第46話「使わない、という選択」
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木曜の午後一時を少し過ぎたあたり、バックヤードはしんとしていた。
昼休憩のあと、誰も立ち上がらなかった。
六人分の弁当箱が片付けられ、ミオがお茶を淹れ直して、それぞれの手の中に湯飲みが置かれた。窓のない部屋に、空調の低いうなりだけが漂っていた。
店のほうから田所店長の「いらっしゃいませー」という声が聞こえてきた。お客さんが入ってきたのだ。でも誰も動かなかった。
「……俺、行きます」
神崎ソウが立ち上がろうとしたとき、ミオがやんわりと首を振った。
「五分だけ、座ってて」
声に強制するものはない。でも誰も逆らわなかった。
ソウは腰を下ろし直して、自分の手の中の湯飲みを見た。お茶の水面が、かすかに揺れていた。
最初に口を開いたのは、テルだった。
「能力をゼロにする方法が分からないのは分かった」
テルが言う。壁にもたれて、膝を抱えたまま。眠そうな目つきで、でも声だけはいつもより低かった。
「じゃあ、使わないでいるのが今できる唯一のことってことでいい?」
「それでいいと思う」
ミオが返した。穏やかな声だった。
「使わなければ、削れない。削れなければ、今より悪化するペースは落ちる」
「今より悪化するペースが落ちる、か」
テルが繰り返した。肯定とも疑問ともつかない声で。
「止まるわけじゃないんですよね」
ナナが聞いた。声が少し震えていた。
「止まるかどうかは、わからない」
ミオは正直に答えた。
「これまで何度もサイクルが繰り返されてきた、という話はした。そのどれも、完全に止まったことはないと思う。ただ——」
ミオが一度言葉を切った。湯飲みを両手で包んで、床を見てから、また顔を上げた。
「今回は、みんながこうして話し合えた最初のサイクルだ、とも言った。だからわからない。本当にわからない、という意味で言っている」
沈黙があった。
誰かが息を吐いた。誰だったか分からなかった。
「……なんか変じゃない?」
ソウが呟いた。頭の中で整理できていないものをそのまま言葉にしたような、ぼんやりした呟きだった。
「何が?」
カイが聞いた。
「いや……使わない、って選択を、今みんなでしようとしてる。当たり前みたいに聞こえるけど、すごく変な話だよな、と思って」
ソウは自分の手の甲を見ながら言葉を探した。
「能力を使うのって、みんなにとって呼吸みたいなもんじゃないの? 使おうと思って使ってるというより、気づいたら使ってる、みたいな。そういうもんじゃないのかな、と」
返事がなかった。
ソウは少し焦った。余計なことを言ったかと思った。
でもナナが、静かに頷いた。
「……そうです」
ナナが言った。
「遅刻しそうってなったとき、止める前に止まってるんです。考えて使うんじゃなくて、使ってる。起きてた、みたいな感じで」
「俺もそう」
カイが珍しく素直に認めた。腕を組んで、床を見て。
「段ボールが落ちそうになったら浮かせてる。考えてない。条件反射みたいなもんだ」
「じゃあ、使わないでいようとするのって」
ソウはゆっくり言った。
「呼吸をしないでいようとする、みたいな感じ?」
「……近いかもしれない」
レイが静かに言った。
いつもと変わらない声だった。クールで、整然としていて。でも湯飲みを持つ手の角度が、いつもより硬かった。
「正確には違う。私には意識して止める回路が一応ある。ただそれを常時作動させ続けることが——」
レイが少し間を置いた。
「疲弊する、という表現が正しいかどうか分からないけれど。似た状態になる」
「言ってくれてありがとう」
ミオが言った。
レイは小さく目を伏せた。どう見てもほんの一ミリ程度の動作だったが、ソウにはそれが何かの返事に見えた。
話し合いが一段落して、ソウたちはようやく店頭に出た。
午後の携帯ショップは平和だった。
新機種の問い合わせが二件、プラン変更が一件、画面割れの相談が一件。謎の難問も、理不尽なクレームもなかった。
いつもの木曜日だった。
ソウはカウンターで料金プランの資料を整理しながら、なんとなくレイの立ち姿を盗み見た。接客ブースで、お客さんにタブレットの画面を見せながら説明している。表情は穏やかで、所作は完璧で、いつもと何も変わらなかった。
意識して止めてる、とさっき言っていた。
今も、ずっと止めているんだろうか。
ソウはそれ以上考えるのをやめた。考えても仕方のないことだと思ったし、考えながら見ているのが失礼な気がした。
壁際のテレビが、小さな音でニュースを流していた。
『——北陸沖で観測された海底地形の急変について、専門家は「自然現象の範疇を超えている可能性がある」と——』
ソウの手が一瞬止まった。
「……気のせいか」
誰にも聞こえない声でそう呟いて、資料の整理を続けた。
夕方、謎のおじいさんが来た。
毎週水曜か木曜に必ず顔を出す常連で、毎回スマホの使い方を聞く。毎回違う質問を持ってくる。毎回ていねいに教えても次の週にはきれいさっぱり忘れている。
でも嫌な感じが全くしない。不思議な人だった。
「こんにちは、神崎さん」
おじいさんがカウンターに来た。
「こんにちは。今日はどうされましたか?」
ソウはいつも通り聞いた。
「いやぁ、最近なんだか空が変な気がしてね」
おじいさんがのんびりした口調で言った。
「空が、ですか」
「夜に星を見ておったんじゃが、なんか去年より少ない気がする。気のせいかのう」
ソウの手がぴたりと止まった。
「……星、ですか」
「ああ。あの、なんちゅうか、全体的に——薄くなった、というか。子供の頃に見た空とぜんぜん違うとは思うんじゃが、あれは年のせいかのう」
おじいさんが細い目を細めて、薄く笑った。
ソウはそのまま数秒、何も言えなかった。
「……田舎に帰ると多く見えたりしますよ、光害が少ないんで」
ようやくそれだけ言った。
「そうかね。光害かね」
おじいさんは納得したような、納得していないような顔で頷いた。
「実は今日はの、写真を送る方法を教えてほしいんじゃが」
「もちろんです。こちらへどうぞ」
ソウは立ち上がって、おじいさんを接客ブースに案内した。
背中で、テレビのニュースが続いていた。
『——消えた砂浜の件について、地元住民からは「夢を見ているようだ」との声も——』
閉店作業を終えて、全員がバックヤードに戻ってきた。
田所店長は先に上がっていた。「みんなお疲れさん、最近なんか疲れてる顔してるな、たまには飯でも食いに行こう」と言って去っていった。
六人が残った。
ミオが棚の上の弁当箱を片付けながら、ぽつりと言った。
「今日一日、どうだった?」
最初に答えたのはナナだった。
「つらかったです。やっぱり」
正直だった。ナナはいつも正直だった。
「朝、お客さんとのカウンター対応で、数値の入力を間違えて。焦って——止めそうになりました。一回」
「止められた?」
ソウが聞いた。
「止められました。すごい時間かけて打ち直して、お客さんに謝って。五分ぐらいかかりました」
「五分ぐらいかかった話じゃないような気がするけど」
ソウが言うと、ナナが苦笑した。
「そうです。でも——何もしなくても時間は進んだし、お客さんは許してくれたし。やっぱり使わなくていい状況だったって、終わったら分かりました」
「俺は——」
カイが腕を組んで天井を見た。
「段ボールは一回落とした。普通に」
「怪我は?」
「してない。足の指に当たりそうになっただけ。よける方が早かった」
「それでいいじゃないですか」
テルが言った。壁にもたれて目を細めて。眠そうな顔で、でも声はどこか静かに落ち着いていた。
「普通に間違えて、普通によけて、普通に終わった。それが今日の話だよ、カイは」
カイは黙った。否定も肯定もしなかった。でもどこか、ほっとした顔に見えた。
「私は」
レイが言った。
みんなが静かに顔を向けた。
「三回、発動しかけました」
レイは声のトーンを一ミリも変えずに言った。
「壁際を通るたびに——条件反射として信号が来る感じがある。私の仕様で、それは止められない。ただ、その後を遮断することは今日できた」
「三回、全部?」
ソウが確認した。
「はい」
「……すごいな」
「仕様なので」
レイが短く答えた。
でも。
ソウはその「仕様なので」の言い方が、今日はいつもより少しだけ違う気がした。疲れていた、と言ったら正確ではないかもしれない。ただ——重さが、あった。
言おうか迷った。やめた。余計なお世話かもしれなかった。
「一個だけ聞いていいですか」
ナナが言った。
「どうぞ」
ミオが答えた。
「もし——能力を使わずにいれば、世界が今より悪くなるのが遅くなる、って話でした。でも遅くなるだけで、止まるわけじゃないかもしれない。それって——」
ナナが一度言葉を止めた。
「意味がある、って言いますか。ミオさんは」
静寂があった。
ミオはすぐに答えなかった。
目を閉じて、少しの間だけそのまま立っていた。
それから、ゆっくり口を開いた。
「意味があるかどうかを、私は決められない。それはあなたたちが決めることだと思う」
「ミオさんは?」
「私は——」
ミオが柔らかく言った。
「今日、みんなが使わずにいた一日は、あったと思う。起きたと思う。それだけは確かだ」
誰も何も言わなかった。
でもそれは、重い沈黙じゃなかった。
ソウはなんとなく、六人でこの部屋にいる今夜のことを、後で思い出すだろうな、という気がした。理由は分からなかった。ただそういう気がした。
「……帰りますか」
テルが伸びをした。関節が鳴った。
「帰ろう」
ソウが言った。
バックヤードを出て、ロッカーで着替えて、順番に出入り口から外に出た。
夜の空気が冷たかった。
ソウは一人で駅に向かいながら、空を見上げた。
星が出ていた。
少ないような気がした。
数えたことがないから、比べようがない。
「……気のせいか」
ソウは呟いて、歩き続けた。
コートのポケットの中で、スマホが短く震えた。
ニュースの通知だった。
『北海道・十勝沖で観測された「海面の落ち込み」、面積が昨日比で三倍に——専門家「前例のない現象」』
ソウはそれを見た。
少しの間、立ち止まった。
それから、通知を消した。
歩き出した。
家に帰って、飯を食って、寝る。
明日もバイトがある。
六人で、使わずにいる一日が、また始まる。
翌朝のグループトークに、ナナから短いメッセージが届いていた。
「今日も間に合う気がしない!!でも止めません!!」
テルが「なるようになる」とだけ返した。
カイが「遅刻はするな」と返した。
レイからは既読だけついた。
ミオから「今日はサンドイッチにしました」と写真が届いた。
ソウは「楽しみ」と返して、アプリを閉じた。




