが今は、そうじゃない」
老人はそこで止まった。ソウは続きを待った。続きは来なかった。
「……それだけですか」
「今日はな」
ソウは思わず苦笑した。「少ないですね」
「十分だ」と老人は言った。「それだけで、お前さんは今日一日、考え続ける」
老人が帰ったあと、ソウはしばらくカウンターに肘をついていた。
「始まりがあった。だから終わりがある」
頭の中で、老人の声が繰り返される。携帯電話のアップデート案内みたいな口調で、ただそれだけを言った。
「ソウ」
声がして振り向くと、レイが立っていた。
今日のレイはいつもよりわずかに顔色が悪い。それでもスーツはきっちりしている。髪もきちんとまとめてある。でも目の下がうっすらと翳っていた。
「老人と話した?」
「はい。ちょっとだけ」
「何を」
「……終わりの速度、が変わってきてるって」
レイは無表情のまま頷いた。驚かなかった。もう驚く段階を超えているのかもしれない。
「分かることを言ってくれる人ではないですね、あの方は」
「ミオさんも昔会ったって言ってましたし、やっぱり何かを知ってるんだと思います」
「……私も、そう思います」
レイは視線を窓の外に向けた。老人が出ていった方向。木が揺れている。ソウはレイの横顔を少し見てから、正面を向いた。
「レイさん、今日シフト短くしてもらいましたよね」
「ええ。ミオが調整してくれました」
「無理しないでください」
レイは少し間を置いた。
「……ご心配をおかけしています」
「心配というか」
「という顔をしています、神崎さんは」
ソウは何も言えなかった。正確すぎる。
昼前、テレビが騒ぎ始めた。
バックヤードに置いてある小さなテレビが、時々ニュース速報を出す。ソウがそれを見たのは、在庫の端末を並べ替えている最中だった。
〈速報:東北沿岸部で深夜から未明にかけ、地盤が断続的に浮上する現象。住民への影響は現時点で報告なし〉
ソウは手を止めた。
「……また変なやつ出た」
端末を一台、棚に置く。
テレビはそのままニュースに切り替わった。アナウンサーが淡々と原因不明、専門家も困惑、国土地理院が調査中、と読み上げている。画面の端に映った海岸線は、確かに少し盛り上がっているように見えた。地面が波打つように、でも一瞬だけ。
「……なんか変じゃない?」
独り言だった。
でも今日は、独り言のままにしておく気になれなかった。
昨日の。一昨日の。先週の。先々週のニュース。頭の中で、映像が繋がり始める。
富士山の標高が三メートル減った。ペルー沖の島が消えた。東京の一角で「昨日の記憶がない」住民が続出した。北海道の精密機器が誤作動した。畑が浮き上がった。砂浜が消えた。星が薄くなった。
ぜんぶ、バラバラだと思っていた。
ぜんぶ、「気のせいか」で流していた。
「ソウ」
ナナが扉から顔を出した。丸い目で、少し眉を寄せている。
「どしたの? ぼーっとしてる」
「…ちょっと考えてた」
「何を?」
ソウはテレビを見た。もうニュースは終わって、次の話題に移っている。
「なんか最近、ニュースが変じゃない?」
言葉にしてみると、不思議と軽くなかった。自分が思っていたよりも重く、口から出てきた。
ナナは一瞬、固まった。
「……変、って」
「富士山が縮んだり、島が消えたり、地面が浮いたり。関係ないニュースだと思って流してたんだけど」
ナナが目を動かした。壁を見て、床を見て、またソウを見た。
「それって、さ」
「うん」
「……ぜんぶ、私たちのせいかもしれない、って話」
「そう、みんな知ってたんだろうけど」
ソウは棚の端末を一台手に取った。画面が反射して、天井の蛍光灯が映っている。
「俺、ちゃんと分かってなかったと思う。頭では聞いてたんだけど、なんか今日、急に繋がった感じがして」
ナナは黙っていた。しばらく経ってから、「うん」と小さく言った。
「ずっとここにあったニュースだったんだよね」とナナが言った。「私たちが来る前からこの世界で起きてたわけじゃなくて、私たちが来てから増えてって」
「気づいてたの?」
「……うすうすは。でも言ったらどうすればいいか分からなくて」
ソウは端末を戻した。
「ミオさんに話そう」と言った。「みんなに話そう。たぶん、みんなすでに知ってることだろうけど」
「うん」
「でも俺が、ちゃんと分かったって話をしたい」
ナナはふっと力を抜いたような顔をした。笑ったとも違う。でも何かが緩んだ顔だった。
「ソウが言うなら、みんなも聞く気になると思う」
「なんで俺が言うのに限定されるんだよ」
「だって、ソウが一番普通だから」
「……褒めてないよねそれ」
「褒めてるよ」とナナは真顔で言った。「普通って、一番難しいんだよ、たぶん」
昼休憩、六人がバックヤードに集まった。
ミオが弁当を配る。今日のはシャケおにぎりと卵焼きだった。複製品。夕方には消える。でも今の時間には確かに存在している。ソウはそれを受け取りながら、少し不思議な気持ちになった。
「ミオさん」
「うん?」
「さっき、ニュースを見てたら、繋がって見えてきて」
カイが顔を上げた。テルが目を開けた。レイはすでにソウを見ていた。
「俺、今まで全部流してたんですけど」
ソウはおにぎりをテーブルに置いた。
「富士山のやつ、島のやつ、地面が浮いたやつ、ぜんぶ今日初めて一本に繋がった気がしました。みんなのせいだって、頭では知ってたつもりなのに、全然分かってなかった」
誰も何も言わなかった。
「怒ってるとかじゃなくて」とソウは続けた。「ただ、ちゃんと分かったって言いたかった」
カイが口を開いた。「……俺も、まだ全部は分かってない気がする」
「俺も」とテルが言った。珍しく、ぼんやりした顔をしていた。
ミオは自分の弁当の蓋を閉じた。「ソウが気づいてくれると、ちゃんと次のことを考えられる気がする」と言った。「なんでだろうね」
「ナナも同じこと言ってた」
「そう?」とミオは少し笑った。「正直でいてくれてありがとう」
レイが口を開いた。珍しく、少し時間をかけてから。
「私も今日、ソウから老人の話を聞いて、少し整理がついた気がしました」
「整理?」
「終わりの速度が変わってきている、という話。分かることを言ってくれる人ではない、と言いましたが」
レイはシャケおにぎりを手に取った。
「それでも、分かることを言いに来ている。それが少し——」
少し、と言って止まった。
「……安心しました」とレイは言った。
ソウは驚かなかった。でも、レイが「安心」という言葉を使ったのは初めて聞いた気がした。
午後の接客をこなしながら、ソウはずっと考えていた。
老人の言葉。ニュースの映像。レイの翳った目の下。ナナの「普通って一番難しい」という言葉。
繋がったように見えたものが、今は別のかたちで広がっている。川が合流するみたいに。
閉店一時間前、テレビがまた速報を出した。
〈東京都内の一部地区で、昨日から今日にかけ、時計の針が約三分ズレたと報告した住民が複数。原因については調査中〉
ソウはその速報文字を見た。
三分。
ナナが今朝、遅刻しそうになって止まりかけたと昨日言っていた。
「……気のせいか」
でも今日は気のせいにならなかった。
ソウはカウンターの下で、スマホのメモを開いた。今まで流し続けてきたニュースを、一つ一つ書き始めた。日付は曖昧だ。でも書き留めておかないと、また流してしまいそうな気がした。
富士山。島。地面。時計。星。境界線。
リストを眺めると、それはまだ短かった。
でも始まりがあった。
閉店後、みんなで掃除をしていると、テルが自販機の前で立ち止まった。
「ソウ、じゃんけんしようか」
「……なんで急に」
「なんとなく」
いつもと同じやりとり。ソウはため息をついて手を出した。
テルはグーを出した。ソウはパーを出した。ソウの勝ちだった。
「……あれ」
テルは自分の手を見た。
「おかしいな」
「テル、負けたの?」
「……うん」
テルは自分の手を見たまま、少し考えるような顔をした。
「確率が」とテルは静かに言った。「少し、ずれてるかもしれない」
ソウは何も言えなかった。
テルが「まあ、なるようになる」と言ったが、今日はいつもよりわずかに低い声だった。
帰り道、ソウは一人だった。
夜空を見上げると、星が少ない。季節のせいかもしれない。雲のせいかもしれない。
でもソウは、それが気のせいだとは思わなかった。
「なんか最近、ニュースが変じゃない?」
今日初めて、声に出した言葉。
ずっと知っていて、ずっと流していた言葉。
流さなくなったのが今日だった。
理由は分からない。老人の話かもしれない。テルが負けたからかもしれない。レイが「安心した」と言ったからかもしれない。
どれでもあって、どれでもない気がした。
ただ、今日は口に出してみた。
それだけのことが、なぜか少し重かった。
ソウはスマホのメモを開いて、最後に一行だけ書いた。
「速度が変わってきている」
閉じた。歩いた。
星が一つ、見えなくなっていた。




