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アップデートしてください。〜うちのバイト先、なんか変な人しかいないんですけど〜  作者: ハル
このバイト先、なんか変じゃない?

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第43話「砂が、消えた日に」

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テレビの音がバックヤードまで届いていた。


「――千葉・内房沿岸の砂浜消失について、国土交通省は原因調査を開始すると発表しました。専門家の間では海底地形の変動との関連を指摘する声もありますが――」


神崎ソウはその声を聞きながら、空になった弁当箱を眺めていた。


二百メートル。


昨日の夜まであった砂浜が、朝には二百メートル分なかった。そういうことが、最近は珍しくなくなっていた。


「なんか変じゃない?」とソウは言いかけて、やめた。


変だった。明らかに変だった。「気のせい」で流せる量を、とうの昔に超えていた。



 



午後一時を回ったころ、レイがバックヤードから出ていった。


「カウンターに戻ります」


それだけ言って、スーツの上着を整えながらドアを閉める。いつもの氷室レイだった。完璧な立ち姿で、乱れた様子はどこにもない。


残されたのはソウとナナとカイとテルと、それからミオだった。


ミオは空になった弁当容器を丁寧に重ねながら、「今日は少し早く帰してあげようかな」と言った。


「え、いいんですか」ナナが顔を上げた。目元がまだ少し赤かった。


「よくはないけど」ミオは苦笑した。「でも昨日から全員、ちゃんと休めてないでしょう」


カイが腕を組んで天井を見た。「俺は大丈夫だけど」


「嘘つかなくていい」とテルが即答した。


カイは口をつぐんだ。


ソウは弁当箱のふたを閉めながら、みんなの顔を順番に見た。全員、どこか目の奥が疲れていた。普段は気にならないのに、今日は見えた。


「砂浜って、もう戻らないんですか」


声に出すつもりじゃなかった。でも出てしまった。


ミオが少し間を置いた。


「消えたものが戻った例は、今のところない」


それだけだった。それ以上は続かなかった。



 



午後のシフトは、拍子抜けするほど静かだった。


客が一人、二人、ぽつぽつと来ては帰っていく。料金プランの相談、機種変更の手続き、データ移行のサポート。どれもいつもと同じ光景で、ソウはそれをこなしながら、「ああ、今日も世界は普通に動いているんだな」と思った。


思って、すぐに修正した。


普通じゃない。砂浜が消えた日の普通は、たぶん普通じゃない。


「神崎くん、五番カウンター、次入れますか」


レイの声だった。振り返ると、彼女がタブレットを持ってこちらを見ていた。業務連絡、完全にいつもの顔だった。


「あ、はい。入れます」


「ありがとうございます」


それだけで、レイは別の客の対応に戻った。


ソウは五番カウンターに向かいながら、さっきのレイの言葉を思い出した。


――怖さを仕様に組み込む。


そういう生き方を、彼女は参考にしたいと言っていた。ミオの生き方を。


ソウには、それがどういうことなのか、まだよくわからなかった。でもなんとなく、レイが今ここで普通に仕事をしているのは、そういうことなのかもしれないと思った。



 



三時を過ぎたころ、謎のおじいさんがやってきた。


白髪で、背が少し丸まっていて、携帯電話をズボンのポケットに突っ込んでいる。毎週来る常連で、「スマホの使い方を教えてほしい」というのが毎回の用件だった。


ソウが「いらっしゃいませ」と立ち上がると、おじいさんは「ああ、君か」と言って椅子に座った。


「今日はどこが分からないですか」


おじいさんはしばらく端末をごそごそ触ってから、「写真が消えとった」と言った。


「消えた?」


「昨日まであったのに、今日見たらなかった」


ソウはタブレットを引き寄せた。「見せてもらえますか」


端末を受け取って確認すると、アルバムにはたしかに空白があった。サムネイルだけが残っていて、画像が読み込めない状態になっている。


「クラウドの同期がうまくいってないかもしれないですね。設定を一緒に確認しましょうか」


「消えたものは戻るかね」


ソウは手を止めた。


おじいさんは端末のほうを見ながら言っていた。別に深い意味はないのかもしれない。写真の話をしていただけかもしれない。


「……クラウドに残っていれば、戻ります」


「残っていなければ?」


「残っていなければ、難しいです」


おじいさんは「そうか」と言って、少し目を細めた。「なんでも残っておればいいんじゃが、そうもいかんな」


「そうもいかないですね」


ソウは設定画面を開きながら、どこかそわそわしていた。この人は毎回こういうことを言う。本当にただの常連客なのか、ソウにはずっとよくわからなかった。


「あのう」ソウは画面を見ながら口を開いた。「最近、ニュース見てますか」


「見とるよ」


「砂浜が消えたって話、聞きましたか」


「聞いた」


「なんか、変じゃないですか」


おじいさんはしばらく黙ってから、「変と言えば変じゃな」と言った。「でも、変じゃないと言えば変じゃないかもしれん」


「どっちですか」


「両方じゃろ」


ソウは諦めた。この人と話しているといつもそうなる。答えが返ってくるようで、返ってこない。


クラウドの同期を再設定して、写真が一枚ずつ復元されていくのを二人で眺めた。


「戻ってきた」おじいさんが言った。


「よかったです」


「そうじゃな」おじいさんは端末を受け取りながら、ソウの顔をちらりと見た。「君は、よく気がつく」


「そうですか」


「そうじゃ」


それだけ言って、おじいさんは椅子から立ち上がった。「また来る」と言って、ポケットに端末を突っ込んで、出口に向かった。


ソウは見送りながら、「……気のせいか」と小さく呟いた。


気のせいにしないで済む人間がそばにいた方がいい、とレイが言っていた。


あのおじいさんは、何を気のせいにしないで見ているんだろう。



 



四時半のシフト交代前、ソウはバックヤードでコートを羽織っていた。


テルが棚の前で仁王立ちをしていた。


「何してるの」とソウが聞くと、テルは「確率の確認」と言った。


「何の確率?」


「このコップが棚から落ちない確率」


見ると、テルの目の前のプラスチックコップが、棚の端ぎりぎりに置かれていた。


「普通、それって落ちる確率を上げた方が面白くない?」


「落ちると後片付けが面倒」


「……」


テルはじっとコップを見つめて、それから「落ちないな」と言ってコップを棚の真ん中に戻した。


「今、能力使ったの」ソウが聞いた。


「少しだけ」


「……また何か消えるんじゃない」


テルはそれを聞いて、ほんの少し表情を変えた。笑っているようで、笑っていない顔だった。


「わかってる」


「じゃあなんで」


「わかってても、なるようになることとならないことがあって」テルは壁にもたれかかった。「コップが落ちないことは操作できる。でも砂浜が消えることは止められない。それが俺の能力の範囲」


ソウは黙って聞いていた。


「コップが落ちないのを確認するとき、ちょっとだけ、何かが自分の手の中にあるみたいな気がする」


「それ、大事にしてる感じ?」


「うん」テルはあっさりと言った。「なるようになるって言うけど、全部なるようになってほしいわけじゃないから」


ソウはコートのチャックを上まで閉めた。


「テルって、意外と繊細だよね」


「言わなくていい」


「いや、言う」


テルは軽くそっぽを向いた。耳が少し赤かった。



 



帰り際、ソウはカウンターでコートを着ているレイに声をかけた。


「氷室さん、帰りますよ」


「はい」レイが振り向いた。「今日はお疲れ様でした」


「こっちの台詞ですよ」


二人で並んで出口に向かいながら、ソウは少し迷ってから口を開いた。


「砂浜のこと、気になってますか」


レイは少し歩調を落とした。


「気になってはいます」


「ミオさんが言ってた、あの話」


「消えたものが戻った例はない、という話ですね」


「そうです」ソウは自動ドアの前で立ち止まった。「俺、今日ずっと考えてたんですけど、なんで消えるのかわかってても、どうしたらいいか全然わからなくて」


「それは、私たちも同じです」


「でも氷室さん、今日ちゃんと仕事してたじゃないですか」


「していましたね」


「それって、どうやって」


レイはドアを抜けながら、少し考えた。


「今日の仕事をしないと、今日の客が困るからだと思います」


「それだけですか」


「それだけです」


シンプルすぎて、ソウは笑いそうになった。


「氷室さんって、たまにすごいこと言いますよね」


「そうですか」


「そうですよ」


外は夕方で、空が薄橙色に染まっていた。寒かった。砂浜が消えた日の空は、それでも普通に夕焼けだった。


レイは少し立ち止まって、空を見上げた。


「神崎くん」


「はい」


「砂浜が消えた分、海はどこへ行ったんでしょう」


ソウは黙った。


そんなこと、考えたことがなかった。消えた、という事実ばかり見ていて、どこへ行ったかを考えていなかった。


「……わかんないです」


「私もわかりません」レイは視線を空から戻した。「でも、気になっています」


「なんか変じゃないですか、それって」


「変ですね」レイは静かに言った。「ですが、気になります」


ソウはその横顔を見た。クールで、完璧で、普段は何も揺れない顔が、今だけ少し遠くを見ていた。


「氷室さんも、怖いですか」


レイはしばらく黙っていた。


「少し待ってください」


「あ、待ちます。待ちます全力で待ちます」


ソウが即座に三歩下がって壁の方向を向くと、レイが「違います」と言った。


「え」


「脱がないです。今は」


「……そうですか」


「答えを考えていただけです」


ソウはゆっくりと向き直った。レイは表情を変えずに立っていた。


「怖いかどうか、ですが」レイは一拍置いた。「仕様に組み込んでいる最中です」


「現在進行形?」


「現在進行形です」


ソウはそれを聞いて、なぜかほっとした。氷室レイも、まだ組み込み中だった。


「一緒ですね」とソウは言った。


「そうかもしれません」


二人は並んで歩き出した。夕焼けが濃くなって、影が長く伸びていた。



 



帰り道、スマホに速報が入った。


画面をちらりと見る。


【速報】岩手県沖で震度3の地震。また震源の特定に時間がかかっており、気象庁が原因を調査中――


ソウはそれをスクロールして、ポケットにしまった。


最近、地震の震源がうまく特定できないことが増えていた。


「……気のせいか」


ひとりごとだった。


でも今日は、「気のせいにしないで済む人間がそばにいた方がいい」というレイの言葉がすぐに浮かんだ。


明日、みんなに話そう。そう思いながら、ソウは夜の道を歩いた。


砂浜の消えた日は、こうして終わった。何か変わったようで、何も変わっていなかった。あるいは何も変わっていないようで、何かが少しずつ変わっていた。


明日のシフトには、ナナが三十秒遅刻してくる予定だった。たぶん。

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