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アップデートしてください。〜うちのバイト先、なんか変な人しかいないんですけど〜  作者: ハル
このバイト先、なんか変じゃない?

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第47話「疲れるって、そういうことか」

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金曜の朝、ソウが出勤すると店の表ガラスが少し曇っていた。


拭こうとして気づく。曇っているのではなく、ガラスそのものの端が、ほんのわずかにぼやけていた。


触れてみると、指先に確かな硬さはある。割れているわけでも、傷があるわけでもない。ただ、輪郭が。


「……気のせいか」


ソウはタオルで表面を拭いて、そのまま店内に入った。


レジカウンターの奥、バックヤードへ続く扉の前で、ミオがすでにエプロンを着けていた。いつも通り、六人分の弁当袋を床に並べながら、なにかを数えるように指を折っている。


「おはようございます」


ミオが顔を上げた。


「神崎くん、早いね」


「レイさんは?」


「もう来てる。奥で書類整理してるよ」


ソウはバックヤードへ入る。奥のデスクで、氷室レイが端末を見つめていた。いつも通りの完璧なスーツ。髪は整然と束ねられている。手は止まっている。


「おはようございます、氷室さん」


レイがゆっくりと視線を上げた。


「おはようございます」


声は静かだった。いつも静かだが、今朝はその静けさの種類がすこし違う気がした。


「昨日、眠れましたか」


問うと、レイはわずかに眉を動かした。


「……四時間は、眠れました」


「それ、眠れてないやつじゃないですか」


「仕様です」


「仕様で片づけるの、そろそろ限界ありませんか」


レイは端末に視線を戻した。ソウはそれ以上は言わなかった。


カウンターの向こうで、テレビが朝のニュースを流し始める。ソウは半分だけ耳を向けた。


「――昨夜、南太平洋のトンガ周辺海域で、複数の無人島が地図から消失していることが確認されました。衛星画像では島影そのものが確認できず、海底地形の急変が原因とみられて――」


ソウは一瞬手を止めた。


「……なんか最近、島ばっかり消えてない?」


「神崎くん?」ミオが弁当袋を持って入ってきた。「なに言ってたの」


「いや、ニュース。南太平洋で島が消えたって」


「そう」


ミオの声は穏やかだった。穏やかすぎた。ソウはその穏やかさの裏側を、もうすこし読めるようになっていた。


「ミオさんは、知ってたんですか」


「何を?」


「この前より、増えてる。異変の数」


ミオは弁当袋を棚に置いて、それからソウを見た。


「……そうかもしれないね」


「能力、みんな使ってないのに」


「うん」


「なのに増えてるって、どういうことですか」


ミオは少しだけ黙った。


「今朝、みんなに話そうと思ってた」



 



八時五十分。


バックヤードに全員が揃ったのは、ナナが転がり込んできた一分後だった。


「間に合った!」


「一秒遅刻」とテルが静かに指摘した。


「一秒は遅刻じゃないです!」


「就業規則的には遅刻です」とレイが言った。


ナナはくの字に折れた。「ぐっ……」


カイが腕を組んで壁にもたれかかった。「てかナナ、また能力使ったんじゃないの」


「使ってないです! 本当に自力で走りました!」


「自力で間に合わないのは能力と関係ないのでは」とテルが呟いた。


ナナは何か言いかけて、止まった。図星だったらしい。


ソウはその流れを見ながら、少しだけ息をついた。こういう空気がある間は、まだ大丈夫な気がした。根拠はないけれど。


「みんな、聞いて」


ミオが静かに言った。


部屋が、すっと静かになった。ナナも口を閉じ、カイも姿勢を直す。テルは目を開いた。レイは最初から動かなかった。


「能力の抑制を始めて、四日経った」


ミオは全員を順に見た。


「ニュースは増えてる。ペースは、ほぼ変わってない」


沈黙。


「それってどういう意味ですか」ナナが言った。声が細かった。


「四日で、すぐには変わらないってことかもしれない。でもたぶん、それだけじゃない」


「もう、手遅れ?」


カイが珍しく声を低くした。


「手遅れかどうかは、まだわからない」ミオは言った。「でも、ずっと積み上げてきたものは、すぐには止まらない。川を堰き止めても、上流に溜まった水はしばらく流れ続けるみたいに」


テルが床を見た。「つまり、今から使わなくても、しばらくはひどくなる」


「そういうこと」


「しばらく、がどのくらいかは」


「わからない」


正直だった。ソウはミオのその正直さが、助かると思いながら、同時に怖かった。



 



開店後、ソウはカウンターに立って、午前の接客をこなした。


今日の客は比較的おだやかだった。機種変更の相談が二件、料金プランの見直しが一件。三件とも、話を聞いてちゃんと答えれば、ちゃんと終わった。


昼前に、常連の老人がやってきた。


「また来ちゃったよ」


白髪で、小柄で、いつもゆっくり歩く人だった。毎週木曜か金曜に来て、「スマホの使い方が分からない」と言って、大体三十分いて帰る。


「いらっしゃいませ。今日はどんなことですか」


「写真を、家族に送りたいんだが」


「メッセージアプリですか?」


「そう、それ」


老人はスマホをカウンターに出した。ソウは操作を一緒に確認しながら、手順を教えた。老人は毎回メモを取るが、毎回また来る。それでも怒ったことは一度もなかった。


「……一つ、聞いてもいいかい」


「どうぞ」


老人はスマホを見ながら言った。


「何かが、なくなっていくとき。それを知っている人間が近くにいたら、なにをしてやれると思う?」


ソウは一瞬、手を止めた。


「……何かが、なくなるとき」


「うん」


「何ができるか、ですか」


「そう」


ソウは少し考えた。接客の文脈ではなかった。老人の目が、静かにこちらを見ていた。


「…いっしょにいる、ことですかね」


「それだけ?」


「それだけじゃないかもしれないですけど。でも一番最初に思ったのはそれでした」


老人はゆっくり頷いた。


「そうかもしれないな」


写真の送り方を確認して、老人は帰っていった。ソウはその後ろ姿をしばらく見送った。


「……なんか変じゃない?」


声に出さずに、口の中だけで呟いた。あの老人は、いつも少しだけ、場所がずれている気がする。何かを知っている人の目をしている。


気のせいか、と思った。思ったが、今日は流せなかった。



 



昼休憩。


六人分の弁当が並んだ。ミオの手製で、今日は煮物と卵焼きと小さなおにぎりが二つ。


「これ、複製じゃないですよね」ソウが確認した。


「今朝三時半に作ったやつ」ミオが言った。


「三時半……」


「早起きなんだよ、昔から」


「ミオさん、昔っていつからですか」


「長い昔から」


「それ答えになってないですよ」


ミオはおかしそうに笑った。


カイは箸を持ちながら、珍しく無言で煮物を食べていた。口が早いカイが黙っているのは、たいてい何かを考えているときだ。


「なあ」


カイが言った。


「能力使わないって、正直しんどいな」


誰も驚かなかった。たぶん、みんな思っていた。


「なんか、息を止めてるみたいな感じ?」とナナが言った。「意識してないと出てくるじゃないですか。昨日、ポップスタンドが倒れそうになって、反射的に手が」


「止めたんですか」とソウが聞いた。


「止めました。でも一瞬、タイムラグがあって」


「それ、一回も使わなかったんですか」


ナナは少し間を置いた。


「……一回だけ、止めかけて。止めませんでした」


静かな告白だった。


「しょうがないだろ」とカイが言った。優しくではなく、ただ真っ直ぐに。「三分の一秒とかで判断しろって、そっちのほうが無理だ」


「でも、それのせいで」


「一回で世界が終わるわけじゃないから」


テルが煮物を口に運びながら言った。


「段階的にやばくなってるわけで、一回のナナの時間停止で急にどうこうはならない。宝くじみたいなもんで、一枚買っても確率は大して変わらない」


「テルの宝くじの話、毎回なんか違う気がする」とソウが言った。


「例えの精度より気持ちを受け取れ」


ナナはそれでも顔を上げた。「でもなんか、怖いんです。使いそうになる自分が」


「うん」ミオが言った。「それは怖くていい」


「え?」


「怖いってことは、ちゃんと分かってるってこと。無意識に使い続けてた頃と、違う」


ナナは小さく頷いた。


レイが静かにおにぎりを置いた。


「私も、昨日一度、使いかけました」


全員が見た。レイは続けた。


「閉店後、バックヤードの鍵が引っかかって。いつもなら壁越しに手を入れて外せる。そうすれば十秒で済む」


「でも止めた?」


「止めました。鍵穴を四分半かけて直しました」


「四分半……」カイが絶妙な顔をした。


「効率という観点では最悪でした」


「いや、でも止めたんですね」


「止めました」


レイはまっすぐな声で言った。「体に染み付いていたので、思ったより難しかった。四分半、ずっと手が浮いていました」


ソウはその光景を想像した。完璧な姿勢のレイが、壁の前で四分半、手を宙に浮かせたまま鍵穴と向き合っている。


「……お疲れ様でした」


「ありがとうございます」


レイは少し目を伏せた。それだけで、ソウには十分だった。


テルが弁当のふたを閉めながら言った。


「みんな疲れてるじゃないか、ちゃんと」


「当たり前だろ」とカイが言った。


「それは当たり前じゃなかったんだよ、少し前まで」


テルの言葉に、誰も返さなかった。


少し前まで、みんな好き勝手に能力を使っていた。遅刻をごまかして、在庫を浮かせて、壁をくぐって、自販機の当たりを引いて。疲れていなかった。なにも考えていなかった。


今は疲れている。だからきっと、なにかが変わっている。


「疲れるって、そういうことか」


ソウは声に出してしまってから、あ、と思った。


「なに?」ナナが聞いた。


「なんでもないです」


「言ってみて」


「……なんか変じゃないですけど。みんなが疲れてるの、ちょっと安心した。おかしいですかね」


沈黙。


それからミオが、やわらかく笑った。


「おかしくないよ、神崎くん」


「そう?」


「疲れるってことは、踏ん張ってるってことだからね」


カイが鼻を鳴らした。「なんかセリフっぽいな」


「本当のことはそう聞こえるんだよ」


「それもセリフっぽい」


ミオはカイのおにぎりをひとつ奪って、一口食べた。カイが「俺のだぞ」と言った。ミオは知ってるよと言った。


ナナがくすくす笑った。テルが目を細めた。レイが、ごく小さく、口の端を上げた。


ソウはその場の空気を、頭の中に入れておこうとした。


意味なんかわからなくていい。今ここに六人がいて、弁当を食べていて、疲れている。それでまだ、ちゃんとここにいる。


テレビが午後のニュースを流し始めた。


「――北アルプス・立山連峰の観測所から、主峰・雄山の山頂付近が昨夜から確認できなくなっているとの報告があり――」


ナナが、箸を止めた。


テルが、静かに目を開いた。


レイが、きっちりと正面を向いた。


ソウは一瞬だけテレビを見て、それから弁当のふたを閉めた。


「……午後も、仕事しますか」


誰もすぐには答えなかった。


ミオが立ち上がって、エプロンを結び直した。


「そうだね」


それだけで、全員が動き始めた。



 



午後の開店前、ソウはガラス扉の前に立った。


朝、少しぼやけていた端が、今は正常に見えた。


気のせいだったかもしれない。あるいは気のせいじゃなかったかもしれない。


どちらにせよ、今日の営業は始まる。


ソウは扉のロックを外した。

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