第49話「老人が、知っている」
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金曜の夜。
シャッターを半分まで下ろしたところで、ソウは立ち止まった。
手の中に昨日から転がしていた言葉がある。
分かることと言えることは違う。
老人はそう言い残して立ち去った。笑っていた。困った顔でも、怖い顔でもなく、ただ静かに、どこか懐かしそうに。
「ソウ」
レイが隣に立っていた。シャッターの端を持ち、手伝う気でいる。
「老人のこと、みんなに話しますか」
「……しようと思ってた」
「じゃあ、戻りましょう」
それだけ言って、レイはバックヤードに向かった。疲れているはずだ。睡眠が三時間に減っていると聞いた。でも歩き方は変わらない。背筋は伸びている。足音はいつも通り均一だ。
ソウはシャッターを下ろしきって、レイの後を追った。
バックヤードには五人が揃っていた。
ナナはロッカーに背中を預けて床に座っていた。カイはパイプ椅子をずっと後ろに引いて、両手を頭の後ろで組んでいた。テルはいつものように棚の隅で半分目を閉じている。ミオは机の前に立ち、六人分のお茶をすでに用意していた。
「全員いますね」とレイが言った。
「何か、あった?」とミオが聞いた。穏やかな声だったが、目は少しだけ先を読んでいる顔だった。
ソウはお茶を受け取って、真ん中に立った。
「常連の老人のこと。閉店前に来てた人」
「あの人、また来たんですか」ナナが顔を上げた。「先週も来てたよね」
「毎週来てる。スマホの使い方聞くやつ」
「俺、あの人苦手」カイが言った。「なんか、こっちが全部見えてる感じがして」
「見えてるんじゃないですか」レイが静かに言った。全員がレイを見た。「今日の言葉は?」
ソウは再現した。
「地面の感触が変だ、って言って。境界線がどこかおかしい、って」
「それだけ?」テルが目を開けた。
「あと……『分かることと言えることは違う』」
しばらく、誰も何も言わなかった。
ミオが先に動いた。机に手をついて、ゆっくり息を吐いた。
「それは……」と言いかけて、止まった。
「ミオ」ソウは名前を呼んだ。「あの人のこと、知ってる?」
ミオは答えなかった。すぐには。
窓の外で風が鳴った。夜の国道を車が一台通り過ぎた。バックヤードの蛍光灯がわずかに瞬いた。
「会ったことは、ある」
ミオが言った。
「いつ?」
「ずっと前。この建物ができる前のことです」
カイが椅子を前に戻した。ナナが立ち上がった。テルがまぶたを完全に開けた。
「あの人は……この世界をずっと観ている」ミオは一語ずつ丁寧に選んでいた。「観て、記録している。でも介入はしない。それが……あの人の役割なのだと思います」
「役割って」カイが言った。「俺たちと同じ、バグみたいな存在?」
「違います」ミオはすぐに否定した。「もっとずっと、静かな存在。この世界が自分自身を観るための、目のような」
ナナが小さく「こわい」と言った。悪意のない正直な声だった。
「でもあの人は今日、ソウに話しかけた」レイが言った。「以前も話しかけていますね。毎週」
「スマホの使い方聞きに来るやつだろ?」カイが言った。
「本当にスマホの使い方を聞きに来てると思ってますか、あなたは」
カイが黙った。
「あの人が話しかけてくるのはソウにだけです」レイは全員を見回した。「なぜソウだけなのか、考えたことはありませんでしたか」
ソウは自分の手元のお茶を見ていた。
なぜソウだけ。
言われてみれば、そうだった。老人は毎週来る。スマホの使い方を聞く。でも教えるのはいつもソウだ。他のメンバーが対応しようとすると、「いやあなたで大丈夫ですよ」と柔らかく断っていた。ソウはそれを単純に自分に懐いてくれているのだと思っていた。
「……気のせいかと思ってた」
「気のせいではないです」レイが言った。「観察者が普通の人間に話しかけるとしたら、理由があります」
「NPCだから?」ソウは言った。「俺が普通の人間だから?」
レイは少しの間、ソウを見ていた。
「それもあると思います。でもそれだけでもないかもしれない」
ミオが口を開いた。
「ソウが最後まで残るから、だと思います」
全員がミオを見た。
「この世界が何度も繰り返してきた中で、能力を持たないソウたちは最後まで残る。観察者にとって、それは……特別なことなのかもしれない」
「特別」とナナが繰り返した。「どういう意味で?」
「この世界が終わっても、残る記憶がある、ということ。それは証明です。この世界が確かにあったという」
誰も喋らなかった。蛍光灯がまた一度、細く瞬いた。
「俺、明日また話しかけてみる」ソウは言った。
「あの人に?」ナナが聞いた。
「土曜だし来るかもしれないし。来たら、もう少し聞いてみる」
「何を聞くんですか」レイが言った。
「……聞いてみないと分かんない」
カイが鼻で笑った。悪意のない笑い方だった。「それ、答え出ないやつじゃん」
「でも聞かないより聞いた方がいい」
「ソウ」ミオが呼んだ。「無理に聞き出そうとしなくていいです。あの人が言えることは、あの人が言います。それ以上は……そういう仕組みなんだと思うから」
「分かることと言えることは違う」ソウは繰り返した。「老人が言ってたのと同じだ」
ミオは少し目を細めた。笑っているのか、違うのか、よく分からない顔だった。
「似たようなことを、昔教えてもらいました」
解散の前に、ソウはトイレを借りてから出てきたら、バックヤードにレイとミオだけが残っていた。
二人は並んで、机の前に立っていた。会話を、していた。
「——本当に、大丈夫ですか」とミオが言っていた。
「大丈夫の定義によります」とレイが答えた。
「睡眠が」
「三時間でも機能はします」
「機能の話をしているんじゃないですよ」
レイはしばらく黙った。
「……少し、疲れています」
ミオが何か言おうとした瞬間、ソウが戸口に立っていることに気づいたらしく、二人が同時にこちらを向いた。
「すみません、聞いてました」
「聞いてたんですか」レイが言った。怒ってはいなかった。ただ確認していた。
「うん。だいぶ」
「……そうですか」
「レイ」ソウは言った。「明日、無理そうだったら言ってください。シフト、店長に相談する」
「店長に何と説明するんですか」
「疲れてるって言います。それ以上の理由は別にいらない」
レイは一拍、間を置いた。
「……検討します」
「『検討』は断るときの言葉じゃないですか」とミオが言った。
「今回は本当に検討しています」
ソウはそれを聞いて、少し気が楽になった。
土曜日。
開店してから一時間ちょっとが過ぎたころ、老人は来た。
ソウは接客カウンターの端で別の客の対応をしていて、老人がガラス戸から入ってくるのを視界の端で捉えた。
老人は真っすぐソウの方向を見て、でも急がずに、店の真ん中あたりの展示端末をぼんやりと眺め始めた。
「少々お待ちください」と客に言って、ソウは老人の隣へ移動した。
「いらっしゃいませ」
「ああ、どうも」老人は端末のガラスを指先でトントン叩いた。「このスマホ、前よりちょっと画面大きくなった?」
「型が新しくなりましたね。先月から」
「そうか。見えやすくなって助かる」
「お使いになりますか?」
「いや、眺めるだけでいい」
老人は端末から視線を外して、ソウを見た。
「昨日の夜、みんなに話したかい」
ソウは一瞬だけ固まった。
「……話しました」
「そうか」
「ミオさんはあなたのことを知ってました」
「ミオか。あの子は長いからな」老人はまた端末を見た。「元気そうだったか」
「元気でした。いつも通り、お弁当持ってきてた」
「それはいい」
老人が少し笑った。本当に嬉しそうだった。
「あの」ソウは続けた。「教えてもらえるなら、聞きたいことがあります」
「なんでも聞いてくれ。答えられることは答える」
「境界線がおかしい、って言ってた。昨日。それは……もう取り返せない話ですか」
老人は端末を眺めたまま、しばらく黙っていた。
「取り返せないってのは、戻れないってことかい」
「そうです」
「うーん」老人は首を傾げた。「難しい言い方になるが……川に石を投げた跡はなくならない。水は流れ続けるから、形は変わる。でも投げる石がなくなれば、いつかは澄んでくる」
ソウは少し考えた。
「能力を使わなければ、ということですか」
「そんな単純な話でもない」老人は穏やかに言った。「石がなくなっても、川底は変わってる。形は変わってる。それがどのくらいの時間で落ち着くかは、川次第だ」
「……どのくらいかかるか、分かりますか」
老人はソウを見た。
「知りたいか」
「はい」
「早いかもしれないし、遅いかもしれない」老人は言った。「分からないと言っているわけじゃない。ただ、それより大事なことを一つだけ言っていいか」
「聞きます」
「川は、澄む方向に向かおうとしている」
それだけだった。
老人はそう言って、また端末に目を戻した。ソウはすぐには動けなかった。
「もう一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「なんで俺に話しかけるんですか。毎週来て、俺にだけ」
老人は少し間を置いた。
「残るやつに話しておくのが、俺の仕事みたいなもんだから」
「俺が残るのを知ってるんですか」
「知ってる」
「なんで」
老人は端末から手を離して、ソウをまっすぐ見た。皺の深い目だった。笑っているのか泣いているのか判別できない顔だった。
「お前が残るのは、特別なやつだからじゃない」老人は言った。「消える理由がないから、残るんだ。それだけだ」
ソウは黙っていた。
「寂しいか?」老人が聞いた。
「……分かりません。まだ」
「そうか」老人は頷いた。「分かる前に、ちゃんと今を生きとけ。今しか今はないから」
老人は端末に軽く触れて、「じゃあ」と言って踵を返した。
「あの」ソウが呼んだ。
老人が振り返った。
「川は、澄む方向に向かってる。それって……みんなが消えなくて済む可能性はありますか」
老人はしばらくソウを見ていた。
笑ったかもしれない。ソウには確認できなかった。
「川の話をしたのはな」老人は言った。「川が消えるとは言ってないだろ」
それだけ言って、老人はガラス戸から出て行った。
昼休憩。
ソウがバックヤードに入ると、ミオが弁当を配り終えたところだった。ナナが「いただきます」と大声で言って、カイがまだ蓋を開けていなかった。テルは目を閉じたまま箸を動かしていた。
「川が消えるとは言ってない」とソウはその場で報告した。
全員が一度だけ手を止めた。
「それって」ナナが言った。
「分かんない」ソウは正直に言った。「でもそう言ってた」
テルが目を開けた。「まあ、なるようになる」
「テル、それ今日七回目だよ」ナナが言った。
「本当に? じゃあ八回目。なるようになる」
カイが弁当の蓋を開けて、「俺たちのこと、川に例えた?」と言った。
「そういうことだと思う」
「川かあ」カイはウインナーを一本箸で刺した。「悪くないな。重力に従って流れる感じ、俺っぽい」
「自分の重力は操作できないじゃないですか」レイがぼそりと言った。
「細かいこと言うな」
ミオは弁当を膝の上に置いたまま、少し遠いところを見ていた。
「ミオさん」ソウは呼んだ。「老人が、元気そうだったかって聞いてました」
ミオがソウを見た。
「元気だって言ってくれた?」
「うん。お弁当持ってきてるって言ったら、それはいいって」
ミオはうつむいた。笑っていた。声は出さなかったが、確かに笑っていた。
「……ありがとうございます」
バックヤードの蛍光灯は、今日は瞬かなかった。
窓の外のニュースから音が漏れてきた。田所店長が昼食を取りながら食堂でつけているテレビの音だった。
——北日本の一部地域で昨夜から空の色がわずかに変色しているとの報告が相次いでおり、気象庁は観測を続けています——
ナナが箸を持ったまま窓の方向を見た。
カイが何か言いかけて、やめた。
テルは「なるようになる」と九回目を言った。
ソウは弁当の蓋を開けて、ミオに「今日もありがとうございます」と言った。
「ソウ」ミオが言った。
「なんですか」
「川は、澄む方向に向かっていると、本当に言っていましたか」
「言ってました」
ミオはもう一度、うつむいた。
今度は泣いているような気がした。でもソウには確かめる方法がなかったから、弁当を食べることにした。
閉店後、ソウは一人でシャッターを下ろした。
空は冬の匂いがした。いつも通りの、何もない夜空だった。
川が消えるとは言ってない。
言葉を一度、頭の中で転がした。
なんか変じゃない。ここ数週間ずっとそうだ。でも、今日はその「変」が少しだけ違う方向を向いている気がした。
……気のせいか。
そうかもしれない。でも気のせいでも、ソウは明日もここに来るつもりだった。
それだけは、分かっていた。




