第48話「境界線が、ない」
金曜の午後だった。
店のガラス越しに見える空が、今日も少しだけおかしい。
ソウはそれに気づいていたが、気づいていないふりをしながらレジカウンターを拭いていた。空の色がおかしいというより、空と建物の輪郭が、どこかふわっとしているのだ。ピントが甘い写真みたいに。
……気のせいか。
たぶん、目が疲れている。
バックヤードから音がした。テレビの音量が上がった。
「——北関東から東北にかけて、複数の地点で今朝から観測される異常現象について続報です。宮城県南部の農村地帯では、畑の一区画が高さ約三十センチ、突如として地面ごと持ち上がった状態で固定されており——」
ソウはレジカウンターを拭く手を止めた。
テレビはバックヤードにある。音だけが聞こえてくる。
「——専門家によれば、局所的な地殻活動では説明がつかないとのことで——」
……なんか変じゃない?
いや、変だ。普通に変だ。
ソウはレジカウンターの上に布を置いて、バックヤードのドア枠に肩をもたせかけた。
テルが丸椅子の上で膝を抱えてテレビを見ていた。ミオがその隣でお茶を飲んでいた。二人とも、無言だった。
「テル」
「うん」
「畑が浮いてる」
「うん」
「原因不明って言ってる」
「うん」
「……なんか、知ってる?」
テルはしばらく黙っていた。お茶のカップを両手で包んでいるミオも、特に何も言わなかった。
やがてテルは天井を見上げた。
「重力が、たまにおかしくなってる」
「カイのせい?」
「カイが能力を使っていなくても、もう動き続けてるってことだと思う」
ソウはその言葉を噛み砕こうとして、うまくできなかった。
「川の話」
ミオが静かに言った。
「昨日も話したやつ」
「うん。上流を堰き止めても、水は流れ続ける」
ソウは壁に背を預けた。
畑が浮いている。理由なく。誰も能力を使っていないのに。
……気のせいとは言えないやつだ、これは。
午後三時になると、カイとナナが揃って出勤してきた。
「さむっ」とナナが言い、「今日は客が少ないな」とカイが言い、二人はそれぞれロッカーに荷物を入れた。日常の動作だった。いつも通りだった。
ソウはナナがロッカーを閉める音を聞きながら、何でもないことのありがたさについてうっすら考えた。
「ソウくん、テレビ見た?」
ナナが振り返った。眉が少し下がっている。
「見た」
「畑が浮いてた」
「うん」
「使ってないんだけどな、わたし」
「知ってる」
「それでも、なんか……」
ナナは言いかけて、口を閉じた。
カイがロッカーを乱暴に閉めて、ネクタイを締め直した。
「俺も使ってない」
「分かってる」
「でも重力がおかしくなってる」
「分かってる」
「……最悪だな」
カイにしては珍しく、声に棘がなかった。ただ事実を言っているだけの声だった。
ソウは何も言えなかった。代わりに「そろそろフロアに出よう」と言った。
レイは午後四時に出勤した。
いつも通り、制服はきっちり着ていた。髪も崩れていない。スカーフも乱れていない。でもソウには、何かが少しだけ違って見えた。
……何だろう。
レイが「お疲れ様です」と言いながら荷物を置いた。スペアの服が入った袋の音がした。五セット分の、あの音だ。
「レイさん」
「はい」
「昨日、何時間寝ました?」
レイは一瞬止まった。ほんの一瞬だったが、ソウには見えた。
「三時間程度です」
「また四時間切った」
「問題ありません」
「どっちが正しいんですか、昨日の四時間と今日の三時間」
「今日の方が正確です」
ソウは何も言えなかった。レイは「フロアに出ます」とだけ言って、バックヤードを出ていった。
能力抑制が続いている。
使わないという選択が、レイにとっては能力を使い続けるよりも消耗することかもしれない——そう気づいたのは昨日のことだったが、今日もその感覚は変わらなかった。
……どうしろってんだ。
閉店一時間前、客足がぱたりと止まった。
平日の夕方にはよくある時間帯で、ソウとレイがフロアを整えていると、あの常連のおじいさんが入ってきた。
田所店長が「いらっしゃいませ」と言い、おじいさんは「また来てしまいました」と言って笑った。
いつも通りの光景だった。でも今日のおじいさんは、スマホを持っていなかった。
「今日は端末は持ってこなかったんですか?」
ソウが声をかけると、おじいさんは少し考えてから「今日は機械の話じゃなくて、君と話したかったんです」と言った。
「俺と」
「そう。君と」
ソウはレイを一瞬見た。レイは表情を変えずに棚の整理を続けていた。
おじいさんはソファ席に座った。ソウもその向かいに座った。
「最近、外を歩いていると、地面の感触が変な気がするんです」
「変、というのは」
「どこを踏んでいるのかよく分からない、という感じです。踏んでいるのに、足が地面に触れていない感じ、とでも言いましょうか」
ソウは何も言わなかった。
おじいさんは続けた。
「畑が浮いたニュース、見ましたか」
「見ました」
「どう思いました?」
「……正直に言うと、変だと思いました。でも、何がどう変なのか、自分では説明できなくて」
おじいさんは頷いた。ゆっくりと、静かに。
「境界線が、ない」
「え?」
「どこからどこまでが物、どこからどこまでが空気、どこからどこまでが地面——その境界線が、どこかおかしくなっているんじゃないかと思うんです」
ソウの背中に、なんとも言えない感触が走った。
寒いわけでも、怖いわけでもない。でも何かが確実に引っかかった。
「おじいさんは、その原因が分かってるんですか」
「さあ」
「さあって」
「分かることと、言えることは違いますから」
おじいさんは笑った。穏やかな笑い方だった。
「君はこのバイト先が好きですか」
「突然ですね」
「好きですか」
「……はい」
「ここにいる人たちが好きですか」
「はい」
「それで十分です」
おじいさんは立ち上がった。いつも何かを買って帰るのに、今日は何も買わなかった。
「また来ます」
「はい」
「次に来るときは、もう少し話しましょう」
おじいさんはそう言って、静かに店を出ていった。
ソウはしばらく、ソファの上でその言葉を反芻していた。
境界線が、ない。
……なんか変じゃない?
いや、もうそういう段階じゃないかもしれない。
閉店後、六人がバックヤードに揃った。
ミオが今日も弁当の残りを配った。複製品だから、もう食べきらないと消える。ナナがぱくぱく食べ、カイが「今日の卵焼き、うまいな」と言い、テルが「昨日もそれ言ってたよ」と指摘した。
ソウはそれを聞きながら、おじいさんの言葉をミオに伝えることにした。
「今日、常連のおじいさんが来て」
「ああ、さっき見えました」
「スマホ持ってきてなかったんですよ。俺と話したいって言って」
「何を話したんですか」
「境界線がなくなってるって」
バックヤードが静かになった。
ナナが箸を止めた。カイが卵焼きを見つめたまま固まった。テルはカップを両手で持ったまま、ソウを見た。
レイは表情を変えなかったが、壁の一点を見ていた。
ミオだけが、ゆっくりと頷いた。
「正確な表現だと思います」
「ミオさん、あのおじいさんのことを知ってるんですか」
「知っているというより……長い間、見かけてはいます」
「長い間って、どれくらい」
「かなり長く」
ソウはその答えに、あまり驚かなかった。最近はミオの答えがどれだけ曖昧でも、なんとなく受け入れられるようになっていた。
「境界線がなくなる、というのは」
レイが口を開いた。
「物質の境界が不安定化する、ということですか」
「それに近いと思います」
レイは少しの間沈黙した。
「私が壁をすり抜けるとき、境界を一時的に無効化しています。それを繰り返すことで……境界そのものの定義が揺らいでいると、前から考えていました」
「副作用の本質かもしれないね」
テルが静かに言った。
「重力の境界、時間の境界、確率の境界、物の境界——俺たちがそれぞれ自分の担当している境界をずっと揺らし続けてきた」
「使わないようにしてるのに、もう動いてる」
ナナが小さな声で言った。
「うん」
「止められない?」
「分からない。でも、どうにかしたいとは思ってる」
テルは窓の外を見た。夜の空だった。星が、少し前よりも少ないかもしれなかった。
その時だった。
レイが「少し待ってください」と言った。
ソウは反射的に椅子を回転させて壁の方を向いた。
パサッ、という音がした。
ドサッ、という音がした。
スーツのジャケットだ、という認識がソウの脳内を高速で走り抜けた。次にシャツの音。次にスカートの音。バックヤードの床に、整然と畳まれていく布の気配。
……なんで今。
「レイさん! 今、会議中というか、話し合い中というか——!」
「承知しています」
平静な声だった。完全に平静な声だった。
「なら——!」
「確認したいことがあって」
壁に向かったまま、ソウはそう言われた。
「確認?」
「壁に触れてみます。境界の状態を直接感じた方が正確なデータが取れると思って」
「データ!?」
「これが私の仕様なので」
「知ってます! 知ってますけど!」
ナナが「ソウくん、顔赤い」と言い、カイが「よそ見すんなよ」と笑い、テルが「なるようになる」と呟いた。
ずぶっ、という音がした。
物質に物質が沈み込んでいくような、普通はあり得ない音だった。レイが壁に入っていった音だった。
「……ちょっと待って、今の音って」
壁の向こうから声が聞こえた。
「予想通りです」
「何が!?」
「境界の抵抗が、以前より薄くなっています」
壁の向こうから、レイの声は続いた。
「一ヶ月前に同じ壁に触れた時の感覚と比較すると、明確に変化しています。壁が壁として機能しようとする力が弱まっている、とでも言えばいいでしょうか」
「それを今、裸で確認してる場合ですか!?」
「裸でないと確認できません」
「それは分かってます! でも!」
ずぶっ、と音がして、今度は逆方向に戻ってくる音がした。
バサバサ、という音がした。スペアの服を広げている音だ。
ソウはまだ壁を向いていた。首筋が熱かった。
「着替え完了です」
振り返ると、レイはいつも通り制服を着ていた。完璧に着ている。三秒前まで何があったのか想像もできない佇まいだった。
「……一応聞くんですけど」
「はい」
「もう少し段取りよくできないですか」
「話し合いの最中に気づいてしまったので」
「気づいたとしても!」
「抵抗感が今日は特に薄かったので、確認を優先しました」
「俺の心臓を優先してください」
テルが「なるようになる」と言い、カイが「お前ほんとに慣れないな」と言い、ナナが「ソウくん、まだ赤い」と言った。
ミオが静かに笑っていた。
レイが椅子に座り直した。
バックヤードが少しだけ、さっきより明るい空気になっていた。
「それで、結論は」
ソウが言った。まだ耳が少し熱かったが、話を戻した。
「境界の劣化は、私たちが能力を使っていなくても進行しています」
「うん」
「ただ、確認できたことがあります」
レイは全員を見た。
「壁はまだ壁として存在しようとしていました。機能が弱まっているだけで、消えてはいない。境界線は薄くなっているが、なくなってはいない」
バックヤードが静かになった。
「まだ、ある」
ナナが繰り返した。
「はい」
「まだ、消えてない」
「現時点では」
ナナは小さく息を吐いた。泣くのをこらえているのか、安堵なのか、ソウには判断できなかった。
ミオが立ち上がった。
「今日はここまでにしましょう。明日も開店があります」
みんなが立ち上がった。荷物を持って、ロッカーを開けた。いつも通りの閉店後だった。
ソウは最後に出ようとして、ふとバックヤードを振り返った。
テレビが消えていた。弁当の容器が片付けられていた。レイのスペアの服の袋が、ロッカーの中に収まっていた。
境界線は、まだある。
……今日は、それだけで十分だ。
外に出ると、ナナが空を見上げていた。
「星、少なくない?」
ソウも空を見た。
いつもより確かに、少なかった。
「……気のせいかもしれない」
ソウは言った。
ナナは「そうかなあ」と言いながら、それ以上は追わなかった。
六人で駐輪場の方へ歩いていった。アスファルトは今日も普通に固かった。地面はちゃんとそこにあった。足がちゃんと地面を踏んでいた。
おじいさんは「次に来るときは、もう少し話しましょう」と言っていた。
次は何を話すつもりなんだろうと、ソウは思いながら、自転車のカギを取り出した。




