第44話「六人で、いる」
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木曜の朝。
携帯ショップの開店まであと四十分という時間に、神崎ソウはバックヤードのパイプ椅子に腰を下ろして、スマートフォンのニュースアプリをぼんやり眺めていた。
——岩手県沖、海底地形の変動が加速。国土地理院、調査チームを派遣へ——
指でスクロールする。
——新潟市内の複数地点で、地面に直径一メートル程度の陥没が相次ぎ確認。原因不明——
また指を動かす。
——気象庁、大気圧の局所的な異常値について調査を開始。一部地域で計測器の誤作動も——
「……なんか変じゃない?」
声に出してみたけれど、バックヤードにはソウしかいなかった。
当たり前だ。誰も答えない。
ソウはアプリを閉じて、テーブルに置いてあったペットボトルのお茶を一口飲んだ。飲んで、天井を見た。特に何があるわけでもない天井。白いだけの。
「気のせいか」
呟いて、立ち上がる。制服のボタンを上から順に確認しながら廊下に出ると、ちょうど裏口のドアが開いた。
「おはよう」
入ってきたのは朱雀ミオだった。大きめのトートバッグを二つ肩にかけていて、そのずっしりとした重さが歩き方に出ている。
「おはようございます」とソウは言い、反射的に「重そうですね、持ちますよ」と手を伸ばした。
「ありがとう」
ミオはすんなりと片方をソウに渡した。中に何が入っているのか、思っていたより軽い。というか、妙に軽い。
「弁当ですか」
「今日は豚の生姜焼きとひじきの煮物」
「また六人分……」
「六人いるんだから、六人分作るでしょう」
それで話が終わった。ソウはバッグを持ったまま、ミオの横を歩く。
廊下は短い。バックヤードまで十歩もかからない。でもミオはその十歩の間に、一度だけ振り返って外の方を見た。視線の先には窓も何もなかったけれど。
ソウは何も言わなかった。
八時五十五分。
バックヤードに六人分の椅子が揃った。
レイが来て、テルが来て、カイが「いや髪型決まんなくて」と言いながら四十分前に来た。最後に、入口のドアが勢いよく開く音がして。
「間に合った!」
日向ナナが飛び込んできた。息を切らしながら、それでも満面の笑みで。
「……一秒遅刻」とレイが腕時計を見ながら言った。
「え」
「八時五十七分。開店は八時五十六分からの準備開始」
「あ、でも開店は九時だから——」
「シフトは八時五十五分入り」
ナナは言葉に詰まった。それからしゅんとした顔で「……ごめんなさい」と言い、椅子に座った。
「毎日走ってくるのに、なんで毎日ギリギリなんだ」とカイが不思議そうに言う。
「なんでだろう」
「疑問に思ってんじゃないのか」
「思ってるよ。なんでだろう、って」
テルがぼんやりした目でその会話を眺めながら、「確率的には六回に一回くらい早く来てもいい計算なんだけど」と呟いた。
「助けてくれてもいいじゃないですか」とナナ。
「能力がどうでもいいことにしか使えないから、ナナちゃんの遅刻はどうでもよくないカテゴリかも」
「どうでもいいじゃないですか!」
「どうでもよくないよ。ちゃんと困ってる」
ナナが「うぅ」と唸る。
ソウはその横でペットボトルのキャップを回しながら、ふと思った。
昨日も一昨日も、バックヤードで重たい話をした。ニュースの話、地図の話、海岸の穴の話、砂浜が二百メートル消えた話。誰かが自分を責めて、誰かが「大丈夫」と言えなくて、それでもミオが弁当を配った。
でも今日の朝は、こんな感じだ。
ナナが遅刻して、テルがぼんやりしていて、カイが髪型を気にしている。ミオが弁当の準備をしていて、レイが腕時計を見ている。
「……なんか、変わんないな」
「何が?」とカイが聞いてきた。
「いや、なんでもない」
「そういう独り言やめてほしいんだよな、ほんと」
「お前だって鏡に向かってよし、とか言ってるじゃないか」
「あれは気合いだ」
「気合いと独り言は何が違うんですか」とナナが聞いた。
「聞き手がいるかどうか」
「鏡は聞き手なの?」
「俺の鏡はそうだ」
テルが目を細めて「哲学的」と言い、また目を閉じた。本当によく寝るやつだ。
ミオがバッグからタッパーを取り出し始めた。六つ。ぴったり六つ。
「朝ごはん食べてきた人も、一応持っていって」
「食べます」とカイが即答した。
「あなたは毎回早い」
「うまいんだよ、ミオさんの飯が」
「ありがとう」
ミオは少しだけ微笑んで、レイにもタッパーを渡した。レイはそれを受け取りながら、ミオの顔を一瞬だけ見た。何か言いたそうで、言わなかった。
ソウはそれを見ていた。
何でもない朝みたいな顔をして、全員がどこかに何かを抱えている。そういう感じが、このバックヤードにはある。
午前中は平和だった。
ソウが担当したのは、六十代くらいの女性の機種変更。丁寧に話を聞いて、プランを三つに絞って、端末の操作説明をして。「わかりやすかったわ」と言ってもらえた。それだけで、ちょっとだけ気持ちが整う。
隣のカウンターではレイが客と話していた。やや難しそうな顔をした男性客で、プランの料金について細かく確認している。
「では、現在のご利用状況を踏まえると——」
レイの説明は正確で淀みがない。男性客の眉間のシワが少しずつ緩んでいく。
ソウは横目でそれを見ながら、内心感心した。レイはいつもそうだ。動じない。声の温度が変わらない。
——怖さを仕様に組み込む、か。
昨日レイがそう言っていたのを思い出した。ミオの生き方を参考にしたい、と。
「神崎さん」
呼ばれて振り返ると、ナナが小走りで近づいてきた。バックヤードの方から来ている。
「どうした」
「ちょっとだけいいですか」
小声だった。ソウはカウンターの仕切りから出て、ナナと並んで壁際に移動した。
「どうしたの」
「今日も……確認したんですけど」
ナナは言葉を選ぶように一度口を閉じた。それからまた開いた。
「能力、使ってないんです。今週ずっと。ちゃんと気をつけて」
「そうか」
「でも朝のニュース見たら、また増えてて」
ソウはそれに、すぐには返事ができなかった。
「……増えてたな」と、でも正直に言う。
「私が使ってないのに、増えるじゃないですか」
「うん」
「それって、もう……止められないってことですよね」
ナナの声は震えていなかった。震えていないのに、何かが震えているような気がした。
ソウは少し考えてから、「ミオさんに聞いてみよう」と言った。
「でも、ミオさんもわかんないんじゃないかな、って」
「聞かないとわかんないし」
「…うん」
「昼休憩、全員いるから」
ナナはしばらく黙って、「うん」ともう一度言った。今度の「うん」はさっきより少し重かった。
昼休憩、全員がバックヤードに集まった。
ミオの弁当——豚の生姜焼きとひじきの煮物——が六人分、テーブルに並んだ。カイが最初に蓋を開けて「うまそう」と言い、テルが目を細めた。
ナナがソウを見た。
ソウは頷いた。
「ミオさん」とソウが口を開いた。「ちょっと確認したいことがあって」
ミオは箸を持ったまま、「うん」と返した。先を促すような目で。
「能力を使っていない期間でも、副作用の現象って出るものですか」
テーブルの空気が、少し変わった。カイが咀嚼をやめる。テルが目を開ける。レイが箸を置く。
ミオはすぐに答えなかった。
「ナナが今週ずっと使ってないのに、朝のニュースでまた増えてたって」
「……そう」
「蓄積されていくとか、そういう仕組みですか」
ミオはしばらく、テーブルの上のタッパーを見ていた。
「正確には」と、ゆっくり言った。「蓄積というより、ズレが広がる、というイメージが近いかもしれない」
「広がる」
「紙を一枚破ったとして。最初の裂け目は小さい。でも一度ほつれると、力を加えなくても広がっていく」
誰も何も言わなかった。
「今は、そういう段階に来ているかもしれない」
カイが、「じゃあ、俺たちが全員能力を使うのをやめても……」と言いかけて、止めた。
ミオが静かに言う。「わからない」
「わからない、か」
「正直に言うと、わからない。止まる可能性もある。止まらない可能性もある」
「どっちが高いんですか」とナナが聞いた。
ミオは少し間を置いた。「……今のところは、後者かもしれない」
ナナが小さく息を吐いた。震えていない声で、「そっか」と言った。
テルが「まあ」と呟いた。全員がテルを見た。
「なるようになる、って最近あんまり言えないんだけど」
テルはそのまま続ける。
「なるようになってほしくないことも、あるから。でも」
少し間があった。
「今日、ミオさんの弁当うまいから、そこはなるようになってる」
カイが「なんだそれ」と笑った。
ミオが、静かに笑った。
「ありがとう、テル」
それからしばらく、誰も難しいことを言わなかった。生姜焼きを食べて、ひじきを食べて、お茶を飲んだ。レイが「ひじきの煮物、どうやって作るんですか」とミオに聞いて、ミオが丁寧に答えた。カイが「俺も今度作りたい」と言い出して、ナナが「カイさん、料理できるんですか」と驚いて、カイが「できる。できるんだよ。なんで驚くんだ」と少し傷ついた顔をした。
ソウは生姜焼きを食べながら、全員の顔を順番に見た。
怖いはずだ。
少なくともソウは怖い。止められないかもしれないという言葉が、胃のあたりに落ちてまだそこにある。
でもみんな、飯を食ってる。
それが変なのか、変じゃないのか、ソウには判断できなかった。ただ、そういうことなんだという気がした。弁当を食べることを止める理由がないから、食べる。それだけのことだ。
午後の業務が始まった。
三時頃、レイが担当していた客が帰ったタイミングで、ソウはカウンター越しにレイに声をかけた。
「調子どうですか」
「問題ありません」とレイはすぐに答えた。
「そういう意味じゃなくて」
レイが少し目を上げてソウを見た。
「個人的な意味で」とソウは言った。
レイはしばらく考えた。考える時間が、いつもより少し長かった。
「私は」とレイが言い始めた。「何かを恐れる仕様なのかどうか、よくわからないんです」
「え」
「恐ろしいと感じているのかもしれないし、そう感じていないのかもしれない。区別がつかない」
「それが一番つらくないですか」
「……どうでしょう」
レイは少しだけ目を細めた。
「でも」と続けた。「さっき昼食の時間があってよかったと思いました。それはわかります」
ソウは「それはよかった」と言った。
レイが「はい」と言い、またカウンターを整え始めた。
そのとき、店のドアが開いて、常連のおじいさんが入ってきた。
紺色の服を着た、あの人だ。毎週来る。スマホの使い方を聞く。ソウが担当すると決まったように向かってくる。今日もそうだった。
「やあ」と言いながら、ソウの前のカウンター席に座る。
「いらっしゃいませ。今日は何のご相談ですか」
「写真の整理が、うまくできなくて」
「承知しました。お見せもらえますか」
老人はゆっくりスマホを取り出した。渡す前に、ひと呼吸おいた。
「ところで」
「はい」
「今日は、全員いるのかね」
ソウは一瞬、答えに詰まった。
「……はい、全員います」
老人は「そうか」と言った。それだけ言って、スマホをソウに渡した。
「写真が、多くなりすぎてね」
「確認しますね」
ソウは画面を見た。でも頭の一部が、さっきの言葉に引っかかったまま離れなかった。
——全員いるのかね。
どういう意味だ。常連の客が聞く言葉か、それは。
「……気のせいか」
「何か言いましたか」とおじいさんが聞いた。
「いえ、なんでもないです。では写真フォルダを開きますね」
おじいさんはうん、と言って、ソウの手元を静かに見ていた。
夕方、退勤前のバックヤード。
着替えながら、ナナが「明日も来ます」と言った。
「当たり前だろ」とカイが言う。
「なんか、言いたくなっちゃって」
テルが「俺も来る」と言った。
「俺もって感じじゃないんだよテルは、毎日シフト入ってるんだから」
「同じことだよ」
レイが荷物をまとめながら、「私も来ます」と言った。どこか少しだけ、いつもと違う声音だった。
ミオが最後に、空になったタッパーをバッグにしまいながら「明日の弁当は、何がいい?」と聞いた。
「なんでもうまい」とカイ。
「なんでもいいです」とナナ。
「秋刀魚」とテル。
「季節じゃないですよ」とレイ。
「じゃあ鮭で」
「わかった、鮭にする」
ソウは荷物を持って、裏口の方に向かいながら振り返った。
五人が、それぞれのペースで帰り支度をしている。
変な人たちだ、とソウは思った。全員、絶対に変だ。
でも今日も六人だった。昨日も六人で、一昨日も六人だった。
それがソウには、なぜかまだちゃんとある、という感じがした。
「じゃあ、また明日」
ソウが言うと、ばらばらとした声で「また明日」が返ってきた。
裏口のドアを閉める直前、ポケットの中のスマホが震えた。
ニュースのプッシュ通知だった。
——北海道東部で、地面の一部が陥没。約五十メートル四方。原因調査中——
ソウはそれを見て、少しだけ止まった。
それから、ドアを閉めた。
明日も六人分の弁当が来る。そのことだけを、とりあえず思った。




