第42話「お昼にしよう、と言われても」
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「まずお昼にしよう」
朱雀ミオがそう言った瞬間、バックヤードの空気が三秒ほど止まった。
誰かに謝ればいいのか、という問いを宙に残したまま、御堂カイが壁にもたれて天井を向いていた。日向ナナは目元を指の腹で拭って、でも泣いていないふりをした。霧島テルは膝を抱えて床に座ったまま動かなかった。氷室レイはずっとテルの地図を見ていた。
神崎ソウは全員の顔を見渡した。
「……お昼」
「そうです」とミオは繰り返した。「十二時を過ぎています。食べないと動けません」
カイが首だけ戻してミオを見た。
「今それを言う?」
「今だから言います」
ミオは棚の下に置いていた風呂敷包みを取り出した。手際よく広げると、中から六段重ねのタッパーが出てきた。毎朝三時半に起きて作る、あの弁当だ。今日は七つじゃなくて六つだと、ソウは数えながら思った。いや、前の話だったか。頭が混乱しているのがわかった。
「ナナ、これ」
ミオが一つ手渡す。
ナナは受け取って、でもすぐには開けなかった。蓋の縁を指でなぞって、
「……ミオさん、怒ってないですか」
「なにに怒るんですか」
「私が、能力を止めてれば」
「止めてても止めなくても、同じだったかもしれない」
ミオの言い方はやわらかかったが、言葉の芯は折れていなかった。
「テルが調べてくれましたよね。能力だけが原因じゃない、って。だったら誰かを責める前に、まず今日を生きる方が先です」
テルが顔を上げた。
「……ミオは、怖くないの」
「怖いです」
即答だった。テルが少し目を丸くした。
「怖いですよ」とミオは続けた。「ずっと、長いこと怖かった。ただ、怖いまま弁当を作ることはできます。怖いまま開店することもできます。そういうことを、長くやってきました」
誰も何も言わなかった。
ソウは自分に渡された弁当を受け取って、蓋を開けた。卵焼き、鮭の塩焼き、ほうれん草のおひたし。ちゃんと三種類入っていた。
「いただきます」
声に出したのはソウだけだった。でも、それを聞いてナナが小さく笑い、蓋を開けた。テルが「いただきます」と呟いた。カイが「……いただきます」と続けた。レイが最後に静かに箸を取った。
七分後、バックヤードはそれなりに生き返っていた。
「卵焼き、甘い」
ナナが言うと、ミオが「今日は砂糖を少し増やしました」と答えた。
「なんで」
「甘い方がいい日だと思ったので」
カイが鼻で笑った。でもそれは嘲笑じゃなかった。
「ミオってさ、なんで毎日弁当作れんの。疲れないの」
「作るのは好きです」
「好きだけで三時半に起きれる?」
「好きだけで起きられます」
「それが一番意味わかんない」
「カイは好きなことはありますか」
カイが黙った。少し間があって、
「……俺はまあ、こういう場所、嫌いじゃないけど」
「この職場、ということ?」
「こういう、みんなでなんか食ってる時間、みたいな」
言ってからカイは「いや気にしないで」と手を振ったが、誰も茶化さなかった。
ソウはほうれん草を口に入れながら、そういえばカイがこういう話をしたのを初めて聞いた気がすると思った。
「カイって、ナルシストポジじゃなかったっけ」
「ポジとか言うな。本物だから」
「本物が弁当の話で素直になってる」
「なってない」
「なってる」
「……なってたとしてもそれはお前には関係ない」
テルがそのやりとりを黙って聞きながら、炊き込みご飯をゆっくり食べていた。食べながら、ぽつりと言った。
「俺さ、昨日の海岸、一人で行ってよかったと思ってる」
全員が少しテルの方を見た。
「見ないでよかったと思ってたけど。でも見てよかった。あのまま知らなかったら、もっと怖かった気がする」
ソウはテルを見た。
「それ、怖くなかったの」
「怖かった。すごく怖かった。穴、思ってたより深かったし」
「何メートルくらい」
「三メートルか四メートル。でも周りの草が全然乱れてなかった。穴だけがすっぽりあった。自分が作ったって信じたくなかったけど、形が俺の使い方と一致してた」
静かだった。
「それでも」とテルは続けた。「ミオに見せることができたから。ちょっとだけ楽になった。一人で知ってるより、六人で知ってる方が、なんか、軽い」
ミオが静かにうなずいた。
「教えてくれてよかった」
「さっきも言った」
「また言いました」
テルが小さく笑った。本当に小さく、だけどちゃんと笑っていた。
午後一時をすぎて、バックヤードを出た。
開店準備を整えてカウンターに入ると、ショールームはまだ客がいなかった。ソウはカウンターの端に立って、天井のテレビを眺めた。
地域ニュースが流れていた。
「——本日、千葉県の内房沿岸で、砂浜が約二百メートルにわたって消失しているのが確認されました。地元漁師からの通報で判明したもので、国土地理院が調査を開始しています。同様の現象は——」
ソウはテロップをしばらく眺めた。
砂浜が消える、というのが、どういう状態なのか少し考えた。砂が海に流れた、ということじゃない。砂浜ごと、消えた、ということらしかった。
「……砂浜、ってなくなるもんだっけ」
ひとりごとのつもりだったが、隣にレイが立っていた。
「侵食であれば起こります」レイは正面を向いたまま言った。「ただ、一晩で二百メートルというのは、通常ではありえない速度です」
「じゃあ侵食じゃない」
「おそらく」
ソウはレイを横目で見た。レイはいつも通りだった。長い髪がきれいに整っていて、スーツにシワがなかった。
「レイって、今、何を考えてるの」
「砂浜のことです」
「それ以外で」
少し間があった。
「ミオが言ったことを、考えています」
「どれ」
「怖いまま弁当を作ることはできる、という部分です」
ソウは前を向いた。
「共感したの」
「共感、というより」レイは少し間を置いた。「参考にしようと思っています。私が仕様として動くとき、怖さは関係ないと思っていました。でも」
「でも?」
「ミオは怖いまま動いてきた、と言っていました。ずっと長く。それは」
レイが言葉を止めた。
ソウは待った。
「……それは、怖さを仕様に組み込んでいる、ということかもしれない、と」
「レイにしては難しい顔して言うね」
「難しい話です」
「まあ」
ソウはカウンターに肘をついた。
「俺はあんまり難しく考えてないけど、ミオが弁当作れる人でよかったと思う。今日は特に」
「同意します」
「レイが同意すると説得力ある」
「なぜ」
「なんか、レイってあんまりすぐ同意しないから」
レイがわずかに眉を動かした。感情表現としては大きい方だった。
「私は、正しいと思ったことには同意します」
「それが結構厳しいんだよ」
「そうですか」
「そうだよ」
自動ドアが開いた。白髪の老人がゆっくり入ってきた。
ソウはすぐに立ち上がった。
「いらっしゃいませ」
老人はいつもの席に向かった。窓際の、陽当たりのいい場所だ。毎週来る、スマホの使い方を聞く常連のおじいさんだ。
ソウは接客に入った。
「今日はどうしましたか」
「ん」老人は席に腰を下ろして、スマホを取り出した。「写真が消えておってな」
「消えた、というのはどのあたりから?」
「昨日の分がない。昨日、庭の写真を撮ったはずなんじゃが、フォルダを開けても入っとらん」
ソウはスマホを受け取って確認した。ストレージの空き、同期の状況、バックアップの設定。一通り確認したが、特に不具合はなかった。
「昨日、何時頃に撮りましたか」
「昼ごろじゃったと思うが」
「端末の動作は問題ないので、撮影後に何か操作されましたか」
「いや、何もしとらん。撮って、そのままにしておいたはずじゃが……」
ソウはもう少し調べた。削除履歴を確認しようとしたが、アプリの操作ログが昨日の十一時から昼過ぎにかけて、完全に空白になっていた。
「……なんか変じゃない?」
思わず口に出した。
「え?」
「いや、すみません、端末の話じゃなくて」
老人がソウを見た。
その目が、少し面白そうだった、と後から思った。ただのおじいさんの顔なのに、なぜかその瞬間、ソウは少しだけ背筋が伸びた。
「まあ、機械のことはわからんからな」
老人は静かに言った。
「そのうち戻るかもしれんし、戻らんかもしれん。どっちにしても、庭はあるから」
「……そうですね」
「写真がなくなっても、庭は消えんからな」
老人は立ち上がって、スマホを受け取った。
「ありがとう」
「またいつでも来てください」
老人は出口に向かいながら、なぜかふと立ち止まって振り返った。
「……最近、ニュースが多いな」
ソウはその言葉が引っかかった。
「そうですね」
「変なのが多い」
「……ですね」
「まあ」老人はまた歩き出しながら言った。「それでも毎日開くもんじゃ、店は」
自動ドアが開いて、老人が出ていった。
ソウはしばらくドアを見ていた。
「……気のせいか」
後ろからカイの声がした。
「ソウ、それ何回目?」
「何が」
「『気のせいか』。今日だけで四回聞いたぞ」
「数えてたの」
「暇だから」
ソウは振り返った。カイが腕を組んで壁にもたれていた。
「気のせいじゃないかもしれないけど」とソウは言った。
「じゃあ何なのよ」
「わかんない。でも、あのおじいさん、なんか変だった」
「どう変?」
「……うまく言えない」
カイが肩をすくめた。
「まあ、このバイト先、変な人しかいないから」
「お前含めて」
「俺は正常だ」
「自分の体重だけ操作できない人が?」
カイが固まった。
「……それを言うな」
ソウは小さく笑った。
「今日の弁当、おいしかった」
「急に話変えるな」
「変えたくなった」
カイはしばらく黙っていたが、最後にぼそりと言った。
「……まあ、おいしかったな」
夕方のシフトが終わる頃、バックヤードでミオが荷物をまとめていた。
ソウはロッカーを閉めながら聞いた。
「明日も弁当ありますか」
「あります」
「甘い卵焼き?」
「明日は普通の甘さに戻します」
「今日のでよかったのに」
「甘すぎると飽きます」
ソウはバッグを肩にかけた。ミオが立ち上がりながら、
「ソウさん」
「はい」
「今日、声をかけてくれてよかった。みんなを集めてくれて」
「俺は別に、ナナが来てくれたから」
「それでも、声を出せる人がいないと、みんなバラバラのままでした」
ソウは少し考えた。
「俺、正直まだ整理できてないです」
「整理しなくていいです」
「え?」
「整理できるまで待てないこともあります。整理できないまま動いた方が早いことがある」
「それ、ミオのやり方ですか」
「長くやってきた方法です」
外が暗くなっていた。
ソウはドアを開けて、外の空気を吸った。秋の夜で、少し冷たかった。
遠くの空に、星がいくつか出ていた。
「……今日も星、あるな」
「そうですね」とミオが隣で言った。
ソウはその言い方が少し気になった。「今日も」という自分の言葉を繰り返されたのが。
だが、うまく質問が出てこなかった。
「おつかれさまでした」
「おつかれさまです」
ミオが先に歩いていった。
ソウは夜空をもう少し眺めた。
「……気のせいか」
また言ってしまった。カイに聞かれたら今日五回目だと言われる。
でも、星の数が、昨日より少ない気がした。
数えたわけじゃない。ただ、そんな気がした。
ソウはバッグを持ち直して、歩き出した。
明日もたぶん、ミオが弁当を持ってくる。テルがじゃんけんで勝つ。ナナがギリギリで来る。カイがどこかで重力をずらす。レイが「少し待ってください」と言う。
そういう一日が、また来る。
それが、今のソウには少しだけ、ありがたかった。
翌朝、ソウがバイト先に着くと、バックヤードのテレビが点いていた。
誰かが見ていた形跡はなかった。
「——昨夜、北海道の稚内沖で、海面が約百メートルにわたり陥没しているのを漁船が確認。専門家は『前例のない現象』と述べており——」
ソウはテレビを消そうとして、手を止めた。
テーブルの上に、ミオの字でメモが置いてあった。
今日の弁当、少し多めに作りました。もしかしたら必要になるかもしれないので。
ソウはメモを見て、弁当の数を数えた。
七つあった。
六人なのに、七つ。
「……なんか変じゃない?」
答える人はまだ誰もいなかった。




